五王戦国志2 落暉篇 井上祐美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)〈奎《けい》〉国が |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)無理|強《じ》い [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)あれ[#「あれ」に傍点] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/02_000.jpg)入る] 〈カバー〉 著者のことば  最初から仕組んでおいたものでも、ひとつの国を瓦解させるためには相当なエネルギーが必要でした。架空のものでさえ、このありさまです。本物の歴史の偉大さを感じると同時に、自分の不遜さに、今さらながらあきれ果てるこのごろ。もっとも、深刻になってもしかたありません。とりあえず、お楽しみください。 〈奎《けい》〉国が奇襲により、〈衛《えい》〉国を大破した巨鹿関《ころくかん》の戦いから半年。〈魁《かい》〉国の和議によって一旦は保たれた中原の秩序だが——。太宰・冰子懐《ひょうしかい》を通じ〈魁〉国の実権を握ろうと謀る〈征《せい》〉公・魚支吾《ぎょしご》。短期に力を回復し、中原の表舞台へ討って出んとする〈衛〉公・耿無影《こうむえい》。興隆する時代の勢いはとどめようもない。各地に広がる不穏な噂に、奇怪な天変地異。〈魁〉国の滅亡は天意なのか? 中国ヒロイック・ファンタジー待望の第二弾! [#改ページ]  五王戦国志2 落暉篇 [#地から1字上げ]井上祐美子 [#地から1字上げ]C★NOVELS [#地から1字上げ]中央公論社 [#地から1字上げ]挿画 小林智美   目  次   序  第一章 十里霧中  第二章 白虹  第三章 流星変  第四章 死戦  終 章 覇者の時代   あとがき [#改ページ]  主な登場人物 耿淑夜《こうしゅくや》 [#ここから3字下げ] 元〈衛〉の上卿の子。一族の仇である堂兄・無影の暗殺に失敗。逃亡中、羅旋にひろわれ、尤家にかくまわれる。怪我のために、左脚が不自由。 [#ここで字下げ終わり] 赫羅旋《かくらせん》 [#ここから3字下げ] 西方の戎族出身の遊侠。元〈魁〉の戎華将軍・赫延射の子。豪放磊落で胆力にすぐれるが、華の礼や常識を無視する傾向にある。 [#ここで字下げ終わり] 尤暁華《ゆうぎょうか》 [#ここから3字下げ] 〈魁〉の都・義京の富商・尤家の女当主。羅旋の古い知人。女ながら、大国を相手に商売をとりしきる一方、羅旋たちを背後から援助。 [#ここで字下げ終わり] 壮棄才《そうきさい》 [#ここから3字下げ] 羅旋の配下で、謀士(参謀)役。無口で、無表情。淑夜を敵視。 [#ここで字下げ終わり] 莫窮奇《ばくきゅうき》 [#ここから3字下げ] 通称・五叟先生。仙術を能《よ》くし学識に秀でているが、一面、傲慢で気まま。 [#ここで字下げ終わり] |野 狗《やく》 [#ここから3字下げ] 羅旋を頭領とあおぐ侠たちのひとり。夜盗を生業とする。腕はたしか。 [#ここで字下げ終わり] 夏長庚《かちょうこう》 [#ここから3字下げ] 〈魁〉王。実権はなく、象徴的な存在。年齢よりも老けて見え、無為に日々をおくる。 [#ここで字下げ終わり] |揺 珠《ようしゅ》 [#ここから3字下げ] 嬰児のころに〈魁〉の王太孫の妃となるが、死別。離宮・寿夢宮でひっそりと暮らしている。〈琅〉公の妹で、〈魁〉王の姪の娘にもあたる。 [#ここで字下げ終わり] 冰子懐《ひょうしかい》 [#ここから3字下げ] 〈魁〉の太宰(大臣)。〈征〉公と手を結び〈魁〉の実権をにぎる一方、新〈衛〉公とも通じて保身をはかる。 [#ここで字下げ終わり] 耿無影《こうむえい》 [#ここから3字下げ] 淑夜の堂兄。みずからの一族を犠牲にして、〈衛〉公位を簒奪。政治的な手腕はあるが、性、狷介で人望がない。 [#ここで字下げ終わり] |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》 [#ここから3字下げ] 無影のおさななじみで、〈衛〉国一の美女。無影の公位簒奪後、〈衛〉の後宮へ納められる。 [#ここで字下げ終わり] |百 来《ひゃくらい》 [#ここから3字下げ] 〈衛〉の老将軍。無影の才能を評価して、軍事面での信頼をうける。 [#ここで字下げ終わり] 段之弦《だんしげん》 [#ここから3字下げ] 〈奎〉の老伯。〈魁〉王家の姻戚にもあたる。時代を見通し、羅旋らに理解を示す。 [#ここで字下げ終わり] 段大牙《だんたいが》 [#ここから3字下げ] 〈奎〉伯の三公子で、嗣子。羅旋とは旧知の間柄。闊達果敢な武人だが、思慮もある。 [#ここで字下げ終わり] 魚支吾《ぎょしご》 [#ここから3字下げ] 東方の大国、〈征〉の公。壮年の美丈夫。辣腕の持ち主であり、野心家でもある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#挿絵(img/02_007.png)入る]  五王戦国志2 落暉篇      序  五王という時代を論じるとき、その名となった五人には諸説がある。  まず、五人の中に、〈魁《かい》〉の衷王《ちゅうおう》を数える場合がある。非常に一部の説ではあるが、時代の混乱が彼の治世中にはじまっていたことを考えれば、かならずしも無理な考え方ではない。  同様に、〈魁〉の太宰《たいさい》、冰子懐《ひょうしかい》を旬王《じゅんおう》と謚《おくりな》して、五王のうちに数える者もあるのだが、これは皮肉だと考えた方が妥当だろう。  旬というのは、彼が実権をにぎった期間が旬日(十日)にすぎないという意味であるからだ。  さらに、冰子懐は前王からその位を譲られたこともなければ、大典の儀をおこなったわけでもない。その資格もなく、ただみずから、そう称したのみである。  しかも、彼が王位を奪ったのは、はじめから明確な意図があったからではなく、むしろ状況においつめられて、弑逆《しいぎゃく》の大罪を犯したのだと、後年の記録から判明している。この意味で彼は、末期にあわただしく王を自称した、小国主たちと同等に考えられるべきであろう。そして、同様な意味で王の名にふさわしいのは、むしろ、〈征《せい》〉公、魚支吾《ぎょしご》であった。  異姓であるが、彼を夏氏の王とし、〈魁〉のあとを継ぐものとする説は、支吾が〈魁〉王の落胤《らくいん》をよそおったことによる。もっとも、これは事実ではなく、また支吾自身もみずからはそう主張したことは一度もない。周囲の者も、それを知っていながら、暗黙のうちに夏氏のあとを継ぐ資格ありとみとめたのだった。  どちらにせよ、五王の時代とは、血筋によらず実力で覇を競いあった、漢《おとこ》の時代であったことにはちがいはない。そして、最後の覇者とはなれなかった者にも、また王とならなかった者にも、等しく過酷であり、同時に輝かしい時代でもあった。 〈魁〉の衷王、十六年の春は、戦乱で幕をあけた。そして、さらに長い動乱の時代への序章となったのである。 [#改ページ]  第一章————————十里霧中      (一)  右を見ても左を向いても、白い霧の壁がつづいていた。 「うっとうしい、霧だ——」  払ってもぬぐっても顔や白髯《はくぜん》や鉄の札《さね》をつらねた甲《よろい》にまといつく水分に、百来《ひゃくらい》将軍は眉をけわしくひそめた。思いだしたくもない記憶が、また脳裏にうかびあがったからだ。  半年前、昨年の秋、〈奎〉国を攻めた百来たち〈衛《えい》〉国の軍は、開戦の早朝、同様の霧につつまれた。地形や気候からいえば、発生するはずのない霧だった。事実、それは左道《さどう》の術によって生みだされた目くらましであり、その混乱をついて突入してきた〈奎〉軍のために、〈衛〉軍は大きな打撃をうけた。  そればかりではない。その霧の罠を幸運にも早くのがれた者たちは、いつわりの敗走をする〈奎〉軍におびきだされ、巨鹿関《ころくかん》で伏兵に遭《あ》って、完膚《かんぷ》なきまでにたたきのめされているのだ。  十万の軍をひきいて征途《せいと》について、二万の兵をうしなった。のこりの八万は、ほぼ無傷だったとはいえ、これはちいさな損害とはいえるまい。  ちなみに、むかえ撃った〈奎〉は約二万を動員して、死者と負傷者をあわせても千人に満たなかったという。 (あれは、あきらかに負け戦《いくさ》であった)  直後の〈魁〉宗室の仲介で和議が成立し、かろうじて面目はたもったものの、南方の大国をもって任じる〈衛〉が、歴史は古いが華《か》の中原《ちゅうげん》の小国のひとつにすぎない〈奎〉に一蹴《いっしゅう》されたという事実は変えようがない。  理不尽な戦をしかけたのは〈衛〉の方だったと、百来も承知しているが、だからといって負けた戦の記憶が愉快であるわけがない。 「——なんとかならぬか」  また、不快げにほほの水滴をぬぐって、百来は戦車の上から侍者に告げた。戦車自体も御者も、つながれた四頭の馬も馬具も、武威の象徴である旌旗《せいき》も、ひとつの例外もなくじっとりと湿っていた。おのれの声までが水っぽくなったような気がして、百来はさらに声を高くした。 「この霧、もうすこし薄くならぬものか。これでは、剣が錆びてしまう」 「これは、お味方のために作りだされた霧でございます。殿下のご命令である以上、どうにもいたしかた、ありますまい」  応えたのは、百来の配下のだれかのはずだったが、今の彼には答えの内容はどうでもいいことだった。 「わかっておる」  不機嫌そうに怒鳴りかえして、老将軍はふたたび前方の白い壁に視線をむけた。  ——半年前の霧は、彼らを惑わせるためのものだった。  今、百来たちの目をおおっているのは、敵の目をくらませるための霧だった。そして、この朝、〈衛〉国軍五万は、荊蕃《けいばん》とよばれる、〈衛〉よりもさらに南方の小国群の連合軍とむかいあっていたのだ。  彼らは、以前からたびたび〈衛〉の南辺に侵入しては、略奪をくりかえしていた。西方の戎《じゅう》のように組織的ではなく、荊蕃諸国のあいだでも争いが絶えなかったために、これまでの〈衛〉公はこちらから手を出すことを控えていた。  だが、昨秋の敗北を見て、新〈衛〉公の手腕をさしたるものではないと判断したのだろう。それとも、とんでもない知恵者がいたのか、使嗾《しそう》した者でもいたのだろうか、ここへきてにわかに団結し、〈衛〉国の南の国境、滔江《とうこう》を越えるうごきを見せはじめたのだ。  だが、その変化に気づかないような耿無影《こうむえい》ではない。以前からはなってある細作《さいさく》や、商人のうわさからそれと察知するや、すぐさま五万の兵を動員した。  そして、荊蕃にはわざと滔江を渡らせ、この柏陵《はくりょう》の野で対峙したのである。 「合図はまだか」  弩弓《どきゅう》の端をかるくたたいて、百来は急《せ》かした。その動作が戦車の台を伝わり、馬がかるく足ぶみをする。台車の中央に立った御者が手綱をひきしめなければ、数歩、走りだしているところだった。右士《うし》が体勢をくずして、あやうく戈《ほこ》をとり落としかけた。 「未《いま》だ——」 「なにをしている」 「将軍」  初めて戦場に出る若者のような性急さに、背後の部下が困惑しきった声でよびかけた。 「今しばらく、ご自重ください。急いて、物事がうまくはこんだ試しはありませぬ」 「——子遂《しすい》か」 「はい」  歯切れのよい返事が聞こえて、霧がうごく気配があった。百来の乗る戦車のすぐかたわらに、長身の青年の影があらわれて一礼した。動作につれて、金属の触れあう音が妙にうつろに聞こえた。 「どう思う」  と、百来はその影に問うた。当然のように、 「なにを、ですか?」  反問されて、百来は一瞬、ことばに詰まる。この周辺で待機しているのは、彼の血族と彼の領民ばかりであるが、だからといってうかつなことを口ばしってよいというわけではない。まして彼の仕える〈衛〉国主、耿無影《こうむえい》という男は、臣下が君主を批判するのを放置しておくような性格ではなかった。  ——こんな小細工をしてまで、戦をする意味があるのかどうか。  この戦の意義を問うたところで、二重の意味で答えられる者はいるまい。 「伯父上——?」  子遂とよばれた影が不審そうにふりあおいでくるのに、百来はいらいらといい返した。 「なんでもない」 「お身体の具合でも、悪いのでは」 「なんともないわい。年寄りあつかいをするな。ただ、な——」  口ごもりながらようやくゆるやかに視線をめぐらして、かたわらの青年の姿をとらえた。  伯父と呼ばれたが、実際はもっと血のつながりはうすい。従兄弟の孫だったか再従兄弟《またいとこ》の子だったか、とりあえず一族の内にあることはたしかだというほどの血縁関係である。ただ、幼いころに父親を失ったために、百来自身が手近にひきとって育てさせた経緯があって、伯父と呼びならわされているのだった。  長身の筋骨たくましい漢《おとこ》に成長し、武芸も学問も世間に出してはずかしくないほどに修めてきた。百来も、一族の未来を託す者としてなにかと目をかけてきたつもりだった。この戦に、側近として加えたのも、そのあらわれだった。  が——。  はたしてこの若者に、これからの時代を、一族を支えまもっていけるだけの技量があるかと問われたら、はなはだこころもとないと彼は答えざるを得なかっただろう。  確実に、時代はうごいている。現に、耿無影のように、これまでの規範や倫理をたやすく蹴やぶってのけるような人物があらわれている。主君を弑して一国をわがものとした耿無影の行為は、きびしく非難されるべきものだが、彼が暗君かといえば、かならずしもそうではない。  士大夫《したいふ》層の不満をおさえこみ、民人の支持をとりつけ、〈衛〉一国をゆるがせもしていない。それまでの〈衛〉公が政治をかえりみず、数人の寵臣だけに利権を独占させ、庶民のみならず、支配階級である士大夫《したいふ》たちにまで不平不満をいだかせていたのとは大きなちがいだ。  だいいち、昨年の秋にあれだけ手痛い敗北を喫しておきながら、翌春には余裕をもって軍をうごかせるほど短期間のうちに国力を充実させたのは、無影の手腕にちがいなかった。その手腕を、親子以上に年齢のはなれた百来は高く評価している。  そして——。 (——まだ、もっとあらわれる)  白い霧の壁をにらみながら、百来は胸の底でつぶやいていた。 (わしのような老人には、想像もつかぬような若い、奇才の所有者がもっとあらわれてくるにちがいない)  たとえば、昨年の秋に相手どった〈奎〉国太子、段大牙《だんたいが》のような——。  時代というものは、けっして才能を孤立させないものだと、彼は知っていた。ひとり傑出した人物が表舞台に登場すれば、それに呼ばれるように、またはりあうように、同様に非凡な者があらわれて競いあうものだ。  まだ、彼らは百来の目のとどくところには姿を見せてはいない。だが、ちょうどこの霧のむこうの敵の軍勢のように、やがてつぎつぎとたちあらわれるのではないか。いや、かならず、そんな時が到来する。 (だが、わしはその時代を、どこまで見とどけられるだろうか。わしの一族が生きのこり、どれだけのはたらきをして、史書に記されるものだろうか)  子遂も才能がないわけではないが、たとえば〈衛〉国主、耿無影にくらべればいかにも平凡といった観はまぬがれない。  その落胆が、吐息となって外へ出た。が、白い霧の中にまぎれて、すぐに見えなくなった。 「伯父上——」 「持ち場にもどれ。すぐに合図が——」  きびしくはりあげた声にかぶさって、霧をうちやぶって鼓《こ》の音が、彼らの耳朶《じだ》をはげしく撲《う》ったのだった。 「合図だ」  はっと、百来は弩《いしゆみ》をとりなおす。さらに甲のふところからひきだしたのは、拳よりもひとまわりちいさい水晶の玉だった。  それをのぞきこんで、なにやら確認すると、 「行くぞ——!」  老齢にはそぐわない、雄たけびをひと声あげたのだった。幾多の戦場できたえられた、錆びた声だった。それに対して、若い兵士たちのよくとおる喚声が、おお——と、いっせいにたちのぼる。  どよめきは霧をもうごかし、波のようにつぎつぎと軍全体に伝わっていった。  四頭の馬が、鞭をあてられて一気に走り出す。ほほを切る風の感触、たぎりたつ血のざわめきと飛来する矢羽がたてるうなりに、百来は、たちまちそれまでの鬱屈を忘れ果てていた。 「——いかがでございましょうかな、十里霧《じゅうりむ》の威力は」  ひくく地をはうような声音《こわね》でたずねたのは、痩せこけた老人だった。  開戦の合図の鼓《こ》が、ひととおり乱打されたあとである。一瞬、もどったしずけさの直後、怒濤のような喚声がこの高台にまで、文字どおりおしよせてきた。  ——それが、勝利の鬨《とき》の声に変わるまでに、さほど時間はかかるまい。  そんな自信をふくんだ、老人の問いかけだった。  背は人なみに高いが、手も足も骨ばかりで貧相で、身にまとっているまっとうな麻衣までもが襤褸《ぼろ》のように見えた。  一方、たずねられたのは、すらりとした長身の美丈夫である。みがきあげた鉄の小札《こざね》をびっしりとつらねた、ひときわ美々しい甲を身にまとっているのは、彼がこの〈衛〉軍の最高位にあることを示していた。  まだ二十歳代なかばの若い顔だちは、すこし線こそ細いものの端正とよぶには十分なほどにととのっていた。ただ、左ほほにひとすじ、うすい刀創《とうそう》のあとがあり、それが一種、凄絶な翳《かげ》となって彼の容貌を暗いものに変えているようだった。  老人に話しかけられて、白い傷あとがわずかに紅潮したが、端正な容貌には感情らしきもののうごきはなかった。  むろん、口をひらく気配もない。  それを、不服のあらわれととったのか、老人はさらにことばをつづけた。 「この霧は、おのぞみならば二刻(約四時間)以上も持続させられまする。その濃さも変幻自在でして、先年〈奎〉国がもちいたような、孩子《こども》だましのようなものとはくらべものにはなりませぬ。あの霧は五里四方かそこらの、ちゃちなものだったとか。それはおそらく、十中八、九、莫窮奇《ばくきゅうき》——みずから、五叟《ごそう》老人などと名のりおる奴めのしわざにちがいございませぬが、あやつの術など、某《それがし》にとっては初歩の初歩ばかり——」 「霧は霧だ」  老人の長広舌を、とつぜん、するどい声がさえぎった。 「役にはたたぬ」 「しかしながら、現にこうやって、戦の益となっております。霧の範囲も、もうすこしぐらいは広げることができまするし、移動させることも不可能ではございませぬ。もっとも困難なのは、いかに長く持続させるかで、これはもう強風などが吹きましてはいかんともできませぬが、それ以外でございましたら」 「やくたいもない」  ふたたび、ことばの剣が老人のことばを斬《き》ってすてる。 「は——?」 「しょせんは、目くらましにすぎぬ。おなじ手をおなじ敵には、もう使えぬ。いや、ちがう対手にも二度とは通じぬだろう。霧を目かくしにするのは、これが最後だ」 「それは、また、何故」  不満に声をとがらせたのは、老人の方だった。 「冉神通《ぜんしんつう》」 「は——」 「私に、何故とたずねぬことだ」 「それは……」  と、いったんは反論をしかけた老人だが、なおもきびしい表情をくずさない若い横顔に、ことばを呑《の》んだ。 「かしこまりましてございます、殿下」  うわ目づかいに顔色をうかがって、あっさりとひきさがった老人に、耿無影ははじめて、満足そうにちいさくうなずいてみせた。  ただし、視線はとおく、霧の彼方へむけられたままである。その手にさっきからもてあそばれているのは、百来将軍の手にあったのとおなじ水晶玉だった。  それをどういう気まぐれか、不意に彼は目の上へかざした。  中は空洞になっており、どうやって入れたものか、液体がなかばまではいっている。その液体の上に、魚の形をしたちいさな物が浮かんでいるのだった。  一見して、ただの木切れのようなそれは、しかしよく見ると、頭がある一定の方角だけを向くようになっている。つまり、これを見ていれば、霧だろうと闇の中だろうと、進む方向がわかるという仕掛けだった。  これとおなじものを、右、中、左軍それぞれの将軍にわたしてある。戦車に乗る甲士にも、もっと粗雑な造りだが作用はおなじものを、数台に一個の割合で配布した。歩卒は戦車とともに戦場を移動するものだから、すべての員数分を用意する必要はなかった。  ——昨秋の敗北の原因も、たねあかしをしてみれば意外に簡単なものだった。いや、思った以上に筋のとおった策だったというべきか。  妖術による霧は、おおがかりなものだが、実はこの策略の一要素でしかない。あの場合、闇に乗じるという選択もあったはずだと、あとで気づいた。要は、双方が視界のきかない中で味方が迷わないだけの工夫と準備さえあれば、奇襲は可能なのだ。 〈奎〉はその奇襲によってすべてを決しようとしたわけではなく、混乱のうちに突出した一部の軍だけを集中的に叩くという策をとった。少勢で十万の大軍をくいとめ、有利な条件で和議にもちこむのが、彼らの目的だったからだ。逆にいえば、負けても大敗さえしなければよかったのだ。 (だが、私の目的はちがう)  無影は、手の中の水晶玉をかすかに揺《ゆ》すりながら、ひそかにつぶやいていた。 〈衛〉の軍は、五万強。かたや、荊蕃諸国の連合軍の数も約五万。だが、兵の練度や武器の精度を加味すれば、真正面からぶつかっても、十分〈衛〉に勝ち目はあるはずだ。  だが、無影にしてみれば、南方の蛮族ごときを相手どって、大きな被害を強いられるわけにはいかなかった。  今後のこともある。  中原《ちゅうげん》にむけて、野心を研ぎつづけていくつもりなら、後背にあたる荊蕃諸国には当分のあいだ、おとなしくしていてもらう必要があったのだ。  十里(一里=四〇五メートル)四方の霧は、五万の軍の移動を、すっぽりとおおいかくしてくれるだろう。霧で相手の視力をうばい、横の連絡を断って一国ごとにつぶしていけば、勝利は確実なものになる。兵の損失も、最小におさえられる。  なにより、おのれがしてやられた方法で敵をたおせば、こちらの打撃がすくなかったことを天下に誇示できる——。  本来なら戦のことは将軍にまかせておけばよいものを、国主みずからこんなところまで親征してきたのも、士気を高めるためと同時に、示威のひとつという意味もあった。  無影ができることは、すべて手をうった。あとの無影の仕事は、ただ、勝利の報告を待つことだけだったのだ。  そして、その時は、彼が考えていたよりも早くおとずれた。 「中軍の百来将軍より、伝令!」  職分を示すちいさな旗を手にひらめかせて、革甲をつけた歩卒が走りこんできた。むろん、ここに到着するまでには、親衛軍による何重もの検問をうけている。 「ご報告いたします」  伝令は、やっと加冠《かかん》(成人式)をすませたばかりらしい、少年の顔をしていた。 「鉦《かね》の音が聞こえます。敵は、敗走にうつったもよう。こちらも、兵を退く合図をおねがいいたしたいとのことでございます」 「うむ——」  と、うなずきかけて、無影はすぐに思いとどまった。 「いや、追撃せよと、百来に伝えよ」 「しかし……!」  反駁《はんばく》の声をあげたのは、無影の背後にひかえていた親衛軍のひとりである。そのあと、一同が粛然となったのは、いつもならば、無意味な異論をゆるすような無影ではなかったからだ。  が、彼は、今だけは敢《あ》えて見のがすことにした。 「逆撃をうけると、いいたいのであろう」  ひややかな視線をいならぶ兵士たちの顔にはしらせると、皆、一様にうつむき目をそらす。若い顔ばかりなのは、みずからの一族をも前〈衛〉公とともに葬り去った無影には、親代々仕えてくれた家臣などなかったからだ。家柄も財産も持たない若者の中から、武芸や腕力にすぐれたものを選りだして、こうして身辺をまもる親衛軍とするしかなかった。  ゆくゆくは、他の才能の持ち主もとりたてて、強力な謀士《ぼうし》の一団を形成していかねばならないが、今のところ、いまだ、無影を論破できるほどの知恵者も論客も〈衛〉国内からはたちあらわれてはいなかった。  無影がひとりですべての権力をにぎっているということは、逆にいえば、重大な決断をまかせたり、相談をもちかけたりできるだけの才能が他にないということでもあったのだ。追撃の命令がこの際、正しいのだと即座に了解し、彼にかわって釈明できる人物がいないのは、癇《かん》の強い一面のある無影にとっては、なんともものたりなく、また腹だたしいことだった。 (あいつなら——)  と、無影は、一瞬、ある若者の顔だちを脳裏に描き、すぐにうちけした。  そして、 「逆撃はない」  きっぱりと、断言してみせたのだった。 「——まことに、ないと思われまするか」  背後へと控えたはずの冉神通《ぜんしんつう》が、いつのまにかかたわらへ舞いもどってきている。この若い君主も、自分には一目置いているはずだという自信があるのか、周囲の兵士たちのような怯《おび》えの色はない。  無影は直接答えず、 「あると思うか」  逆に、問い返した。 「ございませんでしょうな」  不得要領な周囲を眼の隅でながめわたしてから、冉神通はおもむろに口をひらいた。その老人のしぐさを、ひややかな眼で観察していた無影だが、 「——講釈してやれ」  ことば少なに命じられて、冉老人は意を得たとばかりに薄い胸をはってしゃしゃり出た。  ——ひとつには、荊蕃の指揮官たちはこの霧の発生を予測していないから、霧に対する準備——この水晶玉のようなものを、持ってはいるまい。反撃しようにも、自在にうごくことはかなわない。  また、彼らはひとりの将に統率された軍ではなく各部族ごとの編成となっている。だれか一国の首長が強力な主導権をとっているわけではないだけに、いったん連絡を断たれると、統一した行動がとりにくい。  たとえ、反撃があったとしても、一国の軍だけを相手どるならば、数でまさる〈衛〉軍の敵ではない。  さらに、彼らが今、踏んでいるのは彼らの土地ではなく、地の利はこちらにある。 「そして——」  ひとつひとつ、噛《か》んでふくめるように理由を説いていくうちに、冉神通の口調には熱がこもっていく。だが、逆に兵士たちの表情にはわずかだが、嫌悪の表情さえうかんでいた。  もともと、どこから来たかもしれない、あやしげな左道の術者である。それが、君主の寵を恃《たの》んで見くだしてくれば、反感もあらわれようというものである。が、冉神通はまったくそれには気づかず、無影は知っていても制止するようなことはしなかった。  老人の長広舌は、なおも続いていた。 「今、追撃せねば、〈衛〉の兵は、これより先、永久に怯儒《きょうだ》のそしりをうけることとなるでありましょうよ——」  たしかに、その弁は正しいのだ。  ありもしない罠をおそれて、〈衛〉が絶対に追撃をしてこないとなれば、これよりあと、どの国を相手にしてもあなどられることは必定だ。敗走させられたところで、追撃がないとなれば、ふたたび軍をたてなおして攻めよせてくるという事態も考えられる。  なにより、兵士が萎縮《いしゅく》してしまうことを、無影はおそれていた。  昨秋の敗北の屈辱を晴らし、兵士たちの心の重圧や疑念をとりのぞき、完全な勝利に酔わせてやる——。実をいえば、それがこの南方、荊蕃への出帥《すいし》の、真の目的だったのだ。 「百来に伝えよ」  冉神通がひと息ついたところで、無影はやっとさえぎって、命をくだした。 「追撃せよと。兵のいきおいを止めるな。状況によっては江をわたる許可も与える。荊蕃の者は、一兵たりとも見逃すな」 「かしこまりました!」  伝令の若者は、深く一礼して、ふたたび霧の中へ走りこんでいった。こころなしか、霧がうすらいできたようだ。伝令のうしろ姿が、ずらりと居ならぶ親衛兵の列がとぎれるところまで、はっきりと見ていられた。 (あれで、十九か二十歳か)  おなじような歳ごろの若者をひとり、無影は知っていた。実の弟のように思い、むこうも異母兄たちよりも遠い堂兄《どうけい》(一族の同世代のうちの年長者)の無影を慕ってくれた。学問も武芸も、無影が手をとるように教えた。ともに世に出る見込みのない者同士、世の中の仕組みに対する不満をうちあけあい、才能を認めあい、将来の期待をかけた若者だった。  それが、どこで道をたがえてしまったのだろう——。  その分岐点を、無影は正確に示すことができなかった。 (生きているのだろうか)  今、この世に存在している血縁といえば、彼ひとりである。その他はすべて、無影自身がおのれの野心のために犠牲にした。その、唯一の生きのこりの若者も、無影の生命をねらって失敗し、重傷を負って逃亡したまま行方が知れなくなっている。  どうやら、義京《ぎきょう》に逃げこみかくれているといううわさは聞いた。一度、だれかが捕らえかけたのだが——という報告も耳にはいっている。生きているのはたしかだが、どうやら身体を損《そこ》ねているらしいという者もあった。  巨鹿関の戦の時に見かけたという噂もあったが、この話にはあまり信をおいていなかった。彼の知っている淑夜《しゅくや》が、戦場ではたらけるとは思えなかったし、身体に障害があるのならなおのことだ。  どちらにしても、彼が生きているならばかならず、無影の前に姿を見せるだろうとは予想していた。そのときもやはり、無影の生命をおびやかす者として、ではあろうけれど。  無意識のうちに、無影の指はほほの傷あとをなぞっていた。 (あのままで終わるようなおまえではないはずだ、淑夜。かならず、世に出て来い。そして、私の行く道をさえぎってみるがいい。そうでなくては——、この世はおもしろくない)  憎悪と期待と、相反する感情を自身でも統御できないままに、無影はただ天をあおいでいた。  霧が晴れた空からようやく弱々しい光がさし入って、無影の上へふりそそいだ。それが、戦場のどこかからどっとあがった勝ち鬨と呼応して、まるで彼を祝福しているように見えたのだった。  江南は、浅い春をむかえようとしていた。      (二) 「聞いたか」  陽気な声とともに、厩《うまや》の前をぬっと大柄な影がさえぎった。  うす暗い厩の内部からは、人影の輪郭だけしかみえなかったが、それでも淑夜《しゅくや》は相手を判別した。  なにを聞いたかまでは、声は問わなかった。にもかかわらず、淑夜にはなんの話かわかっていた。十日ほど前の、柏陵《はくりょう》での戦の件だ。人の足なら、二十日はかかる距離で起きた事件である。だが、 「戦の話なら、聞きたくありませんからね」  先まわりして答えながら、淑夜はゆっくりと腰をのばした。厩の床全体に敷きわらをまんべんなく撒《ま》く作業は、けっして楽なものではない。しかも、左脚をひきずりながらの仕事は、他の者より手間も時間もかかる。だが、この屋敷内で厩に出入りするのは、荷駄用の驢《ろば》の世話をする下男以外には、淑夜ともうひとりとに限られていた。 「ついでに、人の仕事を邪魔しにきたのなら、おことわりですからね、羅旋《らせん》」  まだよく顔は見えなかったが、その背丈と声からして、見当はたやすくついた。まして、うす暗い厩の中で底光りする緑色の両眼を他の人間とまちがえるはずはなかった。  夜光眼《やこうがん》といって西方の戎族《じゅうぞく》の、羅旋《らせん》の一族にだけときおり現れる、特殊な眼だそうだ。光るだけでなく、夜も獣とおなじように見えるというその眼に、淑夜は生命を救われたといっていい。  だが、その命の恩人にむかって、淑夜は全身で拒絶の姿勢を示していた。実際、戦の話など、どこの話であろうと、たとえ百年前の故事だろうと聞きたくない気分だった。聞けば、口の中に鉄の味が湧きあがってきて、がまんできなくなるからだ。この年が明けるまでは、戦と聞いただけでいちいち、血の匂いを嗅いでいたほどだ。  だが、相手は淑夜の拒絶を気にかけるどころか、鼻先で笑いとばして、 「ということは、聞いているということだな」  ひとりで、納得してしまった。 「話はしないといったでしょう。仕事を手伝ってくれないなら、ここへ入ってこないでください」  羅旋が厩へ来るのは、馬の世話をするためではない。 「——超光《ちょうこう》たちのようすは、どうだ」  と、追風《ついふう》、超光と名づけられた二頭の馬の、状態を確認するために顔を見せるのだ。淑夜が世話をしているのも、この二頭だけである。  西方から羅旋がともに連れてきたというこの二頭は、他の荷駄用の馬とはくらべものにならないぐらいに立派な体格をしていた。ただ大きいだけではない、胴がすんなりとひきしまり脚が細く長い。おまけに、人でいえば癇《かん》が強いとでもいうのだろうか、敏感で気性が荒い。すぐに暴れるし噛むし、蹴りつける。人を踏み殺すことも平気でやるだろう。彼らは、荷を引くための種ではなく、人を乗せて駆けるための動物だったからだ。  追風《ついふう》が黒鹿毛《くろかげ》で、白っぽい葦毛《あしげ》が超光《ちょうこう》という。追風は羅旋のものだが、超光は先年、淑夜に譲られていて、それも淑夜が馬たちの世話をする理由となっていた。どちらも気は荒いが、多少超光の方がおっとりとしたところがあって、淑夜になつくのも早かった。が、だれが一番かというとなると、別な話のようで、毎日水や飼い葉をあたえる淑夜よりも、たまに顔をだすだけの羅旋の方を、彼らはよろこぶ。彼の姿を見るだけで、淑夜のいうことなど毛ほども聞かなくなってしまう。  今も、二頭はすぐに羅旋へと鼻づらをすりよせていった。  もっとも、 「元気か」  追風の首すじをかるくたたいてやった羅旋だが、その肩をあまく噛んだ超光の口は、 「おまえの主人は、あっちだ」  淑夜の方へおしもどしてしまった。遠慮をするような心づかいなど、持ちあわせていない漢だから、これは淑夜の仕事ぶりを一応認めているという、意思表示のつもりでもあるのだろう。  庶子とはいえ〈衛《えい》〉の上卿《じょうきょう》の家に生まれ、それまで学問ばかりしていた淑夜は、動物にふれた経験すらまともにはなかった。腕力も体力もない彼が、悍馬《かんば》たちの世話をいきなりまかされて、途方にくれたとしても無理はない。まして、強制されたものではない。この屋敷の食客ではあるが、文字と数字に堪能な淑夜は商取引の記録を手伝うことで、十分に借りはかえしている。なにも、卑《いや》しい下ばたらきの仕事までしなくてもよかったのだが、淑夜は拒否しなかった。  馬のかたわらにいる方が、人と逢うよりよほど気持ちがやすらいだからだ。羅旋さえいなければ、追風も超光も淑夜をからかうことはあっても、無視したり手を焼かせることはなかったし、容易に心底を見せない人間などよりは、よほど付きあいよいように思えたのだ。  事実、今も羅旋におしかえされてしぶしぶにせよ、超光がこちらへ首をのばしてくるのを見るとうれしくなって、誇らしげに両手でかかえてやった。だが、 「だいぶ、なついたな。そろそろ、乗りこなせるようになったか」  羅旋の声に、またたく間に気分はしぼんでしまった。淑夜の目の色を見ただけで、返答を推察して、 「まだか」  羅旋はまた、鼻先でせせら笑った。 「いいかげんにしないか。西では五歳の孩子《こども》でも仔馬に乗って走りまわるぞ。おまけに超光ほど頭と気だてのいい馬はめったにないときているんだが」 「私は、戎族ではありませんからね」  という返事を、淑夜は喉のあたりで飲みこんだ。この家の女当主の尤暁華《ゆうぎょうか》あたりならば、平然といってのけるのだろうが、淑夜が口にするにはまだ危険すぎるせりふだった。かわりに、 「この脚ですからね」  淑夜は答えて、左足の膝《ひざ》をたたいてみせたのだった。  一見しただけでは、わからないかもしれない。ゆっくりと慎重に歩く分には、ほとんどそれと察知できないだろう。だが、速度をあげればだれでもが、ああ——と思うはずだ。  左脚の膝から下が、うまく動かないのだ。まったく不自由なわけではない。曲げられるし、制御もできる。ただ、反応が鈍く、とっさの場合には間にあわないし、力をいれてふんばることもできないのだ。  足首の腱を切ったのが、そもそもの原因である。 〈衛〉公、耿無影の生命を、単身でねらって失敗し、その逃亡中に谷底に転落して重傷を負った。そこを文字どおり、ひろってくれたのが羅旋である。  あの降るような星の夜、天命とも思えるような偶然を、淑夜は半年以上経っても忘れることができないでいる。  尤家《ゆうけ》の傭車《ようしゃ》(運搬人)をしていた羅旋は、五城もの懸賞のかかった刺客だということを百も承知で、あぶない橋をわたって淑夜を助けてくれた。尤家にあずけて身の安全をはかってくれたし、その後も命を救われている。借りがあるという点からいえば、淑夜は羅旋に何をいわれても逆らえない立場にある。  だが——。  と、淑夜は思うのだ。 (だからといって、なにも——)  無理やりに、この脚で馬に乗せることはないと思うのだ。それに、ことあるごとに〈衛〉公の話を口に出すことも。 「堂兄《どうけい》を殺《や》りそこなったのが、まだ悔しいか。それで、奴の勝ち戦の話など、聞きたくないか」  脚をたたいた淑夜にむかって、羅旋はすかさず尋ねたのだ。からかうような口調に、試すような声音がまじっているのを淑夜は知っていた。そして、おのれの顔が憎悪とも嫌悪ともつかない感情にゆがむことも、見なくてもわかっていた。  ——憎くないといえば、うそになる。  もっとも信頼し、傾倒していた堂兄(一族の同世代中の年長者)だった。同族のすべてを葬り去り、主君たる〈衛〉公をも弑《しい》して、一国のあるじになり上がった男を、淑夜はいまだに許してはいない。だが——。 「彼ひとりを殺しても、なんにもならないといったのは、あなた自身でした」  淑夜は、食いしばった歯のあいだからしぼりだすように反論したのだった。  たしかに耿無影は、義にそむいて一国の権力をにぎった。だが、士大夫の不満をたくみにおさえこみ、民人に対しては善政をおこなっている。今、無影を殺したら、次の公の座をめぐって〈衛〉は大混乱におちいるだろう。国を分けての内乱が起きるかもしれないし、それに乗じての、他国の侵入もありうる。どちらにしても、苦難を強いられるのは民衆である。それを救う手段のない者が、無影を殺す資格はないと羅旋はいった。  首級《くび》ひとつ、剣一本でかたのつく問題ではないのだと。  昨年、彼が失敗したために、〈奎〉国が思わぬいいがかりをつけられて、攻められているのだ。その戦の中で血の匂いをかいできた身にしてみれば、ふたたび単身で無影をねらって失敗した場合の余波を考えただけでも、身ぶるいしたくなる。無影の周囲の警備は、以前より厳重になっているはずで、この脚では失敗どころか、潜入することさえ不可能だろう。  それでなくとも、一時の熱情が冷めてみると、ほんとうにおのれがとった行動が正しかったのかどうか、自信がなくなっている。もっと時間をかけて、無影をおいつめるべきではなかったのか。考えてみれば、無影がなぜあんな無謀で残酷な方法をとったのか、理由も事情も淑夜は知らないのだ。  どうすれば、それを知ることができるのか、そして無影におのれの行為を後悔させることができるのか、この冬中、ずっと考え悩んできたのだった。  もちろん、それを知らない羅旋でもない。なのに、ことあるごとに挑発するような言動をとるのは、淑夜をためしているとしか思えなかった。 「そんなに、私が信用なりませんか」 「いつまでたっても、終わったことをひきずっているからだ」 「脚がうごかないのは事実ですからね」  痛みはとうにひいているが、かわりに感覚が鈍くなっている。それも、この漢《おとこ》は熟知しているはずだ。  この冬のあいだ、傷による疼痛《とうつう》に淑夜は悩まされた。義京は雪こそすくないが、寒気のきびしい土地である。底冷えする夜など、どんなにあたためても、骨をけずるような鈍い痛みにおそわれた。  勉学のために三年もいた土地だから、寒さには慣れていた淑夜だが、この痛みには音をあげた。あまりの苦しみように、この家の当主である暁華が羅旋にたのんで、薬草を調合させ、ようやく人なみに夜眠れるようになったという経緯がある。 「それは、うごかんだろうさ。最初に俺が、使いものにならなくなるといっただろう」 「ええ、たしかでしたね。で、その使いものにならない脚で、どうやって馬に乗れというんです」 「ならないから、乗れといってる」  羅旋は、追風の脚を一本ずつもちあげて、蹄《ひづめ》の具合を見ながら応じている。うわのそらといったそぶりだが、その実、頭の中では常に二、三件の事柄が、並行して考えられているらしいのだ。  とにかく、外見と中身がくいちがう漢だった。大柄で陽気で、どこか間のびした風貌の持ち主である。もともと端正な造作であり、よく陽焼けして精悍《せいかん》そのものなのだから、すこし真面目にひきしめれば、十分、美丈夫の範疇《はんちゅう》にはいるのだ。それをしないのは、本人の弁によれば、 「面倒だ」  なのだそうだ。とにかく先の薬草の知識といい、ひと筋縄ではいかない人物——と、わかるのは、ひと冬の間、そばで見てきたからこそである。 「まだ悔しいのなら、俺の話を聞け。無影のことも〈衛〉のことも忘れたというなら、なおのことだ」 「なぜですか」 「奴のやり口を知らなければ、倒すこともできんからな」 「——無影を、倒す気ですか。あなたが?」 「そうしなけりゃならん場合も、あり得るといっている。それとも、どうしても故国を滅ぼしたくないというなら、また別に方法を考えてやるが」 「いえ——」  ひょいとのぞいた緑色の片眼に、射すくめられて、淑夜は口ごもる。  正直な話、〈衛〉一国を相手どることについては、あまりためらいはない。淑夜は、十五歳の春に、礼学《れいがく》を学ぶために義京へのぼった。左夫子《さふうし》という礼学の大家に入門して、学問を修めたのは、いずれどこかの君主か上卿《じょうきょう》の家に仕え、おのれの才能を生かそうと考えたからだ。師たる左夫子が斡旋《あっせん》してくれる仕官先であれば、どこであろうと仕えねばならない。主君が彼を厚遇してくれれば、その国や家のために全力を尽くす義務があるし、故国の利害を優先することもまず、ないだろうし、許されることでもない。  生まれ育った土地をなつかしむ気持ちはあるが、〈衛〉という国がそれほど大切かと問われれば、返答に詰まるだろう。この時代、土地に対する愛着はあっても、国という形のないものへの忠誠心は全体に希薄であるといってよい。かわりにあるとするなら、師弟の間の礼か君臣の間の信義であって、士大夫など、身分が高くなるにつれてこの傾向が強くなっている。さすがに一国の太宰《たいさい》(大臣・宰相)や上卿は、代々の土地の者だが、その下で働く幕僚《ばくりょう》はといえば、今、どこの国でもほとんどが他国者である。淑夜も、そういった環境の中で、それを当然のこととして成長してきたのだ。  まして、仇敵である無影を君主に戴《いただ》く国である。 〈衛〉の臣たちや民人に恨みはないが、かといって、いまさら、淑夜を受けいれてくれる国ではない。去年の夏、暗殺に失敗した淑夜をこぞって追いまわしたのは、〈衛〉の民なのだ。  すでに故事となっている話だが、主君に親兄弟を殺された男が、敵国にはしって将軍となり、旧主と故国とを滅ぼした例もある。むろん、積極的に〈衛〉を滅ぼすつもりはないが、無影を追いつめるために苦しめる必要があれば、決断はする——と思う。はっきりと覚悟がついていないのは、今、なにをすればいいか、淑夜は模索の最中だからだった。 「奴は、何のために荊蕃を攻めたと思う」 「——侵入してこられたからでしょう」  一般の者に同じ質問をしたら、おそらくそんな答えが返っただろう。だが、淑夜はかるく首をかしげて、 「ひとつには、南方を完全に安全にして、無用な出兵をなくすためでしょうね」  つい、つりこまれて答えてしまった。 「一度やられたぐらいで、荊蕃があきらめるものか。また、何度でも攻めてくるぞ」 「——〈衛〉は、大勝しておきながら、荊蕃の地から兵をひきあげています。ただ支配下におくつもりなら、軍を駐屯させ、役人を派遣し、行政府をつくるべきです。でも、そうしたら南の瘴癘《しょうれい》の地に、何人、何千人といった人を送らねばなりません」  滔江《とうこう》より南は、山地が多く耕作には適さない。雨が多く、開墾《かいこん》より野生の植物が茂る方が早い。高温多湿で、しかも習俗のことなる地に、中原の人間は長くは住めないのだ。 「進んで赴任する者はいない。いきおい、| 政 《まつりごと》もぞんざいになる。荊蕃の民も反感をもつ。反乱を防ぐためには、兵力を増やす必要がある——。悪循環です」 「なるほど」 「荊蕃にしても、虜《とりこ》にされた首長、三人は釈放され、歳幣《さいへい》だけをおさめればよいといわれれば、ありがたいと思います。国境をおかさないという誓約も、守る気になるでしょう。〈衛〉の民も満足するし、中原の各国に対しても仁者という評判がとれる。——もっとも、あまり意味のない評価ですが。ただ、南方の産物が手にはいるのは、ありがたいはずです」 「産物とは?」 「塩や木材、鉄、銀といった鉱物。香木も南方の特産でしたね」  伽羅《きゃら》や白檀《びゃくだん》といった香木は、荊蕃よりもさらに南、岷《みん》の地だけの特産である。香木は祭礼の際には欠かせないものだし、士大夫は男女を問わず、たしなみのひとつとして衣に薫《た》きしめる。当然、安価なものではない。 「香木の価値だけで、このたびの戦費はまかなえるでしょう。先年来、かさなっている借財も、それでかなり精算できるはずです」 「なんだ、よくわかっているじゃないか。やはり、堂兄のことが気になっていたんだな」  今度は超光の蹄を調べながら、羅旋はうなずいた。羅旋に手をかけてもらう超光に妬《や》いたのだろう、首を延べて邪魔をする追風のあたたかな鼻づらをはらいのけながらの作業である。その広い背にむかって、 「——試したんですか」  淑夜は顔をしかめてみせた。 「棄才《きさい》の奴が、訊けといってよこした。書物を丸暗記するだけが能ではあるまいと、な」  壮棄才《そうきさい》。  羅旋の謀士《ぼうし》とされる男である。  謀士とは、一軍をひきいる将軍にしたがって、建策する職分の者をさす。軍どころか、配下も財産も、決まったねぐらすら持たない羅旋が謀士を持っているのも妙だが、さらに淑夜をも謀士としたがっている話よりは、まだましである。 「そういえば、このごろ、あの人の姿をみかけませんが」  うっそりと陰気で、印象のうすい壮年の男の姿を、淑夜はけんめいに思いだそうとしていた。 「暁華の荷の宰領《さいりょう》で、東へ行った」 「〈征《せい》〉ですか」  義京を都とする〈魁〉国から見て、〈征〉は東方にあたる。華最強の軍を擁し、その武力をもって〈魁〉のうしろ盾となっている——つまり、〈魁〉の擁護を名目に中原を支配している国である。 「なかなか、するどくなったな」  ふりむいた羅旋の緑色の眼が、すっと細められた。が、 「簡単です。この冬の間に、東へむかった荷駄の大半が、〈征〉の物でした」  誉められるようなことでもないと、淑夜はかえって不機嫌になった。尤家の荷の記録のほとんどは、淑夜がやっている。なにしろ、一度目にした書物は、即座に覚えるという特技の持ち主である。みずから書いた記録に、記憶があるのはあたりまえすぎるぐらいだ。 「ですが、〈征〉でなにがあるんです?」 「荷の中身をおぼえていたら、そんな質問は出ないはずだが」 「——戦、ですか。しかし、まさか」  記憶をたぐる顔つきは、すぐに否定の表情になる。口の中に、また鉄の味がわきあがってきたからだ。だが、逃げ腰になった淑夜の前へ、ぬっと羅旋の長身がたちはだかった。 「〈衛〉が北へうごけば、魚支吾《ぎょしご》もだまってはいられまい」  一国のあるじ、それも公位にある年長の男の名を呼び捨てにするなど、中原の民なら決してしないことだ。つい昨年の夏まで、厳格な礼学の徒だった淑夜は、羅旋のこういった言動にふれるたびに違和感をおぼえたが、その反感をおさえて、 「しかし、北へ出るには、背後が……」  いいさして、自分で自分の口をふさいだ。ほんとうに気分が悪くなりかけたのだが、その瞬間にとある思考が、頭の中ではじけたのだ。 「——荊蕃討伐は、そのために!」 「なんだ、今ごろ気づいたのか」  むしろ、羅旋はあきれ顔である。  南方の情勢は、淑夜もそれなりに知ってきたつもりだった。それまで角つきあわせてきた荊蕃の首長たちが、今回にかぎって歩調をそろえ、昨年の敗戦からたちなおったころに〈衛〉に攻め入った。そして、完膚なきまでに叩かれ、恩をきせられ、当分の間おとなしくするように慰撫《いぶ》された。これがなにを意味するか——答えはひとつだ。  後背を完全にあけておくためだ。  さらに、淑夜の頭の中には、もう一歩ふみこんだ発想がうかんでいた。 「まさか——、無影がわざわざ自国を攻めるよう、仕掛けたなどと、いいだすんじゃないでしょうね」 「さあ、そこまでは断言できんが、やりかねない漢《おとこ》だろう。そのうえに、巨鹿関《ころくかん》で負けたのとおなじ手を敵にしかけたのは、自軍の立て直しも謀《はか》ったんだろうな。ここまで徹底的に利用できるなら、戦を起こす価値もあるかもしれん」 「そして——、また人が死ぬわけですか」 「死ぬのは、なにも戦でとはかぎらんさ。こら、どこへ行く」 「あなたこそ、なにをやってるんですか」  淑夜は、厩の入口近くの板壁にたてかけてあった棒に手をのばしていた。一方羅旋は、超光の背に鞍《くら》を置こうとするところだった。  馬に鞍をつけるためには、まずその背に韈《べつ》(しきぐら)をのせる。鞍は、おおよそ四角い革の袋に、うすく詰め物をした敷物で、それを腹帯《はらおび》と臀部《でんぶ》にまわした鞦《しりがい》で締め、帯金具で固定する。腹帯を勢いよく締めあげても、超光は反抗の気配もみせない。おとなしくされるがままになっている。相棒が厩からひき出されるのを知って、追風が自分も連れていけとせがんで暴れたが、羅旋のひと声でぴたりと静まった。まるで、馬たちはこの漢のことばだけは理解できるようだ。いや、もしかしたら、羅旋の方が馬の言語を話すのかもしれない。 「——ちょっと、乗ってみろ」  超光の手綱をとって引きだすついでに、淑夜の手の棒を取りあげてしまった。人の背丈より頭ひとつ分短い、樫《かし》の白木の棒だ。この冬、淑夜が杖がわりにしてきたものである。杖がなければ歩けないわけではないが、あれば不測の事態にも備えられると思いついて以来、かたわらから離したことはない。それをあっさり奪われて、淑夜は逃げるわけにもいかなくなった。  超光は、おとなしく羅旋に引かれるまま厩を出ていく。さらにそのあとを、淑夜はゆっくりと歩いた。といっても、それほどの距離ではない。厩の前は、荷車に馬をつけたり、その車に荷を積んだりするための広場となっていたからだ。端には、高床の蔵がいくつも並び、荷包がその前に野積みになっている。そしてその周囲には、荷役の男たちがちらばって、昼の休息をとっているところだった。だれもが尤家に長く雇われている人足で、淑夜の顔は知っているが、素姓までは知らされていないはずだった。  彼らの好意的な好奇の視線の中、羅旋は広場のちょうど中央まででると、騅《あしげ》を止めた。邪魔な杖は、そのあたりへからりとほうりだすと、ひらりと身をひるがえす。次の瞬間にはもう、馬上の人となっていた。  当然のことながら、馬の身体には、足がかりになりそうなものは、なにもない。腹帯も鞦《しりがい》も、足をかけられるほど厚みのあるものではない。足のみじかい荷駄用の馬ならば、背に手をかけてとびあがることもできようが、超光も追風も背は高すぎた。人なみすぐれた長身の羅旋でさえ、やっと顔のあたりの高さに鞍がくる。ふつうなら、鞍を手がかりに腕力だけでよじのぼるしかないところを、羅旋はかるく地を蹴っただけで、一気にその高さまで身を躍らせていたのだった。  長身の上に、腕、肩、胸と全身に堅くひきしまった筋肉がみっしりとついている。重さとなったら、細身の淑夜の二倍はあるはずだが、とてもそうとは思えない身の軽さである。  ——もしも自分がこの身体をもっていたら、最初の襲撃でまちがいなく、無影にとどめをさせていただろうと、淑夜は思う。  腕っぷしが強いだけではない、頭も十分にまわるし、なにより妙に人を魅《ひ》きつける漢である。自分にひきくらべて、うらやましいと思うこともたびたびあるが、また、これほどの漢がいったい、なにを考えなにをたくらんでいるのか、不安に感じることもある。ただの無頼ではないかと思うこともあるし、とてつもなく大きな視野で天下をにらんでいるような気もするのだ——。  荷役の人足たちの間からどっとあがったはやし声に顔をあげ、羅旋をみあげる。冲天にのぼった太陽を背景にして、羅旋は誇らしげに頭をあげ、まっすぐ前を見すえていた。  実のところ、この中原での戎族の地位は高くない。中原の民はなべて、礼法を知らぬ周辺の異民族をさげすむ傾向にあるからだ。むろん、偏見である。中原の民でも、学問もなく文字も知らず、礼に缺《か》ける者はいくらもいる。礼法など知らずとも、情に厚い戎族もいるはずだ。  だが、西方の草原地帯で遊牧をなりわいとする戎族は、時として部族単位で中原へ侵入し、略奪をくりかえす。華《か》の民は土塁を築いて彼らの横行をくいとめる一方、とらえた戎族は奴婢として使役する。反目が解消することは、まずないといってよい状況だった。  その反目、もしくは蔑視《べっし》の犠牲者が、羅旋の父、赫延射《かくえんや》だったかもしれない。すぐれた武人であり、温厚な人格者だったという戎華《じゅうか》将軍、赫延射が歿したあと、羅旋がその位を世襲できなかったのも、そのためだという。すくなくとも、淑夜はそう聞いている。  だが、今見るかぎりでは、羅旋はそんな翳などひとかけらも感じさせない、陽気で気ままなだけの漢だった。  ふりあおぐ淑夜の視野を、がっしりとした掌がおおいかくした。 「ほれ」  反射的にその手をとると、ぐいと身体が宙に浮いた。  呼吸をあわせて、馬上で姿勢をととのえるこつは、なんとかおぼえた。多少はばたついたものの、羅旋の背後に身をおちつけることには成功した。いれかわるように、羅旋は鞍からするりと降りる。 「ただ乗るだけで、この騒ぎですよ。台でも使えば別ですが、馬がそれほど便利なものだとは、思えないのですが」 「文句をつけるなら、ふりおとさせるぞ」  口ではののしりかえしながら、羅旋の両眼が不思議な光り方をした。なにか考えついた証拠だが、 「——五叟《ごそう》あたりに、考えさせてみるか」  なにやら、口の中でいったのだけが聞こえた。淑夜も、どうせろくでもないことだろうと、無視をする。たえず身じろぎをする馬の背で、背筋をのばし、身体の均衡をたもっているだけでせいいっぱいだったのだ。 「乗れることは乗れるんだな」  羅旋はまた、つぶやいた。 「歩くぐらいなら、なんとかなります」  と、淑夜も憤然としていいかえす。羅旋が鼻先で笑ったように思えたからだ。  馬上で身体を安定させるためには、馬の、太く丸みのある胴を脚全体でしっかりと締めつけなければならない。膝から上なら、淑夜の脚もかなりしっかりとしているから、馬が歩くほどの振動でも耐えられる。だが、いったん走りだすと、激しい上下動を支えきれるほどの力はなく、すぐに身体の均衡をうしなってしまうのだ。  結局、一里(四〇五メートル)もいかないうちに、ずるずるとずり落ちていくことになる。ひどい時には、鞍上で二、三回はねあがって、そのまま地面へ放りだされることもある。窮余《きゅうよ》の一策として脚の脛《はぎ》を腹帯にくくりつけてみたこともあるが、これは落ちた際にひきずられて、かえって危険であることがわかった。 「均衡さえとれれば、なんとかなります。くくりつけても、歩いているかぎりは、落ちるようなことは——」  淑夜は、手綱だけをさばいて、超光を数歩歩ませた。馬も、その指示にはすなおにしたがう。まずは、あぶなげのない乗りっぷりではあった。  たしかに、歩くだけならころげ落ちることはあるまい。だが、馬の価値はその速度で、走らないのなら意味はない。楽をしたいだけなら、車に乗ればいい道理だ。実際、中原の民は馬に直接乗ることは、ほとんどない。馬に乗るのは、いやしい戎族だけなのだ——。 「ふむ——」  と、羅旋はひと声、うなった。なにを思いついたのか、眼の底の緑色が光ったのを淑夜は見た。いやな予感がしたなと思ったとたん、羅旋はいきなり、馬の腿にかるく平手うちをくわせたのだ。  超光は合図ととって、走りだす。とっさに手綱を引き、きれいに剪《き》りそろえたたてがみにしがみついた淑夜だが、不意をつかれて対応が遅れた。鞍の上で、身体が跳ねた。二度、三度はなんとか持ちこたえたが、すぐに無理だとさとると、腕の力だけをたよりに自分から馬の背からずり落ちていった。  義京の周辺は、もともと雨量が少ない。その上に、春の短い雨季を前にして、地面はからからに乾燥していた。もうもうと黄色い砂塵《さじん》がまいあがり、見物していた男たちがやいやいと野卑《やひ》な声ではやしたてた。 「なにをするんですか——」  土埃にむせかえりながら、身体をおこして淑夜は叫んだ。口の中に、今度は砂の味がひろがった。が、叫び終えるより前に、淑夜の頭の上へふりかかってきた影がある。  とっさに右手でとらえたそれは、さっき羅旋にとりあげられた淑夜の杖である。  なにを——と思うひまもない。  淑夜が杖をうけとったと見るや、さらにその頭上へと、羅旋が長いものをふりかぶってきたからだ。人足が荷を担《にな》う際に使う、振り分け棒である。これまた太い樫の棒を、思いきり振りおろされたものだから、たまったものではない。  淑夜はとっさに身体をひねり、ころがって難をのがれた。地面にたたきつけられた棒の先端が缺《か》けとんで、木《こ》っ端《ぱ》が淑夜のほほにもあたった。そのあいだにも、羅旋の手はゆるまない。  ようやく、左膝をついて半身をおこしたところへ、横薙ぎの棒がおそってくる。それをのけぞることで避けて、次の一撃を両手でかまえた杖で受けた。立ちあがるひまはないし、立てばかえって防御がしにくい。  一瞬、手がしびれたが、それでも樫の棒をくいとめることはできた。淑夜の細面が痛みにゆがむのを、鼻先で笑って、羅旋はかるく身をひいた。彼の得物がはじきかえされ、大きくふりかぶられた隙をついて、淑夜が杖で突いてでたからだ。速度は十分だったが、わずかに長さがとどかなかった。  杖がそのまま伸びきったところを、上から思いきりたたき落とすと、淑夜の上体も崩れる。その手もとへすばやく一歩とびこみ、さらに淑夜の肩口を踏みつけようとした。淑夜はまたしても、身体をひねってあやういところで逃れる。  逃げながら片腕でふりまわした杖が、羅旋のふくらはぎのあたりをかすめた。杖は、羅旋が、一瞬、真顔になってよけたほどに、するどく風を斬った。相手が後退した隙に、淑夜は杖にすがって身体を起こし、左膝をひきずりながらいっさんに逃げにかかる。  あっという間に数丈(一丈=二・二五メートル)の距離をあけた淑夜の背を、羅旋の陽気な笑い声が追いかけてきた。 「だいぶ、力がついてきたな」  当初は、羅旋の一撃で、うけとめるどころか身体ごとふっとんでいた淑夜だった。 「とりあえず、雑魚《ざこ》どもの相手はできるな。その首も、五城に化けずにすみそうだ」  昨年、無影が淑夜の身にかけた懸賞は、未《いま》だにとりさげられてはいない。この冬のあいだ、外出をひかえ、出る時は面をかくし、かならず人が同行するという用心ぶりだったが、この先、一生尤家に頼りきるわけにもいかない。護身用の武術を教えるといいだしたのは、羅旋だった。 「——身体を鍛《きた》えて、最低限、自分の身は自分で守れ。人の命をつけねらうなんぞ、そのあとから考えることだ。脚が悪いからといって動かなければ、いざというときに、なにもできんぞ」  そういわれれば、淑夜には反論できない。命じられるまま、冬中、あざだらけになりながら、おとなしく羅旋につきあっていたおかげで、身のこなしも多少はなめらかになり、体力もついてきた。  羅旋のやりように反対の声をあげたのは、毎日たたき伏せられている淑夜ではなく、別の人間である。 「なにを、なさってらっしゃるの」  質問ではなく、詰問《きつもん》だった。それも、若い婦人のなめらかな声である。 「——なんだ、暁華《ぎょうか》か」 「なんだではありませんわよ。おまえさまときたら、また淑夜さまをいじめて。これ以上、けがでもなさったら、どうするんです。——それから、おふたりとも、今朝《けさ》、あたくしが申しあげたこと、お忘れになったわけではありませんでしょうね?」  二十歳をすこし越したほどの婦人だった。背丈も肉づきもほぼ人なみか、わずかに上程度。目もとの印象がすこしきついのが瑕《きず》だが、まずまず美女とよんでよい容貌の持ち主である。その特徴のある双眸で、きらりと長身の漢ふたりを見あげると、 「申しあげましたわよね?」  決めつけた。それに応えて、是《はい》、と恐縮したのが淑夜。そっぽをむいたのが羅旋である。 「馬に乗るなとは申しませんわ。淑夜さまはともかく、羅旋にそんなことを命じてもむだというものですからね。ですが、午《ひる》すぎには身だしなみを整えておいてくださるよう、お願いしておいたではありませんか」  これまた、はい、とうなだれたのは淑夜である。うなだれるしかない。彼のかっこうときた日には、厩にはいるための繕《つくろ》いだらけの粗衣をまとった上、頭の先からたっぷりと土埃をかぶり泥にまみれ、どこから顔でどこからが衣かもわからないようなありさまなのだ。だが、抗弁できないのはそれだけが理由ではない。  尤暁華《ゆうぎょうか》といえば、婦人の身ながら、この義京《ぎきょう》でも屈指の大商家の当主である。常時、屋敷ではたらく召使だけでも百人を越す。傭車《ようしゃ》や人足など、臨時雇いをくわえれば、千人にもなろうかという大世帯をきりまわす、辣腕《らつわん》の主なのだった。  もちろん、実務の大部分は差配の季《き》老人をはじめとする、忠実な使用人たちがとりしきっている。だが、最後に取引の承認を与えるのは暁華の仕事である。当然、〈魁〉国をはじめとする各国の卿大夫《けいたいふ》から公、侯といった国主たちまでとも、面識がある。本来なら、侍女ひとりをつれただけで、気軽に荷役の場になど出てくるような身分ではない。  尊敬はされているが、男たちにとっては煙たい存在でもある。事実、暁華の姿を見たとたん、気ままな姿で休んでいた人足たちは、窮屈《きゅうくつ》そうな顔つきで、たちまち散ってしまった。  羅旋ひとりが、平然たるものである。 「おまえのいうとおりにしたら、なにか、いい話でもあるのか」 「いい話?」 「超光に代わる馬は、まだ、みつからんのかときいている」  馬——ことに乗って長駆させるための馬は、実は一頭きりでは役にたたない。馬が人を乗せて全力疾走できるのは、せいぜい三〇里(一里=四〇五メートル)ほどで、長距離を行くときは、二頭以上の馬を用意して乗り継ぐのだ。一|布衣《ほい》の羅旋が駿馬を二頭ももっていたのは、傭車の荷駄に緊急の事態がおきた場合にそなえて、早馬を走らせる役目をひきうけていたからだ。けっして、ぜいたくや酔興《すいきょう》からではない。  それが、超光を淑夜にゆずってしまったから、羅旋は新しい副馬《そえうま》を必要としていた。ついでに、淑夜にももう一頭、手に入れたいと以前から暁華にたのむ——というより強請していたのだ。  だが、暁華はきれいに笑い流してみせた。 「今までに、何頭も見せてさしあげたではありませんの。ことごとくけちをつけたのは、おまえさまですわよ。追風に匹敵するような馬が、中原で容易に手に入るはずがありませんわ。いっそ、自分で〈琅《ろう》〉あたりへ赴《い》かれては、いかが」  いったあとで、すこしばかりさぐるような眼になったのは、相手が、即座に「行く」といいだしかねない漢だったからだ。 〈琅〉は、義京より西にあり、戎族の土地と隣接している。版図こそ広いものの、ほとんどは未開拓で、そこへ戎族の一部もはいりこんできている。華の民と多少の摩擦はあるものの、〈琅〉では遊牧もおこなわれ、戎族の育てる駿馬も手にいれやすい。  だが、羅旋はふんと鼻先で笑っただけだった。 「文句は、それだけか」 「おふたりとも、そのきたない衣をなんとかしてくださいまし。それから、裏で水でも浴びてきてくださいましね。馬の匂いが、ここまで届きますわ」  土埃のうえに、馬の毛や藁《わら》くず、それに汗までかいているとなれば、暁華が三丈(一丈=二・二五メートル)以上、距離をおいているのも無理はない。それを承知で、羅旋はわざと超光の手綱をおさえ、首すじを自分にひきよせた。 「馬の匂いの、どこが悪いんだ」 「浴びてきてくださいまし。水が冷たいなどと、いいわけは許しません」 「浴びるのはいいが、着がえはせんぞ」  羅旋の返答は、すなおではなかった。 「なんのために、あたくしがこんなところまでお迎えにきたと思っておいでですの」 「——寿夢宮《じゅぼうきゅう》へ行くんだろう」 「伺候《しこう》するとおっしゃいまし。離宮とはいえ、王のおわします宮城ですわ」 「どうでもいい。俺は行かん」 「——おとなしく来るとは思っていませんでしたけれど」  暁華は、わざとらしくため息をついた。 「先日来の、再三にわたる陛下の御召しですのよ。あたくしの顔をたてて、同道してくれる気にはなりませんの?」 「俺は顔をださん方がいい」  めずらしく気むずかしそうに顔をくもらせて、羅旋はそのまま背をむけ、厩へむかった。杖をもった淑夜も、侍女をしたがえた暁華もそれにつられるように歩みだす。 「どうせ、おまえに思惑があってのことだろう。俺がそれにつきあう義理はない。下手に口車にのったら、どこへ売りとばされるか、わかったものじゃない」 「でも、淑夜さまはなにがあっても、お連れいたしますわよ。よろしいですわね」 「好きにしろ」 「——と、いうわけですわ、淑夜さま。今すぐ、お支度をおねがいいたしますわね。お衣装は、お部屋にそろえさせておきましたから」 「はい——」  切れ長な眼の隅で、きらりとにらまれて、淑夜は抵抗できない。が、それでも自分の仕事をおろそかにできるような性分ではない。 「ですが、すこし待ってください。馬の世話がありますから」  馬具をはずし、汗をぬぐってやり、たてがみや蹄の手入れもしなければならない。追風と超光については、他の者まかせにできないし、手綱を淑夜におしつけにかかっている羅旋をあてにもできない。 「先に、水を浴びてくる」  淑夜がおとなしくうけとったのをいいことに、羅旋は逃げにかかった。厩から出ていく彼の広い背を、暁華の侍女がかるく一礼して、そそくさと追った。玉奴《ぎょくど》という名の娘である。暁華の侍女の中でも目をひく容姿だが、女主人には及ばないと淑夜は見ていた。それが——。 「よろしいのですか?」  われ知らず、眉をひそめて見送りながら、淑夜は暁華にたずねた。 「なにが、ですの?」  と、応えた暁華の表情は、本心から不思議そうだった。 「羅旋なら、はじめからあてにはしておりませんわ」 「そうではなくて、あの人はあなたの——」  いいかけて、ことばに詰まる。羅旋と暁華のあいだがらを、どう表現してよいかわからなかったのである。  親同士が知人だったそうだ。が、ふたりが知り合ったのは、暁華が親の許さない男と私奔《しほん》してきて、赫延射将軍にかくまわれた時だというから、あきれたものだ。その後、将軍のとりなしで暁華は許され、やがて夫とともに尤家を継いだ。その夫が歿して五年、寡婦《かふ》の暁華が羅旋と対等の口をきくのに、最初、淑夜はあっけにとられたものである。  世間の——すくなくとも士大夫の常識としては、親兄弟はのぞいて、成人後の男女はみだりに口をきいても顔を見ても、無礼になる。商家の婦人の暁華と、華の礼を無視する異民族の羅旋が、士大夫の礼にしばられる必要はない。が、これだけいいたい放題の相手であれば、その仲はただならぬものと淑夜でも思う。  だが、どういう仲かと問われたら、答えようがないのだ。暁華にいわせれば、 「——明日はどこにいるか見当がつかないし、だいたい、右へ行くつもりでも、他人に右といわれたら意地でも左を向く人ですもの。好きにさせておくよりほか、ありませんわよ」  だからといって、自分の侍女を伽《とぎ》にさしむけることもあるまいと思うのだが、 「だって、無理|強《じ》いしたわけではありませんし。玉奴が行ってもいいというものを、あたくしが止めることもありませんし」  さばさばとした口調でそういわれては、当事者でない淑夜に、口をはさむ余地はない。暁華が嫉妬の気配でも見せてくれれば、羅旋をなじる口実もできるのだが、どうやら彼女のことばと本心は完全に一致しているようだった。 「外へ出て騒ぎをおこされたり、行方をくらまされたりするより、よほどましですわ。あの人だとて、そう大手をふって歩ける立場でもありませんもの。——そういうわけで、淑夜さま。しばらく、窮屈な思いをしていただくことになりますけれど、よろしいですわね」      (三)  夕刻、淑夜は義京《ぎきょう》郊外の離宮、寿夢宮《じゅぼうきゅう》の内にあった。  黒紗《こくしゃ》をかためた小冠に、麻の深衣《しんい》をきっちりとまとった姿は、どこから見ても良家の貴公子である。これが、たった今、寿夢宮へ着いた尤家の荷の中からあらわれたばかりだとは、だれも思わないだろう。  昨秋の巨鹿関《ころくかん》の戦で、〈魁《かい》〉王と〈奎《けい》〉伯の知遇は得たものの、それは彼の生命の安全を保証するものではなかった。賞金首を保護したとなれば、〈衛〉公に攻撃の口実を与えるからだ。一度は奇略で撃退したものの、〈奎〉に〈衛〉の侵攻を即座に二度もはねかえす力はない。権威はたもっていても、実質、武力をもたない〈魁〉ではなおのことである。ために、淑夜は、荷箱の中におしこめられての寿夢宮訪問となった。 (それでも、まだましだ)  と、淑夜は思う。傷の激痛と胸の絶望とをかかえて、炎暑の中、山道を運ばれたことを思えば——今は傷も癒え、胸の痛みすらうすらいでいる。  箱から出て、ほっと息をついた淑夜の顔だちには、まだ線の細い少年じみたものが残っていた。文弱の徒、といった印象はぬぐえないし、この先も完全になくなることはないだろう。だが、変化の兆《きざ》しのようなものが眉のあたりにほの見えるのは、気のせいだろうか。 「おまちかねでございます。こちらへ」  取り次ぎに出てきたのは、小珮《しょうはい》という名の侍僮《じどう》である。公《おおやけ》の士の訪問ではないから、出迎えといっても粗略なものである。いや、この建物自体が、王の離宮とは思えないほどに質素なものなのである。  離宮とはいっても、もともとは義京を守る塞《とりで》のひとつとして建てられたもので、外観は無骨なものだ。  義京を遠くとりまく山なみの、ゆるやかな山麓の一角を利用して、周囲に深く濠《ほり》をめぐらし、土を築《つ》きかためた十数丈の城壁がそびえる。城壁の上にはいくつも櫓《やぐら》を組みあげ、墻《しょう》をかまえ、小城ながら防備は万全と見える。  が——。  その防御が、内と外と、どちらにむけられたものか、淑夜は疑うようになっていた。  現在の王はその玉座に就いてから十五年、いや十六年になるが、その年月の大半はこの寿夢宮ですごしている。| 政 《まつりごと》の中心はむろん、義京城内の七星宮《しちせいきゅう》にあり、離宮はあくまで休息の場であるはずで——だからこそ、一商人にすぎない暁華が出入りをたやすく許される。公式の場でない宮にこもりきりになることは、つまり、王としての務めをおろそかにしている証明であった。  寿夢宮で内密に、はじめて王に拝謁《はいえつ》したとき、淑夜は正直いって、失望した。昔日《せきじつ》の威勢はおとろえたとはいえ、中原のすべての頂点に立つ人物ならば、威厳ある、近寄りがたい人物であろうと想像していたのだ。が、畏敬の念は、みごとに裏切られることとなった。 〈魁〉王、夏長庚《かちょうこう》は、実際の年齢以上に見える、覇気のない平凡な初老の男だったのだ。唯一、画業に執着をみせる他は、いっさいの物事に興味を示さない彼に、淑夜は拗《す》ねた孩子《こども》の姿をかさねあわせたものだ。  だが、ひと冬、ろくにすることもないまま書物をひもといているあいだに、その印象がすこし変化してきている。  ——王が七星宮にあったところで、実権は太宰《たいさい》(大臣・宰相)である冰子懐《ひょうしかい》とその配下に、壟断《ろうだん》されている。下手に口を出せば、生命の危険さえあるのではないか。現に、本来、位を継ぐはずだった王の異母弟は、太宰子懐の策動で廃され、殺されている。七星宮も、寿夢宮でさえ冰子懐の手に押さえられているとしたら、王にできるのは、夢見の悪さや不祥事を口実に離宮にとじこもることぐらいである。  この厚い城壁は、王の眼を外部から遮断し軟禁する檻《おり》であり、王がわが身ひとつを守るための盾でもあるのだ——。  物事には、かならずふた通り以上の見方があるものだとわかるようになっただけでも、淑夜の視野もすこしは広がったのだろう。  ともあれ——。  暁華に数歩おくれて、城内の高楼の一間へとみちびかれたとき、王は例の画業の最中だった。以前は、ときおり義京の花巷《かこう》の女を呼びいれて宴をもよおしていたというが、この冬はとんと、そんな噂も聞かなかった。また、昨秋までは、王の画題はいにしえの神仙や伝説の武人が多かったと聞いていたが、淑夜はそれも見たことがない。  先触れの声を聞いて、踏みいれた室内で淑夜が見たのは、広げた帛布《きぬ》の上にかがみこんでいる初老の男と、その前に座した少女の姿だった。平装のその少女は、不意の訪問者におどろいて座を立とうとして、男に制された。 「そのまま。うごくでない」 「ですが、陛下……」 「お気づかいくださいますな、揺珠《ようしゅ》さま。どうぞ、陛下にはおつづけくださいますよう」  暁華に口添えされて、少女はかえってとまどい、身の置場をうしなったようだ。  ほっそりと美しいが、どこか寂しげな容貌の少女だった。まだ十五、六歳と夭《わか》いこともあるが、結い上げた鬟《わげ》も衣装も重たげで、すぐに消えいってしまいそうだ。顔かたちだけのことなら暁華よりも優れているのに、影がうすいのは、暁華のような眸《ひとみ》の強いかがやきに缺《か》けるためだ。 「そなたが落ちつかねば、暁華も座しにくい。もどらぬか」  ことばにすればぞんざいだが、王の口調はひどくおだやかだった。いわれて、ようやく少女も以前の姿勢にもどった。 「ご熱心でございますこと」  あいさつを抜いて、暁華は無遠慮に老人の手もとをのぞきこんだ。必要ならばつつましいふるまいもできる婦人だが、王が堅苦しい礼を嫌うのを知っていて、省略してのけたのだ。床の上に直接ひろげられた帛布の上には、人の形があらかた出来あがっていた。 「よう、似ておいででございます」 「これぐらいしか、揺珠に遺《のこ》してやれるものはないからの」  顔もあげずにいいはなってから、筆を止め、眼だけで暁華を見て、にやりと笑った。 「どうも、そなたはおもしろうない。顔色を変えるぐらい、殊勝なところを見せてくれぬか」 「何度目でしょうかしら、そのような不吉なおことばをうかがうのは」 「——ちと、くりかえしすぎたかの」  筆に墨をふくませながら、悪びれた気配もない。 「お口癖ですもの」 「本心であるぞ」 「それは、信じておりますわ」 「そういうそなたの口の方が、信用ならぬ」 「あたくしが、いつ虚言《うそ》を申しあげました」 「羅旋も連れてまいると、申した」 「あたくしのせいでは、ございませんわ」  仮にも万乗《ばんじょう》の君にむかって、暁華ははっきりといいきった。ひとつまちがえば、あなどっているととられかねない、容赦のない口調だったのにもかかわらず、王とよばれる男はにこりと相好《そうごう》を崩した。 「あいかわらず、遠慮がないの」 「よろこんでいただけるなら、いくらでもいたしますが」 「いらぬ。そなたにまで心にもない世辞などいわれたら、生きておる甲斐がなくなる。|耿※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《こうき》の方は、とものうてまいったようであるし、よしとするかの。——これ、若い女ではあるまいに、帳幕《とばり》の陰にかくれておらず、顔を見せい」  ひさしぶりに字ではなく本名をよばれて、淑夜はわれ知らず緊張した。 「いえ、私はここで——。妃殿下もおわしますことですから」 「揺珠のことならば、気にかける必要はない。そなたもかまわぬな。なにも、この男、そなたをとって食おうとはいわぬ」  と、せりふの後半は、ひっそりと座っている少女へむけたものである。  彼女が、今は亡き王孫の妃であったことは、はじめて見たときに淑夜は聞かされている。たとえ嬰児《えいじ》のときに人質同様に送られてきて、物心つくころには寡婦《かふ》となった身とはいえ、淑夜のような青衿《せいきん》の書生風情《しょせいふぜい》にかるがるしく姿を見せるような身分ではない。その側へ寄るということは、礼にもとるというよりも、少女への配慮に欠けると思われたのだが——。 「かまわぬから——そうだの、では、その燈台をこちらへ持ってくるように。手もとが見づらい」  この春、四十六歳になるはずの男は、そういって眼のあたりをこすった。実際の年齢よりも老けて見えるのは、皴《しわ》深い生気のない皮膚のせいもある。眼光にも、たえずおのれの背後をうかがうような暗いものがあり、かならずしも逢って快い人物ではない。ただ、けっして莫迦《ばか》でも柔弱なわけでもないことを、淑夜はとっくに見ぬいていた。すくなくとも、暁華にいいたい放題いわせて、立腹しないだけの度量はある。 「そろそろ、おきりあげになってはいかが?」  暁華が案じたのは、この室内が、王がいうほどに暗いわけではなかったからだ。王自身の眼の方に問題があるのを、やんわりと示唆《しさ》したのだが、王は首を横にふった。 「今、すこし。ひと筆かふた筆じゃ」  淑夜は、命じられたとおり、七枝の銅製の燈台をもちあげ、画布のかたわらへ寄せた。枝の先端にとりつけられた油皿の中から、蘭の香りがつんとした。 「これで——よい」  ほんとうに、ちょうどふた筆だけ描きくわえて置いたところを見ると、淑夜をかたわらへ呼ぶ口実だったのだろうか。  筆を置いたその姿勢で、王はまたしても上目づかいにきろりと眼をうごかし、 「ようやく、参ったな」  淑夜の顔をのぞきこんだのだ。 「この冬、何度、呼んでも承知してくれなんだの」 「私ごときが、おそば近くに参上する理由も資格もございませぬ故」 「そのわりには、青城《せいじょう》へは何度も脚を運んでおったようじゃな」 「……ご存知でございましたか」  実は〈奎《けい》〉の国都、青城に淑夜はこの冬、二度出むいている。一度は、よい太医《たいい》がいるからと呼ばれた。脚の状態がすこしでもよくなればと、誘いを受けた。いま一度は、義京に新年の賀《が》に人が多く集まるため、避けた方がよいとの〈奎〉伯の配慮だった。むろん、どちらも尤家の荷の中に身を隠しての往復である。 「〈奎〉の段之弦《だんしげん》と親しいのはよいことじゃ。だが、気をつけた方がよいぞ。この暁華はの、余が尋ねれば、なんでもぺらぺらとしゃべってくれるでの」  そういって、喉の奥でくつくつと笑う。 「〈奎〉の動きも、暁華の口から筒抜けになっておるぞ。しかも、商いに目のきくことといったら、婦人とはおもえぬほどじゃ。そのうち、身ぐるみ剥がれて売り飛ばされようぞ。そうなる前に、どこぞへ逃げることを考えておいた方がよい。のう、そうは思わぬか」  そんなことをいわれても、暁華には一再ならぬ恩義がある。口先だけにしろ、「是《はい》」というわけにもいかない。返答につまっているあいだに、 「陛下——」  めずらしく、細い声でたしなめたのは、揺珠だった。 「淑夜さまが、困っておいでですわ」 「少しからこうたまでじゃ。そのように、きつい眼でにらむでない」  人の悪そうな顔を、それでもそむけて老人は苦笑した。 「それとも、そなたの前では淑夜をからこうてはならぬのかな」 「おたわむれが過ぎましょう」  黒目がちの大きな瞳を見ひらいた少女のほほに、さっと紅がのぼった。 「そのようなこと、淑夜さまにご迷惑でございます。あの……」  いつになく——といっても、淑夜は彼女の声をほとんど聞いたことはなかったのだが、揺珠の声音が高くなった。が、なにやらいいかけて、ことばを見失ったのか、それともおのれの言おうとしたことに自身でとまどってしまったのか、ふっつりとことばに詰まる。上気したほほを袖にかくしてうつむいたところは、咲き初《そ》めの花を連想させた。  淑夜はといえばただ、思わぬ援軍とその結果とにあっけにとられるばかりで、気のきいた助け舟を出してやることもできない。 「あの、それから、なんじゃ」  王の追及は、あきらかに好意のまじったものだったが、容赦はなかった。 「陛下」  と、今度は暁華が、口を出した。 「そういじめてさしあげては、お可哀そう。おふたりとも、生真面目でおいでですのよ」 「ふむ、若い者ほど、真面目でつつましやかだとは、どういうことであろうの」  と、これは暁華へ皮肉の鉾先《ほこさき》が変わったらしい。暁華も、負ける気づかいはない。 「年齢を加えると、あつかましくなるということですわ」  さっさと王の手から画筆をうけとり、まめまめしく片づけはじめた。 「それが証拠に、あたくしよりも羅旋の方がふてぶてしゅうございましょう? あ、その筆もこちらへいただきますわ」 「そなたの言が正しければ、余がもっとも厚顔ということになるぞ」 「あら、まちがっておりましょうか」 「ちごうておるな。そなたには負ける。それに——」  突然、王の声調がひどくくぐもったのに、淑夜は気づいた。その視線は、室の扉の陰にうずくまった侍僮の、ちいさな背のあたりにあたっている。 「さらに上手《うわて》がまいったようだぞ」 「お見えになりましてございます。いかが、とりはからいましょうや」  侍僮の小珮《しょうはい》のかん高い声に、さらに王の顔は苦いものとなった。 「いたしかたあるまい。ここへ、この室へとおすがよい。——揺珠、この画を持って、奥へまいっておれ。早く」 「——どなたが、見えたのでしょう」  と、淑夜がたずねたのは、暁華が知っていると思ったからではない。訊ける相手が、暁華だけだったからにすぎないから、すました答えがかえってきたときには、文字どおりとびあがった。 「魚支吾《ぎょしご》さまですわ」 「〈征〉公殿下、ですか」  いいかえたのは、自分自身が確認するためだった。 「まさか、ご自身がおいでになったのではありますまいね」 「あら、当のご本人ですわ」 「いったい、何故。公が上都なさっているとは、聞いていません」 「危急のご用だとか、うけたまわっておりますけれど」 「——こちらに、この部屋においでになるのですね。では、私は」  王にむかって一礼して、立ち上がろうとする淑夜の深衣の裾を、暁華がすばやく押さえた。 「ここに、おいでなさいまし」 「しかし——」  その視線は、巻いた画を両袖に抱いてひっそりと出ていく揺珠の細い背を追っている。 「私がいては」  揺珠を追い立てるように下がらせておいて、自分をとどめておくとは理解に苦しむ。 「かまわぬから、そこに控えておれ。この機会に、〈征〉公の面《おもて》をおぼえておくのもよかろうて」  王までもが口を添える。が、その仕草には、先ほど以上におどおどと、落ち着きのなさが目についた。なにか、うしろめたいことでもあるのだろうかと、不審に思うあいだに——。  随従《ずいじゅう》をふたり、背後にしたがえて、壮年の漢《おとこ》が悠然と姿をあらわしたのだった。  長身のひきしまった痩躯《そうく》に、ゆたかな美髯《びぜん》をたくわえた、こちらはまごうことなき美丈夫といってよい。〈魁〉王とは五歳ちがいのはずだから、この春で四十一歳のはずだが、実際の年齢よりもはるかに若々しく見えた。すくなくともその挙措《きょそ》は、脚の悪い淑夜などより、よほどきびきびと力強かった。うわさでは、国主みずから武芸の鍛練をおこたらぬともいう。経書にも通じ、政務にも熱心である。ことに法をもって厳格に国を治めた結果、〈征〉国内は治安のよさで定評がある。  ——国の安定は、人口の増加につながる。農民は土地に定着するものだが、ひとたび天災や戦乱によって土地が荒れると、たちまち流民となるものだ。そして、彼らが流れていく先は、まず食べていける土地、ということになる。 〈征〉は平地も多く気候もおだやかで、流民が向かう先としては条件のよい土地だった。人口が増えれば、生産力もあがる。民の中から徴収する税も、また兵も増える。正確な数があがっているわけではないが、〈征〉の人口は中原全体の四分の一強、もしくは三分の一弱ともいわれていた。  むろん、これは当代の国主、魚支吾ひとりの功績ではない。数代にわたる魚家の努力が実を結んだわけで、先代の〈征〉公もまた、中原に隠然たる勢力をほこっていた。これもまた先代の〈魁〉王も、ことあるごとに〈征〉の意向をうかがい、寵愛の宮女を下賜《かし》するほどに気をつかったという。  ちなみに、その宮女が一年後に産んだ男子が、支吾である。 「陛下にはみ景色うるわしく、臣より慶賀を申しのべるものにございます」 「遠いところを、ようまいられた。昨秋以来であるな」  しつらえられた座を占め、口上を述べる〈征〉公は、平伏していても堂々としていた。それに対する王はといえば、平素よりは多少、威儀を正しているとはいえ、迫力と生気とでとうていおよばない。位負けというのだろうか、臣下の方がどう見ても偉そうである。 「このたびは、いかい急な上都。いかがいたしたな」 「は、近年、わが国の北辺あたりに戎族の一部族と思われる者らが出没し、いたく被害をこうむっております。彼奴《きゃつ》らを放置すれば慢心し、他国へも影響を及ぼすことは必定。されば討伐の勅書をたまわり、辺地をたいらかにし、また無知蒙昧《むちもうまい》の輩《やから》に陛下の恩沢《おんたく》を知らしめようと存じ、参上いたしました」  よどむことなく、それだけを一気に、また朗々と述べあげた。王の生気のうすい顔に、ちらりと不快な色がはしった。  今の勅書に価値があるとすれば、あくまで形式を整えるという点だけである。小規模な討伐ならば、勅どころか、通告もなしにおこなわれているのだ。今回、ことさらに〈征〉公が形式にこだわるのは、それが大規模な帥《すい》になるのと同時に、〈衛〉の対|荊蕃《けいばん》の戦を意識しているからだ。 〈衛〉の耿無影《こうむえい》は、荊蕃討伐のための勅許こそ得ていたものの、使者をたてての通告のみで、文書は手にしてはいない。〈征〉公は、みずからが王のもとへ願いでることによって、〈衛〉公の不備をあてつけたともいえる。とりようによれば、いかにもあざといやり方だったし、おそらく無影がそう感じるだろう、程度のことは承知の上なのだろう。 「余に異議はない。だが、そういった決定は、子懐《しかい》にまかせてある。子懐に申せ。余は子懐の申すとおりにするまでじゃ」  太宰、冰子懐の力で玉座についた王には、当然、おのれで物事を判断する権限はない。それを知らないわけでもないのに、魚支吾がなぜ、直接こんなことをいいだしたのかと、王もいぶかったようだ。 「太宰家とは、すでに話がついております」 「では、わざわざ申してくるまでもない。余はかまわぬから、子懐と相談せよ」 「ありがたき仰せ。臣、幾重にもお礼申しあげるものです。——では、さっそくながら、陛下にはこれに印璽《いんじ》を賜《たまわ》りたく」  ぴたりと端正な礼を執ってから、背後に影のようにひかえる随従に、眼くばせで合図した。 「これを——陛下」  錦で裏打ちした、一枚の| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》だった。それを膝の前まで進められたとたん、王の顔色が土気色に変わるのを淑夜は見てとった。 「しかし、子懐の許しがなければ……」  本来ならば、太宰の手を通して王の手もとにとどくものである。それでなくとも実権をにぎる冰子懐が、自分をないがしろにするこの一件を知ったとき、どんな反応を起こすかは容易に想像がつく。だが——。 「陛下、この〈魁〉の王はどなたでございますか」  ずしりと重い声で、魚支吾は尋ねたのだ。むろん、答えを期待しての質問ではない。王を追いつめるための、殺し文句である。  現在の〈魁〉の力や王自身の行状が、敬意に値するものかどうかは、淑夜も疑問に思う。だが、〈征〉公の、重厚で礼にかなっているくせに、どこか不遜な匂いのする言動には、ともすると〈魁〉王という権威に挑戦するような気配が、ちらほらと混じるのだった。 「離宮にて、また、略式にて璽《じ》を賜るのはまことにおそれおおいこと。なれど、臣は討伐の指揮のため、明日にでも国許へ出立せねばならぬ身にございます。なにごとも、国のためとおぼしめし、枉《ま》げて願いあげます」 「……小珮《しょうはい》」  魚支吾の、するどい両眼に見すえられて、息がつまるような時間が、どれほど流れただろうか。支吾の存在自体から発される覇気に、最初から王は敗れていたようなものだった。 「璽を持て」  喉の奥からしぼりだした声は、もはや老王のものではなかった。かすかに震える声で命じたあと、王はさらに五、六歳も老いたように見えた。 「ありがたき仕儀にございます。臣よりあらためて、太宰どのには申しおきますゆえ」 「璽を——。いや、余が奥へ行こう。小珮、手を貸せ」  侍僮の手を借りて立ちあがったものの、その脚もとはおぼつかない。思わず、助けに行こうと身体がうごきかけて、淑夜は自分の脚の方がさらにたよりないことを思いだした。  腰をうかしかけて、また座にもどる。そのあいだに、老王の曲がった背は、何重もの紗の帳のむこう側へとかくれてしまった。  だが、淑夜の動作が注意を引いたのだろうか。魚支吾の炯《けい》と射るような視線が、淑夜へと向いた。 「尤夫人《ゆうふじん》」  と、最初によびかけたのは、暁華へである。 「久方ぶりだな。先日来の荷の調達、ご苦労であった」 「おそれいります。お役にたてて、身の光栄に存じます。今後とも、おひきたてのほどをたまわりますよう」  艶然《えんぜん》ということばが、これほど似合う女人も少ないだろう。おそらく華中随一の漢に対して、気おくれもせずに応対してのける婦人も、彼女ぐらいなものではないか。とにかく、息苦しくなるほどの支吾の覇気が、暁華のことばにすこしやわらいだ。 「まだ、もうけ足りぬか」  とは、どうやら冗談口だったらしい。この礼と威儀のかたまりのような壮年の貴人の口から、そんな軽口が出てこようとは予想できず、淑夜はただ、目を丸くするばかりだ。 「なにをおおせられます。あたくしどもは、ほんのわずか、品物を扱わせていただいただけでございますわ」  と、暁華も負けてはいない。あれがわずかなら、大量とは、どれほどの数値をいうのだろうと淑夜は内心で思った。尤家の荷の内容のほとんどを、淑夜はそらんじているのだ。その量の総計も、あらかたではあるが知っている。 〈征〉が尤家にととのえるように命じた物資とは、その大半が武具の類だった。本来、剣や弩弓《どきゅう》、戟《げき》といった武器は、国内での製作、調達が原則である。〈魁〉の権威に、一応|統《す》べられてはいるものの、領地や境界をめぐる小競りあいは日常茶飯である。となれば、いつ敵対するかもしれぬ国に、おいそれと武器を売れるものではない。だが、どうしても足りないという場合も、おうおうにしてある。戦が頻繁になるにつれて、必要な物も数もふえてくる。その隙に、尤家のような商家の介在する場もできるという道理である。  が、もともと、〈征〉は武備のととのった国として知られている。たかが戎族の一部族を討つのに、どれだけの兵力、軍備が必要だというのだろう。だが今回、〈征〉ほどの大国の、この春の麦の収穫のほとんどが、代価として尤家のものとなる。下手をすれば、〈奎〉あたりの小国なら、一、二年は民を養える額が、である。〈征〉の意図を、淑夜が警戒したとしても無理はあるまい。さらに——。  おどろくことは、まだこれからだった。  暁華の返答を、おもしろそうな顔つきで聞いていた魚支吾が、その途中でつい、とたちあがり、ずかずかとその前へとやってきたのだ。  暁華は一応、婦人のたしなみとして帳の陰に下がっていた。淑夜は、さらにその後方に控えていたのだ。その帳幕を、魚支吾はみずからの手で跳ねあげた。  あ——と、声にならない抗議の視線をあげたのは、淑夜だった。暁華は動じるどころか、微笑さえふくんでいた。それどころか——。 「この若者か、尤夫人」 「御意にございます」 「——暁華どの!」  瞬間、だまされた、と思った。脳裏をよぎったのは、昨秋、兄弟子の屈由基《くつゆうき》をたよっていって裏切られた記憶である。とっさに座をはずし、身のかたわらをさぐったのを羅旋が見たら、冬中たたきのめされた効果があったと笑っただろう。もっとも、杖はここへ通される前に舎人《しゃじん》(小役人)にあずけている。それに気づいて、さらに淑夜の顔色は変わった。  だが——。  頭にのぼった血は、自分でも不思議なほど早く下がったのだ。暁華が自分を売るつもりならば、この冬のあいだに機会はいくらもあった。いまさら、彼女が五城の懸賞に目がくらむ道理がないし、相手が〈征〉公というのも理屈にあわない——。それに思いあたって、いますこし状況を見てみる気になったのだ。  魚支吾は、年長者の余裕で淑夜の顔つきの変化をおもしろそうにながめていた。 「どうだ、落ちついたか」 「——は」 「〈衛〉の耿淑夜だな。わしのことは、知っておるか」 「は」 「そう堅くるしくならずとも、よい。尤夫人を責めるでないぞ。わしが、是非に連れまいるよう、無理をいった」  そういって笑ったようだが、顔を伏せた淑夜には気配でそうとわかるだけだ。 「下ばかり向くでない。せっかく顔を見にきたのに、これではわからぬ。——一族をすべて失うたそうだな。つらかったであろう」  身体と精神と両方で思いきり身がまえていた淑夜は、おや、と思った。彼が知っている魚支吾は、世間の評判と、かろうじて羅旋の口を通してだけだが、どちらも目下の者には必要以上にきびしいという点で一致していた。が、今のせりふは、うわさとは異なっている。  不審の念が、淑夜の頭をもたげさせた。挙げた視線が、そのまままっすぐに壮年の漢の双眸《そうぼう》とぶつかった。  眼だけが、笑っていなかった。 「殿下には、はじめてお目どおりいたします」 「うむ。想像していたとおりの面がまえだな」  と、〈征〉公は満足そうにうなずいた。華諸国の中でも第一級の貴人の眼に、自分がどう映っているのかと、淑夜は不安になった。おそらく、加冠《かかん》(成人式)も終えていない、繊弱そうな青二才とでも思われているにちがいない。 「どうだ、尤家の暮らし心地は」 「これ以上ないほどに、よくしていただいております」 「商人の真似ごとが、おもしろいと申すか。そんなはずはあるまい。まったく、尤夫人、そなたらには困ったものだ。士を商家ではたらかせて、なんとする。蓄財の手段にもならぬであろうに」 [#挿絵(img/02_067.png)入る] 「あら、ならぬとお思いですの。今はともかく、このお方が将来大成したら、思いきり恩を返していただくつもりですのよ。そのうち、もっと食客をかかえてみようとも思っております」 「——耿淑夜、おのれが働けるところに、その身をあずけてみようとは思わぬか」  暁華のことばをうけ流し、魚支吾はなおも淑夜へむかって話しかける。 「失礼ながら、おことばの意味をはかりかねますが……」 「しらばくれるでない。そちの能は、充分に調べさせた。左夫子《さふうし》の門下で、若年ながら頭角をあらわしかけていたとか。この冬、〈奎〉へおもむいては、なにやら相談していたとも聞くぞ。どこの背後で暗躍するもよいが、段之弦の力では、そちを〈衛〉からかばいきることはできるまい。〈征〉ならば、それができる。そちが学んできたことも、十全に生かせよう。〈征〉へ来ぬか」 「それは——」  たてつづけにふりかかってきた驚愕に、淑夜は声を失った。身体中が、膠《にかわ》か漆《うるし》でも塗られたように硬直したまま、もどらない。〈奎〉とのつながりを知られているのは、いたしかたないことだとしても、やはり肝が冷える。しかも、そのあと、この貴人はなんといった? 「どう、思うな」  豊かな声量で、ぐいと顔をのぞきこんできた、その眼光に思わずすいこまれそうになった。羅旋とはまた異なった意味で、強い魅力のある眼だった。羅旋が西の風を思わせるならば、この漢は厳然たる華の文化と礼節と、秩序とを体現しているのだ。  淑夜がそれまで想像していた〈征〉公とは、中原を武力でもって睥睨《へいげい》し、〈魁〉宗室をないがしろにする無義の権力者でしかなかった。だが、逢ってみて、よくわかった。  ただ名家の出であるとか、偶然に大国の世継に生まれついただけではないのだ。それにふさわしい器量がなければ、一国をたばねきることなどできるものではない。さらにここ数年、〈魁〉宗室への発言力を強めているとなれば、なおのこと。この漢は、たしかに、実力と魅力とを兼ね備えた一代の英主なのだ。  たとえば、このまま誘いにのって、〈征〉に仕えたとする。自分にどんな、そしてどれだけの能力があるのか、淑夜はまだ、はっきりと把握してはいない。が、〈征〉に仕えれば、まちがいなく、力を最大限に発揮できる職務と場とを与えられるだろう。だが——。 「淑夜さま、ご下問ですのよ。お答えを」  暁華が切れ長な眸をめぐらして、うながすのを、逆に魚支吾は制止した。 「いや、即座に是非を問う方が無理というものだ。時を置こう。のちほど、決意のほどを知らせればよい」 「〈征〉公殿下に申しあげます」  孩子《こども》の声が、奥の帳幕のすそから流れてきたのは、そのときだった。 「陛下には、にわかなご不快にて、ふたたび謁見することはかなわぬとの仰せにございます。これを、お手もとにまいらせよと」  小珮が、ちいさな身体をさらに小さくかがめて、すり足で魚支吾の前へとすすみ出た。頭よりも高くささげた両手のあいだには、さっきの錦帛《きんぱく》がうやうやしく載っている。  それを、ひとつうなずいただけで、支吾はいとも無造作にとりあげた。そのあいだに、淑夜も白い| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》の表面を、ちらりとではあるが見ることができた。  書きつらねられた文字を、ひとつひとつ読みとるところまでは、さすがにいかなかったが、文の最後の朱《あか》い色だけは見てとれた。  玉璽《ぎょくじ》の印影である。  これは、元は〈魁〉の夏氏が滅ぼした、〈世《せい》〉の王朝が持っていたものだという。瑞祥《ずいしょう》を見て得た玉石を、当時の名工に細工させたもので、わずかに方寸《ほうすん》(約二・二五センチ四方)、印面には『受命於天《じゅめいおてん》』の四文字が刻まれていると、世の中には伝わっていた。  噂の文字こそ、はっきりと見ることはできなかった。が、その小さな印の跡に、淑夜は意外な思いをかくせなかった。  正直にいって、こんなにちいさな布の染みをめぐって、魚支吾ともあろう大丈夫《だいじょうふ》がわざわざここまで足を運び、王が顔色を変えたのかと思うと、愕然とした。さっき見た| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》と、今、目前にあるものと、どこがどう違うのだろう。ただ、この朱色があるだけで、魚支吾は大義名分を手にいれた——ひいては、権力を手に入れたことになるのである。  それに気づいて、釈然としないおももちをあげたときには、支吾は件《くだん》の| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》を随従のひとりにあずけている。 「では、臣も別離のごあいさつ、申しあげずに退去いたす。陛下には、玉体のやすからんことを」 「あら、もう、お帰りになりますの?」 「先ほどもいったとおり、急ぎおるのでな」  手にいれるものさえ入れれば、あとは用はないといわんばかり——すくなくとも、淑夜にはそうとれた。暁華も、同じことを思ったのかもしれない。 「もう、夕刻ですわ。今から義京へもどられても、城門が閉じておりましょう」 「牒《ちょう》(許可証)は、得てある」 「雨が降ってまいりそうですわ。お車といえど、暗い道では難儀いたします。今宵はこちらに泊まられては」 「なに、都へ着くまで、保てばよい」 「でも、万一|濡《ぬ》れては、お身体にさわりますわ」  どこまで、本気なのだろう。からかうような微笑を、紅いくちびるにふくんで、暁華はなおもひきとめるそぶりを見せた。が、支吾はその誘いにのる気はないようだった。 「尤夫人。そちの配慮はうれしいが、一日を争うのだ。でなければ、民の暮らしにもかかわるのでな。それとも——わしを、戦場へまで温涼車《おんりょうしゃ》を同道するような柔弱者と、とりちがえておるのかな」  温涼車とは、台車の上の四方を覆い天井をつけた、箱車のことである。両側に窓があり、その開閉で寒暖の調節をするため、この名がある。  ——奇妙な噂があるのだ。昨秋、またこの春の〈衛〉の戦の陣中に、戦場にはそぐわない温涼車があったというのだ。むろん、無影の乗用ではない。中をのぞいた者もない。  が、淑夜は、推測でその人の名を的中させていた。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》、という。  無影の母方の遠縁にあたり、〈衛〉国一の麗名をうたわれた美女であり——淑夜たちのおさななじみでもある。無影が前国主を弑したあと、その室に納められたとも噂される。無影が、どこへ行くのにも——都へも、征途につく際も、連姫をともなっていくという話も流れている。  真偽のほどは、淑夜にも確信はないが、ただ、噂をもとにして支吾が無影をあてこすったことだけはわかった。 「では——」 「〈征〉公殿下に、申しあげます」  支吾が向けた背へ、淑夜は噛みつくように声をかけていた。 「返答は、後日でよいといったぞ」 「いえ。失礼ながら、ご質問申しあげることを、お許しいただけますでしょうか」 「申せ」 「〈征〉に仕えよとのおおせ、まことにありがたく存じます。ですが——、私が耿無影の親族でなく、彼に恨みももたぬ、ただの礼学の徒でありましたなら、〈征〉の臣としてくださいましたでしょうか」 「——否だ」  支吾は、虚言《うそ》をいわなかった。いや、この場合、かくしだてが無益なことを充分に承知したうえで、居なおってみせたのだ。たしかに、正しい方法だった。実際、その率直さに一瞬、淑夜は目がくらむ思いさえしたのだ。だが——。 「では、このお話、聞かなかったことに、いたします」  ゆっくりと、一語一語たしかめながら、淑夜はいいきったのだ。 「淑夜さま——!」  意外といった表情で身をのりだした暁華を、手ぶりだけで制しておいて、 「——断ると、申すか」  こちらも、憮然《ぶぜん》となりながら、ずしりと重い声でいう。 「逆に、聞く。その理由は」  納得いく説明ができなければ、ただではおかないといわんばかりの迫力である。が、淑夜の腹は、すでに決まっていた。 「殿下は、私を一本の剣に仕立てるお考えです」 「わしは、そちを刺客に使う気はないぞ」 「ですが、無影を倒すために必要とされておられます」  淑夜を召しかかえたと聞けば、無影は〈征〉に対して抗議を申しいれるにちがいない。どういう形にしろ、放置できることではないからだ。身柄の引き渡しを求めてくるのは、確実だろう。 〈征〉が淑夜を見すてる気づかいは、まず、ない。そんなことでみすみす家臣を失っては、他の者にも、他国に対してもしめしがつかないからだ。その点は、安心してもいい。だが、引き渡しに応じなければ今度は、〈衛〉が面目を失う。拒否されれば、〈衛〉が〈征〉を攻めることになるだろう。そして——。  淑夜は、〈衛〉を戦に引きいれるための口実だという見方も、成り立つわけである。 「不服か。同族を滅ぼされた恨みを、忘れ去ったか。故国へは刃をむけられぬか。それとも——耿無影への敬慕の念を捨てきれぬか」 「だとしても、あちらが許してくれますまい」  支吾の、最後の挑発と冷笑に、しかし淑夜は、自分でも不思議なほどに冷静に応えることができた。 「故国とも、できれば戦いたくありません。いえ、どこであろうと、ひとりの恨みによって滅ぼしてよい国などあろうはずがありません」 「では、耿無影を、このままに許しおくつもりか」 「殺す必要があれば、そのときは——。しかし、今は、その名分がございません」 「主君を弑するのが、理由にはならぬというか」 「しかし、国はよく治まっております」 「では、どうするつもりだ」 「……無影が、民から見はなされるような事態になれば、そのときこそ」 「だが、そちは今、あやつがよく国を治めていると申した」 「なにも、永久というわけでもないでしょう」 「今日明日というわけにもいくまい」 「それまで、待ちます」 「待てるか。十年二十年ではすまぬぞ。一生かかっても、無理かもしれぬ」 「ならば——そうなるように仕向けます」 「それを、わが元でやれといっているのだ。〈征〉ならば、耿無影を独夫《どくふ》とし、華からうちはらうことも可能だ」  わが意を得たという風に、魚支吾は身をのりだした。おそらく、おのれの弁舌に絶大な自信をもつこの漢は、まんまと術中にはめたと思ったにちがいない。  だが、淑夜は眼をかるく伏せることで、否定の意をあらわしたのだ。 「とうてい、殿下の思惑とは合致しますまい。それこそ、十年以上かかるでしょうから」  この漢が欲しているのは、ここ数年のうち、〈衛〉の力がこれ以上伸びないうちに無影をたたき、支配下に入れることだ。そのぐらいは、淑夜にもわかる。 「生涯、そんなことをしているつもりか」 「はい——いいえ、たった今、その覚悟を決めました」  淑夜も、率直に答えた。ほんとうに、今、一国のあるじを相手に、息もつけないほど緊迫したやりとりをしているうちに、そう決心したのだ。  無影が裏切りと暴力で手中にしたものを、ひとつひとつ取りかえすのだ。何年かかろうと、たとえ自分の代で称《かな》うことではなくとも、それが、自分の成し得る復讐ではないだろうか。その方法で淑夜を相手に敗れたならば、無影もおのれの成したことの意味を悟るのではないか。  だが、そこまでは淑夜も口にはしなかったし、それ以上のことを支吾も追及しようとはしなかった。  それまで、鋭く切り結ばれていたことばが、ぴたりと熄《や》んだ。沈黙が、まるで雨のように室内に降りかかった。いや、実際に扉の外に、ばらばらという音と水の匂いとがたちこめたのだ。 「殿下——」 〈征〉公の、若い随従がおそるおそる、うながした。うむ、と、壮年の漢は肯首した。 「まだ、あきらめたわけではないが、時がないこともある。今日のところは、ひきさがる。そちが、この先、どれだけのことができるか、見せてもらうぞ。尤夫人も、ご苦労なことであったな。——例の戎族にも、よしなにな」  最後のひとことは、あきらかに皮肉だった。暁華も、黙礼だけで支吾に応じたのみだ。それ以上、だれも口をきこうとはせず、やがて〈征〉の国主の姿も気配も、遠くへ消え去ったのだった。 「申しわけなく思います」  沈黙をやぶったのは、淑夜だった。われにかえってすぐに、暁華へむかって深々と頭をさげた。その若者の背へむかって、 「——よう、申されました」  暁華の、これほど感じいった声調を聞いたのは、この半年ではじめてだった。思わずあげた視線の先で、尤家の女主人はせいせいしたといった風に笑っていた。 「ここいらあたりが」  と、胸のあたりをなでて、 「すっきりといたしましたわ。あの傲岸不遜《ごうがんふそん》のお顔がひきつるところなど、はじめて見ました。さすがは、左夫子さまの門下だけのことはおありになる」 「もう、破門されていますよ」  通告されたわけではないが、お尋ね者を弟子にしておくような人物ではない。淑夜はやっとそこで、苦笑ではあったが笑うことができた。 「ところで、まさかあたくしが、あなたさまを売ったなどとお思いではないでしょうね」 「わかっているつもりです。寿夢宮でなら、〈征〉公も、勝手なふるまいはできぬと思われたのでしょう」 「ああ、よかった。あなたさまに誤解されて、羅旋にでも告げ口されたら、たまったものではありませんもの。——ところで、陛下のお加減はいかがですの?」  と、もう、けろりとした顔つきで、まだその場に控えている小珮にたずねた。侍僮は、孩子《こども》には不似合いな困惑の表情で、平伏した。 「どう、なさいましたの」 「お願いがございます。どうか、奥までおいでくださいませんでしょうか。陛下が——」  そこで、口ごもってしまった。 「ほかの宮女がた、舎人《しゃじん》たちはどうなさったの」  そういえば、宮内部の人の気配が少ない。淑夜がはじめてここへ来た時も、がらんと空虚な印象がしたのだが、さらにひどくなったようだ。あたりはすっかり暮れなずんでいるというのに、この室ですら燈の一基を置いただけで、追加を持ってくるようすもないのだ。 「だれも、陛下のご寝所へは近づきませぬ。お側にあがられるのは、妃殿下ただおひとりです。でも、陛下のあのごようすでは、妃殿下のお手をわずらわすわけにも——」  要領が得たようで得ない説明に、 「こまりましたわね。いくらあたくしでも、ご寝所まで入ることはできませんわ。淑夜さま……」 「しかし、私ならなおのこと」  暁華の眉間に、めずらしくけわしい縦じわが一本、浮かびあがった。いつもにもましてきつい口調で、 「淑夜さま。とりあえず、陛下のごようす、みてさしあげてくださいませ。あたくしは、揺珠さまの方が心配になってまいりました。どうも、ここの空気も妙になってきたようだわ……」  最後のことばは、これもまためずらしく口の中でつぶやいたせりふだった。  王は、さらに奥の一室で泥酔していた。小珮によれば、強い白酒《はくしゅ》をここへ運ばせて、爵《しゃく》(さかずき)で数杯、たてつづけにあおったのだという。酔った勢いで、玉璽を押したのだろう。そこまで思いきらなければ、あのちいさな印を押すこともできなかったというのか。 「陛下、陛下——」  おそるおそる、遠くから声をかけても反応がない。思いきって、膝立ちのままかたわらへ寄る。だが、呼んでもゆすっても、目ざめる気配はない。  ついに、淑夜は小珮の手を借りて、王の身体を文字どおりひきずり起こす。そのまま小珮の指示にしたがって、王の寝所といわれる一室へやっとのことで運びこんだ。  手近にあった衣を掛けて、小珮は、水を汲《く》むために下がっていった。淑夜も、老王の寝息が規則正しいのをたしかめて、ひきさがろうとした、そのときだった。 「……雨か」  ぽつりと、声がひびいた。 「緑雨《りょくう》です」 「うむ——」  春先の、野をうるおす大切な水分だった。雨足は弱く、糸よりも細いおだやかな雨が、夜の闇を濡らしていた。寝所の隅に点《とも》されたちいさな灯が、老王の疲れきった横顔を浮き上がらせていた。しばらくは、王は闇を見つめたまま、雨音に耳をかたむけていたが、 「余を、意気地なしと思うておるであろう」  明晰な声だった。さっきまで、立てぬぐらいに酔っていたとは思えない、力強さがあった。それとも、芯から酔えなかったのだろうか。 「けっして」  淑夜は否定したが、それに対してさらに否定しかえすような冷笑がもどってきた。 「余は兄弟を殺してこの座についた。子を死なせ孫をうしない、猜疑のかたまりとなってこの座にしがみついた。子懐のいうがままに、遊蕩のかぎりを尽くすためにな——。そう思われておるのは知っている。思われるように、努めてきたのだからの」 「陛下」 「そちに、申しておく」 「うかがいます」  不自由な左脚を手で折って、淑夜はいずまいを正した。ここに横たわっているのは、覇気のない老人ではない。生涯おさえつけてきた胸の熱を、一気に噴出させた漢だった。 「〈魁〉は——華《か》は、一年以内に滅びるぞ」 「——!」  あまりに重大な宣告が、いとも簡単になされたのだ。絶句しない方が、どうかしている。いつのまにかくっきりと見ひらかれた王の両眼は、しかし、それを否定させないだけの強い光に満ちていた。 「おどろくことはない。どうせ、世継もおらぬのだ。余の千載《せんざい》のあと(死の婉曲表現)、だれが立てられてもかならずだれかが不満をいだく。世は乱れる。それが、すこし早まるだけのことじゃ。——あとのことを頼むとな、そう、暁華に伝えてくれ。それだけをいえば、あの者にはわかるであろう」 「はい——」 「——不憫《ふびん》で、ならぬのだ。あれ[#「あれ」に傍点]を手もとにとどめておいたのは、余の誤りであった。孫が歿したあと、すぐにでも親もとへ、〈琅《ろう》〉へ返してやればよかった」 「あれ」が、揺珠をさしていると察したのは、〈琅〉の名が出たからだ。王の意識はふたたび混乱している、と淑夜は思った。そのあとのせりふは、ときどき発音も不明瞭になり「あれ」が示す人物もくるくると変わり、淑夜には意味がとりにくかったからだ。 「子懐は……、あれ[#「あれ」に傍点]の、娘にまで害を及ぼそうとした。だから、〈琅〉へ逃がしたのじゃ。なのに、その娘をよこせと……〈琅〉公があれ[#「あれ」に傍点]に扇動されぬようにとの質子《ちし》じゃ。それを知っていながら、なにひとつ——止められなんだ。なにも、できなんだ。余の生涯はすべて無駄であった。ただ、あれ[#「あれ」に傍点]だけは……」  声が、詰まった。嗚咽《おえつ》が、あとの静寂を満たした。  淑夜は、みじろぎもできないでいた。曲げたままの脚は痛んだが、動けばそのまま王の息が絶えてしまいそうな気がしたのだ。それほど急速に、彼の身体全体から覇気と光芒とが衰え、抜けおちていった。 「耿、淑夜」 「はい」 「もうひとつ、暁華に伝えよ。支吾に気をつけよとな」 「は——」 「余の息が止まったら、まっさきに、王位を要求するのは、あの漢であろうよ——」  それは、なぜかと問う前に、老人は昏睡にひきこまれていった。 「陛下——。もう御寝になられましたか」  小珮のかるい足音と、細い声が帳幕の外から聞こえてきたころには、深い寝息だけが室内を支配していたのだった。  ——後に謂《い》う、〈魁〉の衷王《ちゅうおう》十六年、夾鐘《きょうしょう》月(二月)の初旬のことであった。 [#改ページ]  第二章————————虹      (一)  雨は、十日のあいだ、熄《や》むことなく降りつづいた。  中原《ちゅうげん》の春先の数日間は、みじかい雨季でもある。南北の地で雨量の差はあっても、この季節には雨が多いものだ。だが、今年の雨は異常だった。  結局、淑夜《しゅくや》は豪雨の中、びしょぬれになりながら寿夢宮《じゅぼうきゅう》を辞すことになった。荷箱になにをきせかけたところで、雨は容赦なく内部へ染みとおってきたからだ。  この雨で、義京《ぎきょう》の城内でも被害があいついだ。  だいたい、このあたりの土は河が運んだ黄土に厚く覆われている。肥沃《ひよく》な土地だが、肌目《きめ》が細かく脆《もろ》く、水に流れやすいという一面もある。義京城内の家のほとんどは、この黄土を築《つ》きかためた壁や塀をめぐらしている。材料は無料《ただ》で手近にいくらでもあるし、水に弱いという点も、少々の雨ならばよく吸いこんでしまい、そのあと日に照らされればかえって堅く締まるからだ。そして、義京の周辺では、めったに大雨が降ることはなかった。  その大雨が、降ったのである。  都の外郭の城壁のように、表面に煉瓦《れんが》を貼ってあるならともかく、一般の家では塀や壁の倒壊があいついだ。尤家《ゆうけ》のような富家ならば、塀が崩れても応急の処置はできるし、直すのもすみやかである。だが、ひと間きりの掘っ立て小屋では、壁がこわれればそれまでだ。雨は水煙をたてて内部にふりこみ、泥沼と化した。倒れた土壁の下敷きになって命を落とした者も、ひとりやふたりではないという。  それから、異変の噂がひろがった。  曰《いわ》く、ある地方で木を伐《き》ったところが、悲鳴をあげて、切り口から血を流した。  曰く、雨のためにできた池に、青蛙が大発生した。それが、数日後にはすべて蛇に変じた。  曰く、雄鶏が雌鶏に変じた。岩が人語を発した。王宮、七星宮の正殿から夜半に音曲が聞こえてきた。宿直の者がのぞきにいったところ、鼠の類が宴を張っていた——等々。  特に、最後の話など、本来ならば毎日、百官が居流れるべき場所である。にもかかわらず、今はなかばうち捨てられているだけに、妙に信憑性のある怪異譚ではあった。  その一連の噂を、淑夜は〈奎《けい》〉の都である青城《せいじょう》の城内で聞いた。 「——君ならば、どう思うな」  まだ夜も明けきらぬうちから青城の城壁の上にたたずんでいた淑夜に、そう尋ねかけてきたのは、三十歳代なかばの、分別ざかりと見える貴人だった。  段《だん》氏、名を鸞《らん》、字《あざな》を士羽《しう》。〈奎〉伯、段之弦《だんしげん》の二公子で、嗣子である段大牙《だんたいが》の庶兄《しょけい》にあたる男である。 〈奎〉伯には、男子が三人あった。嫡長子である鴻《こう》は生来病弱で、成人した現在も病床を離れられない。そこで長いあいだ、側妃の子として生まれたこの士羽が、〈奎〉伯の後継者になるものだと思われてきた。だが、十歳以上も離れて大牙が生まれると、士羽は自分から父親に勧めて、その幼児を正式の世子《せいし》に立ててしまったのだ。  当時、その真意については、かなり取り沙汰されたらしいが、詳細は淑夜には知りようがない。彼が生まれる前か、せいぜいが当歳の嬰児のころの話だからだ。  彼が知っているのは、段士羽が中原でも名のとおった文人であることだけだ。詩もよくするが、民間の歌謡を集め編纂《へんさん》したものの編者としての方がよく知られていた。淑夜も〈衛〉にいたころに、無影からその写本を見せられたことがある。  高名は以前から耳にしていたが、何度か青城を訪れながらもずっとかけちがっていた。その人物に、淑夜は今回の訪問でようやく逢えたというわけだ。  ——好きで来たわけではない、と、淑夜はなかば拗《す》ねながら思っている。拉致《らち》されたというには問題があるが、夜中、それも雨の中を尤家をぬけだしてここまで二日、それも慣れない馬にくくりつけられてひっぱってこられては、そういう気分になる。ほんとうに文字どおり、身体を馬の胴にしばりつけての道中は最悪だった。  むろん、大手をふって白昼、城門を出るわけにはいかない身だ。が、暁華《ぎょうか》にあいさつもせず、尤家の厩《うまや》から追風《ついふう》、超光《ちょうこう》のほかに副馬として二頭も連れだしたとなれば、多少の良心のとがめはある。  そのほかにも、本来なら夜は絶対にひらかない都の城門を賄賂《まいない》で開けさせるなど、非常手段をつかってきたのは、生真面目さがぬけきっていない淑夜には、かなりの負担だった。  そこまでして、一刻も早く〈奎〉まで来いと人づてにいってよこしたのは、羅旋《らせん》である。彼は、暁華と淑夜が寿夢宮からもどったときには、屋敷から姿を消していた。共寝《ともね》していた玉奴《ぎょくど》が、朝、目醒めてみるともう見えなかったというほど、あざやかに行方をくらましたのだ。  その羅旋が、来いと呼んだ。しかも、使者にたててきたのが野狗《やく》といって、淑夜も旧知の男。これが夜盗《やとう》を生業《なりわい》とする無頼者で、尤家の淑夜の室へ夜、突然、音もなく降ってきた。ひどく四角いその顔に見おぼえがなかったら、淑夜は迷わず大声をたてていたところだった。  とにかく、野狗の手引きで尤家を抜け出し義京を出、文字どおり夜を日についで青城に来てみれば、羅旋はここにもいない。〈奎〉の太子、段大牙の言によれば、一日か二日、青城の城下にいたようだが、またすぐにどこかへ行ってしまったという。ただ、淑夜が国主に逢えるように手配だけはしてあり、青城の城門をくぐると同時に、淑夜は大牙の出むかえを受けた。そして、国主の館での客としての待遇を与えられたのだった。  ただ——。  先年より淑夜に目をかけてくれていた老伯、段之弦は病に伏せっていた。痛風だという話だったが、老齢もあろう。身体がめっきり弱って、国務も執《と》れないほどだという。そのために大牙が忙殺されており、かわって淑夜の身柄をひきうけてくれたのがこの二公子、段士羽、というわけである。  もっとも、ふたりとも悠長に世間話をしていたわけではない。  士羽にひきあわされたその席で、淑夜は、〈征〉公が戦の日取りと会戦の場を示した通牒を発したことを聞かされた。 「それは、そうでしょう。そのために、あの方は寿夢宮まで、じかに勅書に玉璽《ぎょくじ》をたまわりにのりこんで——」  いいかけて、淑夜ははたりと口を閉じた。通牒の意味するところに気づいたのだ。  戦の時と場を指定するのは、中原の礼であり戦の方法である。文字も礼も知らぬとあなどっている蛮族相手に、会戦の約束などとりかわしはしない。とすれば、相手は華の国ということになる。 「——どこ、です。相手は」 「〈帯方《たいほう》〉国だよ」 「名族中の名族ではありませんか」  このめずらしい二字の国名は、かつて〈魁〉が滅ぼした〈世《せい》〉の王族の末裔である。血族をすべて滅ぼしてしまうと、その一族の祖霊が崇《たたり》を為す。そのため、血脈だけは残して保護するのが通例で、〈帯方〉はそうして建てられた国である。見方によっては、〈魁〉よりも古く高貴な一族なのだった。  ただし、その領土は〈征〉のさらに北東という辺地にある。体《てい》のいい、中原からの追放にほかならない。それでも、寒冷な気候と険阻《けんそ》な地形にもかかわらず、また、近年はなかば〈征〉の属国と化しながらも、旧〈世〉の遺民たちは生き長らえてきたのだ。 「それを、なぜ」 「〈帯方〉は、出兵を拒否した」 〈征〉は、なにも一国の利益のためだけに、戎族《じゅうぞく》を討つのではない。戦に莫大な費用がかかることを思えば、この討伐で利益を得る国へ、〈征〉が応分の負担を要求するのは非道ではない。しかし、〈帯方〉は拒否した。 「——出そうにも、人がいない」  というのが、その回答だった。事実、〈帯方〉は五年続きの凶作に見舞われ、他国から食料を借りて、ようやく餓死をまぬがれているという。 「兵を出せば、男手を失った農地はたちまち荒れる。だが、出さなければ、〈魁〉王の勅書を盾にとった〈征〉に攻められる——という仕組みになっている」  士羽のせりふはその外見と似かよっていて、いかにもおっとりと、遠い別世界の出来事のようだった。だが、その端正でおだやかな顔の裏側で、別の思惑が動いていたことを、淑夜はすぐに知ることとなった。 「わざと——、拒否させた? なぜ、そんな危険なことを」 「どちらにしても、兵は出せないだろうからね。拒否をすれば、〈征〉は〈帯方〉の非を鳴らす。だが、魚支吾《ぎょしご》は気づいていない。〈征〉のやりように不満をいだく国も多い、ことに〈魁〉を宗室とする夏氏の国は、王をないがしろにする〈征〉を、よくは思っていない」 「……気づいて、います」  淑夜は、自分の顔が青ざめていくのを実感していた。 「あの方は、〈奎〉のこの冬の動きを、あらかた悟っています。寿夢宮で、あてこすられました」 「だが、われらがうごくとは思っていないよ。少なくとも、歩調をあわせられるとは思っていない。〈魁〉王が代がわりするたびに、骨肉の争いをやってきた間柄だからね。でなければ、あてこすり程度では、事はおさまらなかったはずだよ」  場所が寿夢宮であっても淑夜を拉致《らち》しにかかっただろうし、その前に〈奎〉に向かってなんらかの示威行動があったはずだ。  この冬、中原の北方を主に占める夏氏の各国をひそかに説いて歩いていた策士は、いかにも人の良さそうな笑顔で判断してみせたのだった。 「戎族を攻める分には、われらが口を出す筋あいではない。むしろ、援助する立場だ。だが、華の民を——一点の非もない同胞を討つのは、天道に反する。天命を受けた夏氏の一族として、勅書を悪用させるわけにはいかない。これが、われらの大義名分となる」 「ですが——。たしかに他の国主の賛同は得られましたが、いざとなって、翻意《ほんい》する方も出るのではありませんか」  ある意味では、魚支吾の見切りは正しい。が、士羽は平然たるものである。 「そうしたら、こういってやればいい。〈帯方〉の次は、貴国の番だとね」  腹ちがいとはいえ兄弟だから、大牙とよく似た人好きのする笑顔を見せる。だが、精悍そのものの大牙とはちがって、この漢の表情には人の心をなごませる——というより、精神に生えた刺《とげ》をくるみこんでしまう作用があるようだった。もっと悪くいえば、口先で丸めこんでしまうわけである。  多くの国がこの漢の説得にのった。そして、淑夜も結局、承知させられてしまったのだ。一軍に従って、〈征〉へ向かう、と。  思ってもみなかったことだった。  戦は、昨秋の巨鹿関《ころくかん》で懲りたつもりだった。たとえ関わるとしても、後方で建策をするか、物資を送りだす手配をする程度が自分の器量の限界だと思っていた。〈奎〉にも、そのつもりで来たのである。  だが、士羽に説かれた。  今、〈奎〉にも人手は少ない。巨鹿関の被害はおどろくほど軽微だったが、装備、糧食、戦費など、まだ補充できないものが多い。それでなくとも、小国の悲哀は〈帯方〉と共通するものがある。近年の天候不順を考えれば、ここで大規模な戦をするのは得策ではない。 「そこで、また、羅旋に頼ることになった」  人頼みはよくない傾向だと笑いながらも、これしかないのだと、士羽はいった。 「あの漢は、無頼を集められる。農地を離れて流民となった者たちを統合して戦力にできる。小勢で大勢を破る法を知っている。ただ、問題はよい補佐役がいないことだ」 「壮棄才《そうきさい》という者が——」 「知っている。あの男にも謀士の才はある。だが、羅旋の命令ならばどんな工夫もするが、羅旋を制止はしないだろう」 「私のいうことを聞くとも思えませんが」 「それは、知っているよ。あの漢のことだ、こうと思ったら、他人のいうことなど聞かぬ。だが、だれかがそばで異論を唱える必要も、あるのではないかな」 「そのうちに、耳を貸すようになるとおっしゃいますか」 「おのれが困れば、いやでも知恵を借りにくるようになるよ。気の長い話だが、どちらにしてもその覚悟はつけたのだろう」  淑夜は、魚支吾とのやりとりのあらかたを、士羽にうち明けていた。たくみに、誘導されたといった方が正しいかもしれない。無影ひとりの生命を狙うのではなく、武力をもって〈衛〉を滅ぼすのでもなく、無影の選んだ方途《みち》を否定しその地位から追うことで復仇とする。その淑夜の決意に、士羽は賛意を示してくれていた。 「——君が単身、一族の仇をとりにいった勇気と行動力は、高く評価しているよ。だが、剣で人をひとり殺すだけなら、匹夫《ひっぷ》でもできることだ」  魚支吾がなんと思ったか、また世間がどう評価するかは、またべつの話だが——とも、士羽はつけ加えた。  もうひとつ。 「事はもう、うごきだしてしまったのだよ。このまま、手をつかねていれば、〈帯方〉一国が地上から消え去る。数万の人間は、一国の人口としては少ないかもしれないが、無辜《むこ》のうちに死なせるには、多すぎるとは思わないか」  そのとき、淑夜の脳裏を横切ったのは、無影に殺されたおのれの一族の数だった。一瞬、悪夢で何度も見た一家の幻影に、巨鹿関で嗅いだ死臭がかさなる。  死んだのは、父や兄弟姉妹たちだけではない。血縁につらなる者はいうに及ばず、長年|耿《こう》家に仕えてきた家令《かれい》、侍女たちまで、総勢百人をかるく越すという。中には淑夜が逢ったこともなく、名も知らない者もいる。だが、どう多く見積ってもその数が千人に至ることはない。  数万といえば、その数十倍。  義憤にかられるほど、自分が偉い存在だとは決して思わない。が、聞いてしまった以上、そして助力を要請されて拒絶できるほど淑夜は厚顔でも、意志が強くもなかった。  ——そういうわけで、淑夜は大牙がひきいる軍にしたがって巨鹿関まで行くことに同意した。大牙は、巨鹿関の守備をかためる。さらにその先に、羅旋が手勢をあつめて待っているというのだ。  そして、この朝。  出発の準備がととのうまでのあいだ、淑夜は手もちぶさたなままに、城壁の上にたたずんでいた——と、いうわけだ。  ちなみに、青城は巨鹿関と義京をむすぶちょうど中間にあたる。正確にいえば、公路のなかばから北へ十数里(一里=四〇五メートル)、それた地にある。北と東西を山にかこまれ南にむかってひらけた、いわゆる風水《ふうすい》のよい地で、華に覇をとなえる前の〈魁〉も一時国都をおいたことがある。ただ、この地はいかにも手狭で、中原を統べる都としてはふさわしくないという理由で義京へ遷都《せんと》した。  なるほど、今、淑夜が立っているほぼ方形の城壁は、東西南北、おのおの約二里半(約一キロ)ほどの距離しかない。地形の関係から、これがせいいっぱいの距離なのだ。城壁自体は、高さが十数丈(一丈=二・二五メートル)、上部の幅が約七丈(約十五メートル)、十分、戦車が走れるほどもある。壁というより、小高い土手と呼んだ方がいいかもしれない。その外郭に沿って濠《ほり》が掘られている。ふだんは、ほとんど空濠だが、今は、ここ数日の大雨で黄色い水が、なかばまでたまっていた。  義京の城壁が、やはりほぼ方形で一辺の距離が七里半(約三キロ)ある。ただし、濠はごく浅く、かわりに城壁が高くなっている。淑夜の育った〈衛〉の国都、瀘丘《ろきゅう》もそのぐらいか、ひとまわり小さいほど。〈征〉の国都、臨城《りんじょう》は最初こそ同規模だったが、増築に増築を重ねていまや、もっとも短いあたりでも一辺十里(約四キロ)以上あるという。これは、臨城が河の下流の、平野の中心に建設された城邑《じょうゆう》であることも関係がなかったわけではない。  もうひとつちなみにいえば、〈衛〉の瀘丘の城壁はここまで高くない。かわりに濠の幅をもっと広く、深くして常に水を漲《は》っている。土地が、黄土とはちがって水に流れにくい黒土のうえ、水の豊富な江南ならではの防備方法である。  淑夜が感慨にふけっていたのも、その風土のちがいに思いあたっていたからだった。  戦に出るといっても、今のところ淑夜は、分厚い戦襖《せんおう》をまとっただけの軽装である。一方、士羽は黒紗《こくしゃ》の深衣《しんい》に鳥の羽のついた冠をきちんとつけ、環《かん》と剣を佩《お》びた正装である。淑夜の服装は、従軍する者としては軽装すぎたし、士羽のいでたちも城壁の上へあがるには正式すぎた。都の朝儀に列席するか、国都で祭祀をとりおこなうような場合にしか用いない装束なのだ。  しかも、その大切な衣装のまま城壁の墻《しょう》によりかかり、下でたちさわぐ人の姿を見おろした。墻は、夜半まで降りしきっていた雨で、じっとりと濡れている。雨の気配はまだ、周囲をとりまく山ひだに白い霧となってただよっているほどだ。いったんは注意しようかと思った淑夜だが、士羽の顔を見て、とりやめた。 「都の噂、君はどう見る」  いたずらを仕掛ける孩子《こども》のような微笑と、弟子を試す師の意地悪さとがいりまじった表情だったのだ。 「それは——吉凶をうらなえということでしょうか」 「五叟《ごそう》老人が、君を弟子にしたがっていたと、大牙から聞いているよ」 「たいしたことは、聞いていません。巫《みこ》になる気はありませんから。ですが、尤家で読んだ書物の中には——」  いいかけて、淑夜はいいよどんだ。 「凶兆であることぐらいは、私にもわかるよ。心配しなくてもいい。ここなら、他に耳はない」 「下、上を侵《おか》す験《しるし》とありました」  低く、口早に淑夜はつぶやいた。 「やはり、そうか」  士羽は、おどろいたふりすらしなかった。彼ほどの人物なら、古書に通暁《つうぎょう》していても不思議はない。ただ、淑夜の知識を通じて確認したかっただけのことなのだろう。  むきになったのは、淑夜の方だ。 「しかし、すべて噂にすぎません。たしかめた者もおりません」 「問題は、なにが起きたかではない。それが、人心にどう作用するかだよ。——〈衛〉の耿無影もそのために腐心した。負け戦の傷を癒すためには、多少、無理をしてでも勝ってみせるしかなかった」 「…………」  淑夜の沈黙を、士羽はおもしろそうに見ていた。 「今のわれらがしなければならないのは、その凶兆を、瑞祥《ずいしょう》にすりかえてしまうことだよ」 「戦に勝て、ということですか」 「武力で勝つ必要はない。だが、〈征〉にかぎらず、〈魁〉宗室をないがしろにはできないと、示すことはできると思うし、必要だと思う。今まで、国と国との小競り合いはあっても、中原全土を巻きこんだ戦にならなかったのは、〈魁〉の権威というものの価値を、だれもが認めていたからだ。たとえ武力で突出した国があっても、〈魁〉宗室が認可を与えなければ、実質的な意味をもたなかった」  ——〈魁〉王朝が成立して、五十年ほど経たころだろうか。国境線の争いが高じ、〈征〉が〈胥《しょ》〉国と戦ったあげく併呑《へいどん》してしまったことがある。が、このとき〈征〉は〈魁〉王の勅書を得ていなかった。直後、〈征〉は他の諸国からの猛烈な非難の声にさらされることとなった。  当時の〈征〉はまだ伯国で、領土も国力もさほどではなかったこともある。が、反駁《はんばく》する根拠をひとつももたなかった〈征〉は、結局、兵を引かざるを得なかった。諸国がそれぞれ、軍を動かす気配を見せたからである。  しかも、ただ撤退するだけでは、事はおさまらなかった。  みずからが討った〈胥《しょ》〉伯の甥を捜しだし、国主の位につけてやり、争いの原因となった国境線は〈胥〉の主張を全面的に認め、ようやっとのことで、各国の声と威嚇とを鎮めたのである。 〈征〉にしてみれば、これ以上の屈辱はなかっただろう。  実は、現在の〈征〉の国力の充実と、慇懃《いんぎん》無礼なまでの形式主義は、この時に端を発しているとする見方もあるほどだ。  とまれ、〈征〉は武力を手にし、〈魁〉の権威を守ることで、大義名分をもわがものとしてきた。 「いわば、武力と宗室の権威とは、車の両輪の関係だった。どちらかが缺《か》けても遅れても、一方がたちゆかなくなった。今の魚支吾が危険なのは、権威を欲している——権威を受け継ぐ資格があると、思いこんでいることだ」 「陛下が——」 「なにか?」 「陛下がおおせでした。〈征〉公は、王が千載のみぎりには、まっさきに玉座を要求するだろうと。ですが、魚家に、夏氏との血縁関係はほとんどないはずです。なのに、何故でしょう」  夏氏の庶家からは何度か夫人をむかえているが、魚家へ宗室の姫の降嫁があったことは一度もない。淑夜の疑問も、もっともである。  が、士羽の返答はひどく明解だった。 「ああ、そのことか」  明解すぎて、一瞬、耳をうたがったほどだ。 「魚支吾は、先王の庶子だという噂があるのだよ。今の陛下の、異母弟というわけだ」 「まことですか——」  と、訊きかえしたのは、噂の有無をたしかめたわけではない。 「たしかに、魚支吾の生母は先王の寵姫だった。が、支吾どのが生まれたのは、下賜されてから一年後のことだよ。——だが、事実はどうでもよいのだよ。そうかもしれないと、人に思いこませることができれば、それで十分だ」  それでは、詐欺ではないかと淑夜は思う。一国の公子ともあろう男が、考えつくことではないとも思う。淑夜にとっての| 政 《まつりごと》とは、誠心誠意、民人のためにはたらくことであって、人の心をもてあそぶことではない。  だいたい、この漢はいったいどこから、そんな噂を聞きつけるのだろう。先の異変の噂といい、いくら青城の城邑が狭いといって、一度は国君の世子とも目された貴人が、こんな卑俗な話をいちいち聞いて歩いているとは思えない。  両方の不信感が顔に出たのだろう。士羽は、ようやく墻から身を起こして、しずかに笑った。 「感情を表にださぬよう、気をつけることだ。それでは、口をひらく前から羅旋に腹の底を読まれるぞ。あの漢は、茫洋《ぼうよう》としているくせに、逢ったことのない人間の思惑まで読み切るからね」 「——ひとつ、おたずねしてもよろしいでしょうか」  にわかにきざした士羽に対する懐疑の念をうち消すように、淑夜は切りこんだ。 「聞こう」  と、応じた士羽には、一点の翳《かげ》りもない。 「なぜ、大牙さまに嗣子《しし》の座をおゆずりになりました」 「兄上は病弱で、政務にはたえられなかった」 「士羽さまのことを、おたずねしています」 「私は、国主の器ではないよ」 「しかし——」 「私をあるじに立てたら、〈奎〉はあっという間に滅ぼされてしまうよ。頭の中で思いめぐらすのは得手だが、陣頭に立って兵を導くのはだめだからね。平時ならいい。だが、これほど情勢が不安定になってくると、戦ができぬ国主は不要だ。兵がその将のために、命を賭けて戦おうという気にならなければ、戦は負けだからね」 「ですが——」 「大牙はその器だ。でなければ、私が育て方をまちがえたというわけだ」  いいながら、また墻から身をのりだしたのは、下からよばわる声がここまでのぼってきたからだ。とたんに、士羽の声調が皮肉と苦笑の色を帯びた。 「……まちがえたかもしれぬな、あのようすでは」  城壁の内側に設けられた階段の、最下段に大牙が足をかけたところだった。将のきらびやかな甲《よろい》をまとったまま、懸命にかけあがってくる。むろん、出陣を前にした一軍の大将のとるべき行動ではない。用事があれば、人をよこして降ろさせるべきで、それをあがってくるのはただ、兄と淑夜が話している中へ混じりたいだけとしか思えない。 「どのみち、私は歌謡でも聞き集めている方が性に合っている。できれば、このまま平穏に暮らしたいが——、そうもならぬ」  最後は、今まで聞いた中でもっとも苦いことばだった。 「——私は、このあと、義京へ行く。尤夫人にことづけがあれば、伝えておこう」 「義京へ? なに用ですか」 「| 詔 《みことのり》をいただきに、だよ。〈征〉を非難する旨のね」 「しかし——」 「太宰子懐が、たやすく承知するとは思っていないよ。尤夫人に助けてもらうことになるだろうね。陛下に直接、ということも考えたが、魚支吾がやったあとでは、寿夢宮へ伺候できるかどうかもこころもとない。とにかく、やってみる」 「しかし、〈征〉公の手にも勅書があります。こちらが詔を手にしたところで、効果はないでしょう」 「こちらのもないが、支吾の分にも権威はなくなるよ。今までに、子懐めが勅書をいく枚濫発していると思う」  すでに、〈魁〉宗室の勅書には実体がともなわなくなっている。これから士羽が得ようとする詔にも、無条件で他国を屈服させるほどの権威も威力もないだろう。  では、義京へなど行ったところで、むだ足ではないか。  理解に苦しむ淑夜に、士羽は得意気に笑いかける。 「表情をかくせと、いったはずだよ。——聞きたいかね?」 「はい」 「陛下、ご自身におでましいただく」 「それこそ、無理ではありませんか」  淑夜は目を見はったまま、二の句が告げられない。  たしかに、目のつけどころは正しい。玉璽があるとはいえ、一枚の布にすぎない勅書よりは、よほど効力があるだろう。だが、老齢——というには、まだ間があるにせよ、あの王が簡単に寿夢宮から出てくるとは思えない。 「そこを、なんとかするのが私の仕事だよ。もしもうまくいかずとも、〈奎〉が陛下の身柄を手中にすることはできるはずだからね」  とんでもないことをいいだしたものだ。 「さいわい、〈奎〉は巨鹿関をおさえている。巨鹿関と西の百花谷関《ひゃっかこくかん》を閉じてしまえば、他国が軍勢を送りこんでくることはまず不可能だろう」 〈魁〉は、瑶河《ようが》の両岸にひらけた広大な段丘のなかほどに樹てられている。南北は龍の背のような山脈にまもられ、いわば細長い回廊の中に、国全体をすっぽり入れたようなものである。山脈はかなり高く、また土がもろいために、戦車を主体とする軍を大量に動かすことはむずかしい。  瑶河の下流、山脈が急に両側からせまってくる地点が巨鹿関で、その地形の険阻さは、淑夜もよく知っているとおりである。上流、義京からみて東方の百花谷関も、地形の条件は巨鹿関と同様のはずだった。ここは、以前は西方の戎族《じゅうぞく》の進入路でもあり、〈魁〉の直轄地となっていた。のちに、ここより西に〈琅〉という公国が建てられたために、守備する兵の数は減ったが、要衝《ようしょう》の地であることにはかわりない。  逆にいえば——この二地点をおさえれば、〈魁〉を封じこめたと同義になる。武力さえあれば、王を思惑どおりに動かすことも可能だ。だからこそ、〈魁〉の祖王は、信頼する武人であった末子の段に巨鹿関を託した。その段の子孫が、〈奎〉伯、段之弦であり大牙であり、この士羽である。昨秋の〈衛〉の〈奎〉に対する宣戦には、段氏から巨鹿関の支配を奪う意図もふくまれていたはずだ。  その〈奎〉の有する利点を、最大限以上に生かそうと、士羽は考えた——ある意味では、これは最後の手段であり、危険な賭博《かけ》なのだった。 「とにかく、一連の儀式をすませたら行ってくるよ」 「ご無事で——」  としか、淑夜も答えられなかった。天地がひっくりかえっても無理だとも思ったし、この漢ならやってのけるかもしれないとも、思わないでもなかった。羅旋とはちがった意味で、妙に人をその気にさせる魅力を持つ人物だった。士羽の下でなら、自分にもはたらけるかもしれないと思ったのは、やはり〈征〉からの誘いを断ったことが、まだ、気にかかっていたのだろう。  ふたりだけの会話は、そこでうちきりとなった。息せききった大牙の姿が、ようやく城壁の上にあらわれたからだ。 「おそいぞ、大牙」 「無茶をいわれるな、兄、者。俺は、甲冑を、着込んで、いるんだぞ」  それも、将帥の甲冑である。鉄の小札《ござね》を革の紐でつづりあわせたものは、防護力も万全だが重さも並みではない。むろん、鉄は貴重品で、上士《じょうし》、または甲士《こうし》とよばれ、戦車に乗る士大夫以上でなければこんな甲はまとえない。一般の兵士は、木製か革を何枚もはりあわせた胴甲を着けるものだ。 「ならば、上がってくることはなかろう。まして、階段の中途で息があがってへたりこむなど、上からも下からもまる見えだよ。なさけないとは思わぬか」 「俺だとて、平地なら、平気だ」 「夫余《ふよ》は、息も切れていないが」  と、士羽がさし示したのは、大牙のすぐあとからのぼってきた、長身の若者だった。がっちりとした身体つきに似あわず、素朴で温厚な顔だちの彼の名を、徐夫余《じょふよ》という。  彼の顔を見るたびに、淑夜は自分が彼の人生を変えてしまったと、すまなく思うのだった。  徐夫余は、巨鹿関に配備されていた兵卒のひとりだった。農民の子で、賦役《ふえき》に狩りだされているあいだに、淑夜や羅旋にかかわってしまった。正確には、羅旋が巨鹿関の戦のときに、直属の部下にしたのだ。この措置《そち》は、あの戦の期間かぎりという約定があったのだが、この冬、淑夜が青城を訪れると、夫余は正式に〈奎〉の上士にとりたてられていた。  大抜擢《だいばってき》である。だが、これで夫余は故郷へ帰れなくなった。この年が明ければ、兵役の期限も終わっていたはずが、である。  だが、夫余は、逆に淑夜を説きつけた。 「有用の者だと、お認めいただいたのです。それも、世継ぎの君から直接に。ありがたいことです。家には兄たちがいますし、老母の心配も要りません。それに、賦役も租税もかるくしていただきました」  嘘などつけそうもない笑顔でそういわれては、なにもいえなかった。その上、以前とかわらず、身体の自由のきかない自分の補佐に付いてくれるとなれば、恐縮するより他ない。  士羽のいうとおり、息も乱さず姿を見せた夫余は、まだあえいでいる大牙を置いて、淑夜のかたわらに立った。 「そろそろ刻限です。おもどりください」 「そら、みるがよい。また、すぐ降りることになるのだ」  士羽は、弟をからかう手をゆるめなかった。公の席に出れば、大牙の方が上席である。庶兄といえど、頭をさげなければならないし、敬語も使う。だが、ふだんはいたって率直に、軽口をたたきあう兄弟でもあった。 「なんとでも、いわれるがいい。ふたりでひそひそと、なんの悪だくみをしているかと、気になっただけだ。それとも、兄者、淑夜を口説いてでもおられたか」 「莫迦《ばか》なことをいっておらずに、さっさとおりぬか」  ちなみに、士羽には一族の内から迎えた妻と娘がひとり、去年の夏に男子がひとり生まれている。三十代の半ばで、孩子《こども》がまだ幼いのは、娶《めと》るのが遅かったからだ。世子の座を弟にゆずっていた士羽は、成人した後も分家もせず、中途半端な立場だったのだ。  その兄にうながされて、ようやくあえぎがおさまった大牙は、階段の降り口へとひきかえす。徐夫余が淑夜の手から杖を取り、淑夜が夫余の肩に手をかけたのは、降りる際の身体を支えるためである。城壁に沿った狭い階段に、欄《てすり》などという親切なものはついていないからだ。遠回りをすれば、戦車でものぼれる広いゆるやかな道もあるが、淑夜ひとりが遅れるわけにはいかない。士羽はおっとりと、一行の最後に従った。  ——最初に異変に気づいたのは、大牙だった。 「下がさわがしいが、なにか」  と、ふりむいたのは、城壁下の人々がすべて、天をあおぎ腕をのばしてなにやら示していたからだ。彼は、兄たちの様《さま》になにごとか起きたと思ったらしい。人々が、天を指しているのだと悟ったのは、士羽だった。  そのまま、頭をめぐらせば、ようやく陽がかけのぼったばかりの東天である。空は、雨の残滓《ざんし》の霧のために、うっすらと白く見えた。その白い空に——。 「虹……?」  空よりも濃い白色で、巨大な弧が描かれていたのだった。太陽から発された光の箭《や》が虹にとどき、まるで暈《かさ》でもかぶせたようにも、また、太陽が貫かれたようにも見えた。 「白虹《びゃっこう》か。あれが、白虹というものか」  士羽の声は、とても本人のものとは思えぬほどに惨《むご》くかすれていた。——では、士羽もこの現象の示す意味を知っているのだ。大牙も夫余も、はるか下方でたちさわぐ兵士たちも、一様に畏怖《いふ》の表情をうかべている。  彼らのすべてが、経書《けいしょ》に記された古例に通じているわけではあるまい。まして、これが今までの都の噂の示すところとぴたりと一致していることなど、だれが知っているだろう。  だが、皆が皆、この白虹に不吉な印象をいだいたことはまちがいがない。気象の変化は天意を示すものであり、その多くは天が地上の人にむかって示す怒りだと信じられていたからだ。  ——たった今からとりおこなうのは、戦勝の祈祷《きとう》だった。天地と氏族の祖霊とに贄《にえ》をささげ、吉兆を示して士気を高めなければならないのに——。こんなことで、気をくじかれたのみならず、逆に不祥の確信を与えてしまっては、勝つはずの戦でさえ、いざというときに総くずれになりかねない。まして、正面からぶつかっては勝ち目がない大国が、このたびの相手なのである。  とっさに淑夜は大牙へむかって、激しくかぶりをふってみせ、 「ちがいます」 「なにが、ちがうという」 「これは、凶兆ではありません。これは」 「白虹は、〈世〉が滅びる直前に現れたものだ」  士羽のおさえつけた声が、彼ほどの漢の動揺を示していた。 「以前、そうだったからといって、同じことが起きるとはかぎりません」 「だが、異変が起きる前兆だ」 「なにかあるなら、〈征〉に、です」 「断言できるか」 「できません。私は巫《みこ》ではありませんから。ですが、そうあるべきなのです。そういってください、今すぐにです!」 「わかった」  素早くのみこんだのは、大牙だった。彼が、どこまで理解したかはさだかではない。が、とりあえずこの場を鎮めねばならないことだけは、知っていたのだった。 「うろたえるな——!」  段の最上から城内へ、大牙の若い声が響きわたり、城壁にはねかえってわずかな余韻をひいた。日頃、野外で声を出し慣れている者らしい、よくとおる澄んだ響きだった。  ざわりと、下の喧噪《けんそう》がわずかにもりあがって、やがて静寂へと沈みこんでいった。人々の注視が、城壁の上端へととどいたころあいをみはからって、大牙はふたたび大きく息を吸いこんだ。 「うろたえるな、あれを、見よ!」  動作をわざと大きくとって、大牙は腕をふりあげた。その指先は、まっすぐ太陽をさしていた。 「あれは、異変の兆《きざ》しである。異変は東天にあり、われらの敵とするも東にある。すなわち——」  わざと、いったん息を切り、 「これは、わが敵の凶事をあらわす。天はわれらを嘉《よみ》したもうた。われらは、天意に称《かの》うたぞ!」  眼下は、しんと静まりかえったままだった。奇妙な息苦しさが天と地の間を支配し、人々の身体を呪縛した。大牙の背後の淑夜と士羽ですら例外でなく、全身をこわばらせ、固唾《かたず》を呑《の》んだ。  ——だれが最初に声をあげたのか、さだかではなかった。それほどに大きな声ではなかったはずだ。この緊張に耐えかねただれかが、くちびるの間からもらしたうめき声かなにかが、その隣の男の嘆息を誘発した——おそらく、そんなところだろう。  声が、声を呼んだのだ。  かすかなどよめきが、漣《さざなみ》のようにひろがっていった。  ひとつひとつ、鎖の環を繋《つな》いでいくように声が連なり、大きくなり、たちまち大きな波となった。 [#挿絵(img/02_103.png)入る]  湧きおこった歓呼に、大牙はふりあげていた腕をさらに、大きく天へむかって突きあげた。  待つ必要は、もうなかった。大牙の仕草にぴたりと呼応して、歓声の第二波が巻きおこる。  そして、三波。  出陣前にふさわしい、いかにも猛々しい雄叫びだった。そして、三度目にあがった声は、熄《や》む気配がなかったのだ。大牙は、腕を頭上にふりあげたまま、いったん兄の方をむいた。その満面には、してやったという得意気な笑みがあった。  翳りのない、おおらかな表情を一瞬見せて、ゆっくりと大牙は階段を降りていった。出陣、戦勝祈念の儀は国主の館の内の、祖廟《そびょう》で執《と》りおこなわれる。城壁を、そして四囲の山々をもどよもす歓呼の中を行く大牙には、まぎれもなく一軍、一国のあるじの威厳が備わっていたのだった。  虹は、いまだに空にあった。だが、それを見るものも、まして凶兆ととる者も青城の城内にはもはや存在しなかった。 「わが弟ながら——」  士羽が、やっとつぶやいた。苦笑に、すなおな感嘆がふくまれていた。 「いい機転だった。いや、これは君の手柄でもあるな。よくいってくれた」 「いえ」  おだやかに誉められて、淑夜はようやく我にかえった。歓呼と熱気にあてられ、ぼうとなったまま立ち尽くしていたのだ。彼は夢からさめたような表情で、二、三度、目をまたたき——それから、おずおずと首を横にふった。 「教えてくださったのは、士羽さまご自身です。私は、そのとおりのことを口にしたまでです」 「だが、聞いてすぐに、しかもとっさにできることではないよ。もしかしたら、君は——」  いいかけて、士羽は二、三度ちいさくひとりでうなずき、そのままことばをしまいこんでしまった。 「なにか?」 「いや、よい。またにしよう。われらも行かねば儀は始められぬ。——今度逢うときまで、壮健にな」 「士羽さまにも」  うむとうなずき、士羽は先に降りていく。淑夜は徐夫余の肩を借り、士羽の背を見ながら一段ずつおりていった。だが——。  これが、最後の語らいになるとは、たがいに知るよしもなかったのである。      (二)  時刻は、少しさかのぼる。  同じ日の、夜半のことである。 「使者——?」 〈征〉公、魚支吾《ぎょしご》は、不愉快な情報にさらに不機嫌になった。 「〈奎〉伯からの、正使だと申すのか。それならば——」  こんな夜分ではなく、白昼、城の大門からはいってくるべきだ。なにより、正使ならばそれなりに威儀を正し、護衛や供をひきつれ、行列もきらびやかにやってくるものだ。国と国のあいだの使者は、その国を代表する者であるからだ。だが、その使者はほとんど単身で、ひそかに国境を越えようとして失敗したのだという。 「わが国への使者ではございませぬ。〈帯方《たいほう》〉への密書を携帯しており——」  取り次ぐ側近の手から、その密書とやらを奪いとり、支吾は灯にかざして一読した。短い文章が書かれた小さな帛《きぬ》は、皴《しわ》だらけの上に、べたべたと手にねばった。布全体に蝋《ろう》が付いていたのだ。おそらく、蜜蝋《みつろう》をまるめた中におしこんであったのだろう。これは蝋丸《ろうがん》といって、機密保持と防水のために戦場でよく使う方法だった。  その、蝋まみれの文字に素早く目を走らせた支吾だったが、 「〈奎〉の老いぼれが——!」  口ぎたなくつぶやき、支吾は帛をにぎりしめた。  布を両手で引き裂いてみせたのは、一瞬ののちだった。  鋭い、金属を思わせる音が、暗い明堂《めいどう》の柱間に響きわたった。  日頃、尊大ではあっても礼には厳格な主君の意外な一面に、急を告げられて集まっていた側近たちは、視線だけの会話をかわしあった。口をきく者は、ひとりもいない。主君の怒りをかって、今までに無事にすんだ者がないからだ。  密書の内容は、側近たちも知らされている。〈帯方〉の国主にあてたその密書は、〈奎〉伯の名で、〈帯方〉とは別方向の国境、数箇処で、夏氏の国がいっせいに牽制《けんせい》の行動を起こす。それまで持ちこたえるようにとのよびかけだった。  最初から抵抗のかまえを見せている〈帯方〉が、今さら屈するとは考えにくい。また、〈征〉にしても、戦う前に降伏されては都合が悪い。〈帯方〉を滅ぼしたあと、かならず〈衛〉が異議を申したててくるだろう。おそらく、〈衛〉と一戦まじえることになる。が、〈征〉は今回、そこまで予測して軍をととのえているのだ。——つまり、北進をねらう〈衛〉の出端《でばな》を、この際くじいておこうというのが、一連のうごきの狙いのひとつだった。  だが、〈衛〉より先に、〈奎〉と夏氏の諸国が動いた。〈帯方〉をつぶさぬうちに、複数の国と事をかまえることとなる。  夏氏の国とは〈奎〉を筆頭として、〈容《よう》〉、〈胥《しょ》〉、〈乾《けん》〉、〈貂《ちょう》〉の五伯国、それにかろうじて爵位をもつ小領が三国。いずれも、〈魁〉の祖王か、その子の代に分かれた、名家である。そのうち、〈容〉と〈胥〉とは、〈征〉の西と東の一部とでそれぞれ隣接した国であり、ことに〈胥〉は〈征〉公と結んだ太宰子懐によって、一族の女が生んだ王子を〈魁〉の玉座からしりぞけられている。いってみれば、深い恨みをかっているわけだ。  それでなくとも、〈征〉は腹背に敵をかかえこむかっこうになる。これは、いかにも都合が悪かった。 「——おそれながら、主公《との》」  側近のひとり、一番|歳嵩《としかさ》に見える男がおそるおそる、白髪まじりの頭をあげた。 「〈奎〉伯がいかに信望があり、何国もがいっせいにその下知《げち》に従ったとしても、いかほどの勢力になりましょうや。おそれるには、たりぬかと存じますが」 「兵の強弱が問題なのではない。手順に齟齬《そご》が生じるのだ。まず、〈衛〉をおびきだし、叩いておかねばあとが面倒になる」  それでなくとも、周辺の国々から供出させようとした粮草《りょうそう》や兵は、思うように集まっていない。どこも大量に余裕があるわけもないから、これは予定のうちである。実をいえば、〈帯方〉の拒絶も予想内にあった。  ことわってくるのが〈帯方〉だと、はっきり予測したわけではない。どこか一国ぐらいは、いちじるしく滞納してくるだろうと考えていた。それを口実に、行動を起こすのが筋書きの第一歩だったのだ。  だが、夏氏諸国は、支吾の書いた筋どおりには動かなかった。つまり、粮草などの供給源の大半が、敵にまわるのだ。  これは、誤算だった。  夏氏の団結がそれほど堅いとは——いや、宗室の権威に対する敬意と執着は、まだ中原には根強いのを、支吾自身、多少みくびっていた節がある。 「それにしても、〈衛〉ではなく〈奎〉が動くとは——。だれが、こんなことをたくらんだ」  一国で〈征〉を脅かせるだけの力を持っているのが、今のところ〈衛〉だけである以上、〈帯方〉を支配下におさめるまで障害はあるまいと、支吾はたかをくくっていた。剛毅《ごうき》な為人《ひととなり》だが、老〈奎〉伯がこんな小細工を考えついたとは、魚支吾も思っていない。だれかが、裏で糸をひいているのだ。先年、〈衛〉の耿無影《こうむえい》めを巨鹿関で阻止してのけたように——。  一瞬、支吾の脳裏に耿淑夜の繊弱そうな容貌がうかび、すぐにうち消された。あの若者が考えつくにしては、大胆すぎると思ったのだ。すると、尤暁華《ゆうぎょうか》か。いや、あの女が、利のあがらぬところへ肩入れするようなことはない。あとは、〈奎〉伯、段家の子息たちのだれかか——。まさか、冰子懐や王自身が、騒乱を拡大してあるくようなことはしないだろう。そうすると——。  壮年の美丈夫の記憶の隅を、ちらりと新たな面がよぎったが、名を正確には思いだせなかった。その容貌が、翠《みどり》色の双眸《そうぼう》を持った戎族だったせいもあるかもしれない。所詮、礼も知らない西方の蛮族ではないか。いかほどのことができよう——。  尤家とつながりがあるとか、〈奎〉伯が高く買っているという噂も聞かないでもない。巨鹿関の戦で、無頼者をたばねて働かせていたともいう。が、支吾は故・戎華《じゅうか》将軍の力量や身辺については詳細に調べさせたことはあるが、その息子は顔を見た程度の記憶と情報しか持っていなかった。当然、力量についてはまったく知識がない。 (——念のために、所在だけでも調べさせておくか)  だが、支吾の思念は、すぐに現実に引きもどされた。 「それで、主公《との》、いかがなさいます。兵を国境沿いに——」  あるじの顔色をうかがいながら問いかけたのも、先刻の男だった。名を禽不理《きんふり》という。代々、魚家に仕えてきた一族の当主でもある。先代の〈征〉公からも信頼されていた彼には、さすがの支吾も一目置かざるを得ず、不機嫌そうな顔つきをふりむけたにとどまった。彼自身が、わざわざ反論する必要もなかった。 「兵力を分散させては、意味がない——」  さっと口をはさんだ男がいたのだ。まだ若い——この場では最年少だが、三十歳は越えているだろう。  漆離伯要《しつりはくよう》という。漆離《しつり》の二字が姓、伯要《はくよう》は字《あざな》である。細い口髭をたくわえた細面は、いかにも非力な文人といった印象で、それぞれ一方の将軍を兼ねる他の側近たちとは、あきらかに異質な人種だった。 「僭越《せんえつ》であろう」 「お許しもなく、口をさしはさむな」  伯要のことばの裾にかぶさって、他の者たちの声が入った。それを、支吾は片手のひと振りでだまらせる。 「続けよ」 「たしかに、勢力のひとつひとつは微弱ですが、それにむけていちいちこちらの勢力も分散させていては、大軍を用意した意味がなくなります。また、軍をふたたび集結させるのにも時間がかかる。その隙を、〈衛〉にでも衝《つ》かれれば、負けることはなくとも、苦戦はまぬがれないでしょう。この際、〈帯方〉へ向けて先発させた軍も引き返させ、この臨城を守らせるべきかと存じます」 「それこそ、なんのために軍をととのえたかわからぬではないか」 「禽不理——」  白髪まじりの重臣を苦い声で制止し、目顔だけでさらに先をうながす。 「臨城に集めておくのが、最善かと存じます。臨城は〈征〉領のほぼ中心、どの方向から敵が侵入してくるにしても、もっとも早く対応できる位置です。中央に大軍が控えていると知れば、うかつに小勢で踏みこんでくる国もありますまい」 「それでは、にらみあいになるだけではないか」 「それで、なにか問題がありましょうか」  自国内にいるのだ。補給だの補充だの兵の疲労などの心配をする必要は、ない。あとは、相手の出方をじっくりと待てばよい。この場合は、 「先に焦《じ》れた方が、負けとなりましょう」  ひどく淡々とした口調でしめくくって、漆離伯要はあるじの面をあおぎ見た。  支吾は、ひとつ首肯してみせた。  これで、方針は決したも同様だった。〈征〉においては、国公、魚支吾のことばがすべてである。御前で意見はいくら述べあってもさしつかえないが、国公が是といえば、それ以上の反論は許されないのだ。 「国境には最低限の兵だけを残し、すべて臨城へよびもどす。——が、待つだけでは、まだるい」 「では、あちらを動かせばよろしい」  即座に応えたのも、漆離伯要。  禽不理が露骨にいやな顔をしてみせたのは、伯要が若輩というだけではない。彼は、数年前、〈征〉にあらわれ支吾にとりたてられた、新参者なのである。〈魁〉の都、義京で礼学をおさめたという彼は、たしかに頭が切れたし、あるじの意を迎えるのに巧みだった。 〈征〉は伝統的に、礼学嫌いというほどではないにしても、手厚い保護というにはほど遠い待遇をとってきた。ことにここ数代は、法と厳罰をもって国を治めよと説く法派《ほうは》、もしくは刑学《けいがく》とよばれる者たちを家臣に迎えいれ、そちらを重視してきた。自然、礼学者は伝統的に、軽視される傾向にあった。  しかも、漆離伯要は、その言動でさらに反感を買っている。媚びるわけでなく、野心をみせるわけでもないのだが、はっきりとした物言いと年長者をたてる気のないその態度とは、どうやったところで他人の好感を勝ち得るはずはなかった。  だが、伯要は周囲の反感も敵意も、意にかいするふりさえしなかった。 「できるか」 「後背——義京あたりに事がおきれば、〈帯方〉の命運など、知ったことではなくなりましょう。さいわい、火種も焚《た》き付《つ》けもあの地には、すでにそろっております。それどころか、そろそろ火がつく頃あい。日時を指示した密使を送れば、すむことでしょう。それに応じて、こちらが一斉に一方へ攻撃をかければ、ふみとどまる者などおりますまい」 「日取りは」 「朔《ついたち》あたりが、適当かと」 「うむ」  支吾は満足そうにうなずいて、美髯に手をやった。顔は微笑しているが、その双眸には鋭い光がやどっている。〈奎〉の動きに対する不審、反応の鈍い他の側近たちへの不満と——さらにこの先の展開に思いをめぐらせてでもいるのだろうか、眼もとは暗く翳っていた。 「では。そのように手配を」 「それから、とらえた〈奎〉の密使だが——」 「即刻、処分いたします」 「いえ、お解きはなちください」  ふたたび、伯要のさしで口である。 「重要な使者が、たったひとりということはありますまい。おなじ文面を持った使者が、あと数人は〈帯方〉へたどりついているはず。ひとりを殺したところで、意味はありません」 「しかし、われらの動静を〈奎〉に知られる」 「知らせてやればよろしい。迎え撃つ準備ができていると知れれば、〈奎〉伯とて、他の国主方だとて、うかつなことはなさいますまい。いずれ、夏氏諸伯連名の正使もまいりましょうが、丁重にもてなして無事に帰してやるのが、〈征〉公のご器量というもの」  冷笑というには淡泊な微笑が、伯要の面に浮かんだ。側近のひとりが反論しようとしたが、これは禽不理に制止された。議論ならば問題はないが、無用な口論はあるじが嫌うことを熟知していたからだ。  話題は、国境の関周辺の監視と連絡網の強化に変わった。軍編成の見直しを終えたころには、闇の底がほんのりと白んで見えた。  さすがに疲労の色を見せた重臣たちが、明堂から一団となって出ていく。が、その中に漆離伯要の顔はみあたらない。が、いつも孤立している伯要の所在など、彼らの関心の外だった。また、それに気づいた者がいたとしても、口に出して案じるような真似をするはずもなかった。  ——漆離伯要はいったん明堂を出はしたのだが、また〈征〉公の御前へととってかえしていた。童僕が、よびかえしに来たのだ。 「ご用は」 「訊かねば、わからぬか」 「問題は、ひとつではございませぬ故」  態度は控え目だが、人をくった顔つきである。 「——〈衛〉と手を結べると思うか」 「一時期だけのことでしたら」  明解な答えが、即座に返る。 「しばらくでよい。どうせ、あちらもわが方との恒久的な和平など、望んではいるまい。至急、密使を送れ。先年、割譲された城邑《じょうゆう》の返還にくわえて、数城をゆずると条件をつけよ。それから——」 「〈奎〉の内情でしたら、すでに人に探らせてあります」 「早いな」 「わが礼学においては、同門は家族も同様。そして、どの国の中枢にも、かならず礼学の徒ははいりこんでおります故」 「だから、学者などというものは油断がならぬのだ——」  支吾の表情を、微苦笑がよぎる。だが、伯要はひるんだようすも、恐縮する気配もみせない。 「おことばながら、だからこそ、こうしてお役にたっております」  たしかに、先の耿淑夜に関する知識も、義京にある伯要の師、左夫子とその門下を通じて手にいれた。また、〈衛〉の動静も同じ方法でさぐっているところだ。 「〈奎〉はこの先、どう動くと見る」 「どうやら、老伯の病状がはかばかしくない模様。存命のうちに位を譲ることも考えていたようですが、この騒ぎでうやむやになったかと思われます。ですが、代がわりは必定。おそらく、なにごとかあるとすれば、その後のことになるかと」 「……あの若僧が〈奎〉伯か」  段大牙《だんたいが》の顔は、支吾もよく知っている。なにしろ、孩子《こども》のころは質子《ちし》として義京に滞在していたのだ。 「大牙どのでは、与《くみ》しにくうございますか」  ここではじめて、伯要の表情に皮肉に近いものがよぎった。魚支吾の唇《くち》元には、もっと露骨な嘲笑がうかびあがる。 「あのように武勇一辺倒では、敵手《あいて》にもならぬ。だが、うしろについている奴は、やっかいだ」 「段|士羽《しう》どのですか」  口中でつぶやいて、伯要はかすかにうなずいた。 「それも、考慮にいれておきます。まずは、義京の細工にとりかかりましょう」  そのまま一礼しただけで、あるじの許しも得ずに話をうちきり立ち上がる。頭こそ深く垂れているものの、他の者がこんなことをすれば、たちどころに支吾の逆鱗《げきりん》に触れるだろう。この伯要が、特別あつかいを受けているのは事実であり、代々の重臣たちが不服と反感をいだくのは当然ともいえた。だが、支吾には支吾の思惑があってのことである。 「しばし、待て」  出ていきかける男を、〈征〉公はよびとめた。 「この苦労、事が成ったあかつきには、かならず報いる。欲しいものがあれば、今のうちに申しておけ」 「なにも」  ためらいもせず、伯要は首をふった。 「主公《との》が本懐を遂《と》げられることが、なによりの褒美かと」 「あいかわらず、欲のないことだ」 「いえ、私ほどに欲深い者はおらぬと思っております。主公がこの中原の覇権を手中になさることは、即、私の学が——刑学でもなく、礼学でもない学問が天下有用のものであったという証。そのためならば、いかようなことでもしてのけましょう」  笑いもせずにしらりといって、背を向けた。 「——伯要」 「は」 「わしは……、王にふさわしいと思うか」  ある意味では、大胆な質問だった。もうひとつの意味では、しごく当然ともいえる疑問だった。これは、彼の一族の秘めた悲願でもあり、ようやく、すこし手をのばせば得られるところまできた甘美な果実でもあった。  伯要は、迷わなかった。 「今の、中原の国主がたの中では」  即座に応えて、にこりと笑う。その顔を見るかぎりでは、彼が本気でそう思っているのはたしかなようだった。  支吾は、かるくうなずいて満足の意をあらわした。それに対する伯要も、目礼だけをのこして今度こそ退出していく。  それを見送る支吾の両眼に複雑な光があったのを、見もしていないのに、伯要はしっかりと承知していたのだった。  夜が明けきるまでには、まだ間があるようだった。  ——同じ夜。 〈征〉公とおなじ時刻に、浅い夢からひきもどされた者がいる。 「——急使にございます」  取り次ぎの侍女の声で、耿無影《こうむえい》は目をさました。夢を破られたこと自体は、それほど不快ではなかった。俗にいう、悪夢の類《たぐい》を見ていたような気がしたからだ。だが、眼を見ひらいても闇のさなかだったことに、彼の神経は逆立った。  人の気配は扉の外にあるが、灯はどこにも見えない。彼が命じなければ、侍女たちは灯ひとつともさず、針一本も移動させない。そうさせているのは、無影自身である。 「灯を——」  いいかけて、彼は声を呑んだ。不用意に口にして、うわずることをおそれたのだ。  自身では決してみとめていないが、無影は闇に恐怖感をいだいていた。闇から圧迫されるような気がするのが、その証拠だった。われ知らず、喉に手をあてながら、 「灯を点《とも》せ」  低い声で命じた。即座にうすい紗の帳幕《とばり》のむこうが、ぼんやりと明るくなった。燭のおおいをとったのだろう。  無影は、さっと牀《ねだい》から起きだした。江南の春とはいえ、相当な寒気が身体にまといつく。それをうち払うように帳幕を跳ねあげ、上衣を手早くまといながら、次の間に出た。 「どこからだ」 「〈奎〉伯よりの、ご親書だそうでございます」 「この夜分にか」  この闇の深さなら、暁《あかつき》の方が近いだろう。 「内密のお使いだそうにございます。百来《ひゃくらい》将軍が、是非お目どおりをと、連れまいられました」 「どこにいる」 「明堂にてお待ちにございます」  尋ねられたことだけを端的に答えるのは、班姑《はんこ》とよばれる歳嵩《としかさ》の侍女である。先々代の〈衛〉公の頃から国主の館に仕えていたこの女を、無影は侍女の長に任じて、香雲台《こううんだい》の一切をとりしきらせていた。 「衣冠の支度を」  命じて、いったん脚をふみだした無影だが、すぐにふりむき、背後の闇を透かした。今出てきたばかりの帳幕の内部は、しんと冷えきって、人の息づかいも感じられない。 「もう、眠れまい。朝まで、そばについていよ。その灯を持って行け」 「殿下は、いかがなさいますか」  表の殿宇に通じる回廊も、まだ深い闇の中である。 「無用だ。だまって、命じられるとおりにしておれ」 「かしこまりましてございます」  女が下げた頭の前を、無影は風を起こして通りすぎていった。  のこされた女は音もなく進み出、室の奥の紗の波をかきわけようとする。 「——来るでない」  夜の闇よりも冷ややかな声が、帳幕のあいだを縫って流れ出た。が、班姑は意に介する風もなく、するりと帳幕の内側にはいった。 「来ないで」  なおも拒絶のことばは発された。だが、紅色の美しいくちびるから出ると、それも音楽のように聞こえる。  牀の上に身を起こした美女は、きちんと整えた夜着の衿に手を置いて、冷たい横顔を見せている。そのまま全身で、人を拒絶する意思を示しているのだ。 「ひとりにしてください」 「殿下のご命令にございます」  班姑は、無表情なまま、牀の脇に立った。ただ、立ったまま、なにもしようとはしない。連姫《れんき》をなだめようとも、なぐさめようともせず、まして「お寝《やす》みくださいませ」のひとこともなく、そこに居るだけである。  なす術《すべ》を知らないわけではない。この冷淡さの原因はむしろ、わざとらしく顔をそむけた連姫の方にあった。彼女は、無影に対してのみならず、この香雲台にいる者を、ひとりの例外もなく憎むことに決めていた。けっして心を開くまい、弱みを見せるまいという決心が、この臈《ろう》たけた美女を、憎悪と絶望のかたまりに変えていた。そして、班姑をはじめとする侍女たちも、それを微妙に感じとったのだろう。  自然、連姫への態度がよそよそしくなったのは、いたしかたのないことだった。だが、班姑も、このかたくななまでの姿勢をくずさない国主の寵姫が今、その冷たい横顔でなにを考えているかまでは知る由もない。  連姫はひたすら、祈っていた。だれに、と問われれば、わからないというしかない。なにをと訊かれれば——ここから出ていくことしか考えていなかった。出て、どうしようというあてはない。ただ、無影の有形無形の束縛から逃れられさえするのなら、どうでもよかった。 (いっそ——死んだ方が)  思いかけるが、その勇気もない。この夜も、いずれは明けていくのだろうが、連姫の胸の内はいつまでも無明の闇夜がつづくようだった。  人の目さえ気にしていなければ、無影は全速力で走りたい気分だった。 (まさか、〈奎〉が先に動くとは——) 〈征〉の動きも魚支吾の思惑も、すでに手にとるようにわかっている。彼がこの春、荊蕃へむけて無理とも思える戦をしかけたのも、そのあとかならず〈征〉が反応すると読んだからだ。  だが、〈帯方〉が攻められるとわかったあとも、無影は即座に動くつもりはなかった。なにより、大義名分がない。——異民族との戦に協力を拒んだ〈帯方〉を、〈征〉が非難しただけでは、第三者の〈衛〉に喙《くちばし》を容《い》れる隙はなかった。  無影は、〈帯方〉が滅ぼされるまで、じっと手をつかねて待つつもりだったのだ。  それを、先を越された。それも、昨秋に一敗地にまみれさせてくれた相手の、〈奎〉にである。戦には負けたが、政略で先んじられるとは思っていなかったから、衝撃はさらに大きい。それまで巨鹿関の関守ほどにしか思われず、中原の表舞台に出ることもなかった〈奎〉に、そこまでの才能が眠っていたとは予想していなかった。 (その才を、たたき起こしたのが私というわけか。——しかし、だれだ) 〈奎〉伯太子、段大牙の顔は一度ならず見たことがあるが、果敢な武人の貌《かお》ではあっても、政治家の相ではなかった。では、あの国にはさらに人物がいたというのか。  苦い思いを噛みころし、彼はおのれの思いあがりと油断とを認めた。 「このような夜分、まことにおそれおおいこととは存じましたが——」  政務を執るための明堂には、百来といまひとりの姿が、ぽつりと待っていた。照明はやはり、油燈がただひとつ据えられているのみである。  まず、百来が大仰《おおぎょう》な礼を執った。 「事の重大さにかんがみ、敢えて推参いたしました。ご容赦のほどを」 「真実、重要なら、昼夜などかかわりない。まことに〈奎〉伯の使者か」 「牙璋《がしょう》をたずさえております」  牙璋、もしくは符牒《ふちょう》ともいう。獣の牙、また玉に文字や模様を刻んだもので、時には青銅製もある。たいてい、縦にふたつに分かたれており、一方を戦場に出る将帥《しょうすい》が持つ。使者がもう一方を持ち、それを突き合わせて、真実、国主からの使者かをたしかめるのだ。〈衛〉に〈奎〉の牙璋の片割れがあるはずはないが、そもそも牙璋自体、めったにあるものではないから、身分証明としても使われるのだった。  ——この深夜に、他国者が城門を入ってくることは、基本的には不可能である。使者を名のる男は、その身分と旨を城門の衛士に申し出、衛士が百来将軍に通報した。百来みずからが、その身元をあらためた上で、ここまでともなったというわけである。 「親書とやらは」 「こちらに」  百来が、小さな麻袋をさしだした。その口に巻いた綬《ひも》の結び目の蝋《ろう》をあらためてから、無影は袋を開けた。中からは、さらに小さく折りたたんだうすい布があらわれる。白い| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》に、ちいさな文字がびっしりと書きこまれている。行数にすれば、十行あまり。  それをまたたく灯火にかざして、すばやく目を通した無影だが、すぐに片手でくしゃりと帛《きぬ》を丸めた。 「主公《との》——」  百来の、皴《しわ》の多い顔がふりあおいできた。不審と、彼らしくない不安とがとりまざって、深い陰影が刻《きざ》まれていた。 「なにごとが、出来《しゅったい》いたしましたぞ」 「〈奎〉伯の軍が、〈衛〉領を通過する。それを承認せよとの仰せだ」 「〈奎〉……伯の兵、でござるか?」 「夏氏の国々が連名で、非難する旨の書を〈征〉公に送ったそうな。——なるほど、その手があったな」  無影の顔が、うすい冷笑にゆがむ。夏氏に連なる者ならば、その宗室の権威を乱用するものをとがめる資格がある。〈征〉公や、僭主である無影にはまず不可能な芸当であり、理屈だった。 「——それにともない、それぞれ〈征〉の国境近くまで、軍を進めることになった。それで、〈奎〉の一軍がわが領土を通過する」  その許可を求めてきたのだ。これは、無用な戦を避けるための常識ともいうべき措置である。  百来の白い太い眉が、わずかに跳ねあがった。が、その声は落ちつきはらっていた。 「いかが、なさいまするか」  それには、直接答えず、 「委細《いさい》、承知したと伯にお伝えせよ」 「——主公《との》!」  百来の吠えるような抗議の声をさらに無視して、無影は足元に平伏したままの小柄な背に命じた。 「即答を許す。面を上げよ」 「ありがたき仰せ。あるじになりかわりまして、謝意を申し述べまする」  いったん、かすかに下がってから男の頭がなかばまでもたげられた。表情はまだよくわからないが、ひどく四角い顔をしているようだ。滑稽なほどのその顔だちに不似合いな、かしこまった口ぶりで、男はさらにことばを続けた。 「つきましては、ご返書をいただきたく」 「必要ない」  返答とともに持ち上げられた無影の手が、灯火の上にかざされる。火は、その手の中の| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》に燃えうつる。たちまち、絹の燃えるむせるような匂いと煙がたちのぼる。炎は、布の端を舐めるように、ゆっくりと燃えあがった。無影は堂から出て、回廊の上から庭にむかって腕をつき出した。  じっと布に火が回りきるまで見つめ、あやうく指を焦がすというところで手を離した。闇に沈んだ黒い土にまぎれて、帛の行方はわからなくなった。 「通りたければ、随意に。私は——〈衛〉はあずかり知らぬこと。〈衛〉の知らぬうちに、だれかが勝手に領内を通過していった。そういうことだ」  これは、うまいやり口といえた。〈奎〉に先んじられた以上、主導権をとりもどすのはむずかしい。もっとも手早いのは、〈奎〉とその同盟国が〈征〉と武力でぶつかり、〈奎〉が敗れることだ。そのために領内を通す。が、あとで〈征〉に対して、知らぬ存ぜぬと主張できるようにもしておくわけである。  使者の男は、すぐにはひきさがらなかった。 「されば、わがあるじの申しようには、ご賛同いただけぬということでございましょうか」 「老伯のご意向が、奈辺《なへん》にあるかは知らぬ。が、〈征〉公のなさりようには、われらにも異議がある。申したてて、お聞きいれなき場合は、力をもってお諫《いさ》め申すもやむを得ぬであろうよ」 「そのおことば、真実であるという証を、お示しいただきたく——」 「口が過ぎるぞ!」  無影の癇癪《かんしゃく》が、突然爆発した。使者の小男は、へっとばかりに平伏しなおす。 「ご無礼いたしました。やつがれは、これにて退散いたしまする」  身分の低い男だが、頭の回転は早い。無影の気性をあっという間にのみこんだか、無難なところでさっとひきさがった。  その変わり身の速さに、思わず無影のほほに苦笑がうっすらとうかんだ。左ほほの傷あとが白くひきつれたのへ、男が好奇の視線を上目づかいにむける。すでにあとずさりかけている男の、その眼へ、 「そのほう、名は」  無影は、ひきとめるように声をかけた。 「へ?」 「なかなか、心きいている。褒美をとらせる」 「野……野狗《やく》と申します」  また、無影はつめたく笑った。その名の、あるじを持たぬ犬という意味に、意地悪い満足をおぼえたらしい。 「これを」  無影は、髪に手をあてた。華の民は、男も女も髪を伸ばし結いあげる。髪には人の生命力が宿ると信じられているから、決して切らない。髪を切るのは、刑罰の一種でもあるのだ。その大切な髪を、男はちいさな髷《まげ》に結い、その上から冠をつけ、簪《しん》で止める。身分、年齢によって形がさまざま異なるし、野狗のような庶民は粗末な布で覆うだけだ。その野狗に、無影はみずからの簪《しん》を抜いて与えた。  むろん、野狗が使うとは思っていない。だが、銀製ならばなんとでも交換できるだろう。 「ありがたいことで」  百来将軍の手を通して、細い簪をうけとった野狗は、頭の上にそれをおしいただいて大仰に礼を述べた。  その頭の上へ、さらに、 「〈奎〉にいられなくなったら、いつでも〈衛〉に来い」  降ったことばに驚いたのは、野狗よりも百来の方である。 「主公」  とがめるような声音を、気にかける無影でもない。野狗もまた、真意をさぐるような視線を、片目だけちらりとあげただけで、すくなくとも動揺の色は見せない。 「失礼いたしまする」  なにも聞かなかったような顔のまま、明堂からそそくさと出ていった。もらうものをもらえば、あとは用はないといった態度を、わざと見せつけているようにも見えた。  百来が、また白い眉をひそめた、その白髪頭へむかって、 「百来。今、いかほどを動かせるか」 「何日、ご猶予をいただけましょうや」  なにを——と、尋ねなかったのはさすがである。 「三日」 「されば、一軍——、いや、二|師《し》というところでござろうか」  師というのも軍の単位で、五師で一軍となる。一師はおよそ二五〇〇人、百人に戦車一台の割合だから、一師で二十五台、二師で五〇台を準備することになる。たいした数ではないように思われるが、これに付随する兵やその装備、糧食までをととのえ出発させるとなると、ふつうなら三日ではとうてい無理だ。 「できるか」 「すでに、装備はととのえてございます故」  よくやった、とは、無影はいわない。百来も誉めてもらおうとは思っていない。 「冉神通《ぜんしんつう》をよべ」  さらに、無影は命じた。 「あやつを同道させる。百来、おまえが指揮を執れ。とりあえず、棗《そう》まで行け。〈奎〉の動きを見て、その後の指示を——」  が、矢継ぎ早に出される無影の命令は、回廊を走ってくる足音にさえぎられた。 「申しあげます!」  無影の親衛兵のひとりである。先年、耿淑夜にまんまと潜入され、身辺を脅かされて以来、この国主の館には、夜でも百人からの衛士が詰めていた。それが、明堂の端に膝をつき、 「——獄が破られましてございます!」 「だれが、逃げた」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》将軍にございます!」 「このような時に——」  一瞬、無影のほほの傷が、さっと白くひきつった。憎悪が、白い炎の形となって無影の身体から発散されたように思えた。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》は、香雲台に在る|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》の叔父にあたる。美しい姪を新しい権力者に売って、昨秋の戦では左将軍の位を得た。が、〈奎〉の策略にひっかかり、突出したあげくに巨鹿関へさそいこまれ、ほぼ全滅の憂き目を見た。将軍みずからも行方知れずになっていたのだが、〈奎〉の農民に捕らえられ、和議のあとで送りかえされてきた。それを、無影は獄にくだしたまま、半年も放置していたのだ。  本来なら、死罪にもあたる身を殺さなかったのは、連姫が命乞いをしたからである。刑を定めずに放置しているのは、連姫が自分の意思で叔父の助命をねがったわけではないためだ。  ——一族の、ことに年長の者のために、女が犠牲になるのは、中原の婦女の徳のひとつとされていた。それができぬのは、不義、不孝といわれても仕方がないし、実際に連姫が親たちに責めたてられたのを無影は知っていた。  それを承知の上で、無影は連姫の哀願を拒絶した。ひとつには、彼女を通じてたのめば、なんでもかなうと人々に思わせるわけにはいかないからだ。そして——。  彼女の、本心からの願いが聞きたかったからだ。それがかなわない以上、無影は他人の請願など、聞きいれる余地を持っていなかった。  が、ことわりはしたが、利器を処分もせずに今日まで置いていたのは、連姫へのせめてもの慈悲だったのだ。それを——。  憤怒のために一瞬、白くなった拳《こぶし》が、またすぐにふわりとゆるむのを百来は見た。 「——すぐに追っ手を」 「よい」 「主公」  怒声が飛ぶものと覚悟していた衛士の、唖然とした顔と、百来の不服気な面を見くらべながら、無影はいいはなった。 「ほうっておけ。あの男の器量では、逃げたとしてもそのあたりでのたれ死にするのが関の山だ。おかげで手を汚さずにすんだ。……香雲台へ報《し》らせてやれ」  独特の、皮肉な微笑に彩られた無影の横顔が、ちいさな火影にうかびあがった。その表情と口調にもかかわらず、百来の目には、無影の本心からの安堵の色が見えたように思えた。 「百来」 「は」 「出立を急げ。なりゆきによっては、一刻を争うやもしれぬ」 「は——」  ようやく、夜はしらじらと明けようとしていた。      (三)  そして、その早朝——。 〈魁《かい》〉の王都、義京の郊外にある寿夢宮《じゅぼうきゅう》の門前にも、にわかに人馬の声が湧きおこったのだ。  義京の周辺では、昨夜来の雨がまだのこっていた。重くたれこめた雲のせいか、妙に暗い朝だった。 「——太宰《たいさい》さまの、おいでにございます」  侍僮の小珮《しょうはい》の声で、〈魁〉王、夏長庚《かちょうこう》はとるものもとりあえず正殿へと走り出た。  太宰、冰子懐《ひょうしかい》の列は、すでに城門内にはいっており、子懐本人は正殿の玉座の前で、何人もの従者をしたがえ、王の入来《じゅらい》を待ちうけていた。  かろうじて、洗顔をすませ衣服をととのえたばかりの王とは好対照の、落ち着きようである。むろん衣冠を正し、太宰として一分の隙もないいでたちである。おしむらくは、太り肉《じし》の身体の緩慢さが、その威厳をすこしばかりそこなっていたことだろうか。  だが、その挙措《きょそ》には文句のつけようはなかった。その法にかなった礼をおこなうや、子懐はやおら、 「宮城へご還御《かんぎょ》いただきとう、参上いたしましてございます」 「義京へもどれと、申すか」 「御意」 「なにゆえに」 「祈晴《きせい》の儀をとりおこのうていただきたく。このだん、黎民《れいみん》になりかわりまして、請《こ》い願いあげます」  雨が止むよう、天にむかって祈ってほしいというわけだ。  たしかにこの春の雨量は、平年にくらべて多すぎる。そのためか、いつまでたっても寒気が去らず、春の農作業がなかなかはじめられないでいる。まだ、大きな影響が出るまでにはいたっていないが、このまま、天候不順がつづけば、秋には凶作になるおそれがある。たしかに、ここで手をうっておく必要はあった。  天候は、天の管理するところである。そして、天にむかって願いを述べることができるのは、天命をうけて地を治める者、天の子たる王ひとりなのである。  王も、それを拒むわけにはいかなかった。 「あいわかった。だが、支度もある。祈晴をおこなうにも吉日を選ばねばなるまい。明日、義京へ帰ると、皆の者に伝え……」  だが、子懐は無表情に、王のことばをさえぎった。 「本日、この場よりお発《た》ちいただきます」 「なんと?」 「そのため、車も用意してまいりました。さ、おでましを」  なにごとが起きたのか、王にはわからなかった。こんな場合、怒ってよいのかうろたえるべきなのか、それともひたすら赦しを乞えばよいのか。 「勝手なことを申すな。余は行かぬぞ。なに用があって、七星宮《しちせいきゅう》へもどらねばならぬ。よしんばもどる要があるにせよ、余が起居《ききょ》を遷《うつ》すのであれば、日を占い吉凶をみなければならぬはず。太宰の地位にある者が、それを知らぬはずはあるまい」 「それをおおせならば——」  子懐の肩が、わずかにあがった。 「おそれながら、陛下御みずから、なにかお忘れになられておいででは」 「な、なにを……」  うしろめたいところのないでもない、気弱な王に、この思わせぶりは効果があった。 「では、まことなのでございますな。〈征〉公に、じかに勅書をお与えになられたというのは」 「そ、そちに、話はしてあると、支吾は——」 「うかがっております」 「ならば」 「物事には順というものがございますな。たとえば、陛下のおでましをいただかずには、いかなる儀式もできぬのと同様に」  太り肉の体躯が、ここまで大きく見えたことは一度もなかった。 「勅書を発するは、太宰の役目。それをないがしろにされては、そもそもわれらが在る理由がございませぬ。これはあたかも、春の次に秋が来るようなもの。天の御子たる陛下が、そのようなことをなされるは、すなわち天に逆らい、四季や天体の運行をも疎外することになりかねませぬ。もしや、このところの天候不順も——」  思わせぶりに声を切って、ちらりと王を見あげる。 「そうならぬよう、以後、お気儘《きまま》なことをなさらぬよう、不肖、この子懐がしっかりと補佐したてまつることといたします。さ——」 「だ、れか」  呼ぼうとした喉が、つぶれて消えた。呼んだところで、応える者がいるはずもなかった。この離宮に在る者のほとんどには、冰子懐の息がかかっている。たとえ王の味方がいたところでほんのわずかで、子懐のひきつれてきた人数に抗しようという者はいるまい。  本来ならば、もともとの住まいにもどるだけのことである。だが、この状況で力ずくで連れもどされることは、すなわち太宰子懐の手中に幽閉されることを意味する。  ——逃れるすべはなかった。  子懐が、ずいと座をすすめながら、丸い指を振った。  子懐の無言の合図をうけて、彼の従者が座の周囲に迫るまで、王は反応をためらっていた。怒気を発したのは、屈強の男たちのひとりが、こともあろうに彼の身体に手をかけたときである。 「無礼者、さがれ!」  一瞬、雷に撃たれたように、男たちの手が止まる。衰えたりとはいえ、三百年もの長きにわたって華に君臨した王朝の裔《すえ》なのである。それほどの威厳と覇気は、この老王の中にものこっていたのだ。  とはいえ、それもわずかなあいだのことだった。それが炎の最後の輝きだったのか、いったん背筋がのびたように見えた王の身体は、次の瞬間、急速にしなびていくように思えたのだ。男たちは、変化に敏感だった。  たちまち、四方八方からのびてきた腕にかつぎあげられる。 「陛下——」  侍僮の小珮が、反射的に衣服の裾にとりすがろうとしたが、一蹴されて王の視界から消えた。  王の身体は、かるがると殿前へとはこばれていく。  そこには、車が待っていた。鳥の羽を飾り、純色《じゅんしょく》の馬を四頭繋ぎ、王としての威儀をととのえた車である。だが、そこへおしこめられる男の姿からは、車にふさわしいものはもう、なにひとつ感じられなくなっていたのだった。 「粗相のないように、丁重におつれいたせ」  対照的に、傲然とまるい胸をさらにそらして命じる太宰に、 「子懐、女たちには——寿夢宮に仕える者たちには、狼藉《ろうぜき》をはたらかぬと」 「ご懸念にはおよびませぬ」 「公主を……、揺珠《ようしゅ》の身になにごとかあれば、〈琅《ろう》〉公がだまっておらぬと」 「委細、承知しておりまする。妃殿下には、陛下とおなじく七星宮へ御啓ねがうことになっております。指一本、触れたてまつるものではございませぬ。では——」  車の下で、あくまで敬虔《けいけん》に膝を折り答える子懐だが、眼が態度をはっきりとうらぎっていた。  それを知りながら、王はただ、絶望のまなざしを遠ざかっていく寿夢宮の門へ投げるよりほかに、なす術がなかったのだった。 [#改ページ]  第三章————————流星変      (一) 「止まれ」  義京《ぎきょう》の東の城門をはいったところで、段士羽《だんしう》の一行はとどめられた。城門で誰何《すいか》するのは常識として、そのいつにない厳しさと横柄《おうへい》さとに、士羽は温厚そうな眉のあたりをふとくもらせた。  昼間だというのに、ここ数日、また降りだした雨のためにどんよりと曇り、夕刻のようなうっとうしい薄暗さである。その天候のせいでもないだろうが、不吉な予感が士羽の胸をよぎったのだ。 「何者か、どこへ行くか、目的は」  矢継ぎ早に訊《たず》ねられて、 「これは〈奎《けい》〉国よりの使者にて、公子、段士羽さまの一行。〈奎〉伯の書簡をもって、陛下にお目どおりを賜《たまわ》るべく——」  列の先頭に立った初老の男が、型どおりの口上を述べる。いつもならば、それですんなり通るはずが、〈奎〉ということばが出た瞬間、門をまもる衛士たちの間に緊張が走るのを、士羽はたしかにとらえた。  あきらかな敵意ではないが、〈奎〉国の者に留意せよと命令をうけている。天蓋のついた車の座席で、士羽はとっさに身がまえた。  一応、剣は佩《は》いているし、それなりに手ほどきをうけたこともある。が、大牙ならともかく、士羽程度の腕力では、抵抗しても怪我をするだけ損というものだ。そうと見切って、 「手むかいいたすな!」  随従の者たちに、士羽の声が飛んだときには、すでに四方を囲まれ、手槍や剣をつきつけられていた。 「無礼であろう。〈奎〉伯よりの正使に対して——!」  随行の先頭の男が叫んだが、衛士たちの堅い表情に変化はなかった。 「長をよべ、責任を持つ者をここへ出せ。なに用あって、このような無体なことを!」 「楚文《そぶん》、よい。さわぎたてるな」  なだめた士羽の目前にも、槍の穂先がちらついていた。 「降りろ」 「こやつら、仮にも一国の公子にむかって、なんということばづかいを」 「楚文」  この楚文という初老の男は、〈奎〉国の家臣の中でももっとも礼に通じているために、正使の指南役として、使者の派遣にはかならず同行してきた。それだけに、口やかましいのはいたしかたないが、この場合、衛士を下手に刺激しては彼自身の身があぶない。  士羽は、さからわずに車を降りた。随行の者や兵士たち——といっても、非常の際のための二十人ほどの少勢に、それぞれ乗り物から降り、武装を解くように命じた。  その背後で、城門の重い扉が音をたてて閉じられる。 「二公子——!」 「さわぎたてるな」  緊張が稲妻のようにはしったのは、衛士が三人がかりで士羽の腕と肩をとらえたからだ。この中原で、他人の体に、ことわりもなしに触れるほど非礼なことはない。一国の公子であり、正使と名乗る者に対しての所業とは、とても信じられないことだった。なにかが微妙に狂っているような感覚を、士羽はおぼえた。 「だれの命だ」 「知らぬ」  ようやく衛士からもどってきた回答が、それだけである。彼ら自身、なにも知らされていないのだと士羽は判断した。真相をつきとめる気ならば、行けというところへ行くしかあるまいと覚悟を決めた。が——。  小雨の中、供の者からひとりひき離されておしこめられた車には、さすがに絶句した。いや、車などと呼べる代物ではない。木製の箱に両輪をつけただけの、罪人を護送するための檻《おり》である。それに士羽の長身をおしこめ、それとばかりに走り出した。  中の士羽の安全など気づかう気配もみせないのは、どうやら、一刻も早くことを運べと厳命されているためらしい。どうなるのかと、さしもの士羽も生命の危険を感じて、背中に冷たいものを感じたときである。  道の前方で、どん……と、腹に響く轟音《ごうおん》が聞こえたかと思うと、火傷しそうなほど熱い風が、壁のように一気に吹きつけたのだ。箱の中にいた士羽には、熱気はじかにはとどかなかった。が、その風圧で、車が軽々と吹きとび、横転した。  箱の一角がぐしゃりとつぶれ、そこからようやく、なにが起きたか士羽ものぞくことができたのだ。  義京の大路の中央に、巨大な火柱が立っていた。まるで、落雷でもあったかのようだが、このあたりで春の雷とはあまり聞かないし、だいいち平坦な道の中央に落ちるというのも初耳である。 (——いったい、どうなっている)  天候のせいもあるのだろうが、都の大路に自分たちの他に、人気がないのも異様だ。  士羽は慌てることさえ忘れて、思いをめぐらしはじめた。が、それも長いあいだのことではない。 「——さ、早く」  目の前へ、一本の手がさしのべられたのだ。あと、数組の手が、壊れた板をさらにおしひしいで、人ひとりが通れるだけの空間を確保していた。 「かたじけない」  士羽は、ためらわずにその手につかまった。するりと身体がぬけ出たところは、雨とこの騒ぎのためにぬかるみとなっていた。泥が士羽の衣服にも、顔面にまでも遠慮なく飛んだが、ぬぐう暇もなければ、士羽にその気もなかった。さしのべられた手の主たちの顔もまた、泥だらけだった。これが、わざと塗りたくったものだと気づいたときには、士羽は数人の漢《おとこ》たちにかこまれるようにして、走りだしていた。  一度だけふりむいた士羽の目に映ったのは、すこし勢いのおさまった火柱と、ひとりの例外もなく気死させられた衛士たちの姿。  おどろくべき手際のよさだった。  どこをどう走らされたか、見当もつかないうちに、士羽は、高い土壁にうがたれた小さな門をくぐっていた。義京の城門をはいってから、今まで、あっという間の出来事だった。 「もう、安心ですぜ」  最初に口をきいたのは、さしのべられた手の持ち主だった。一団の漢たちが長身ぞろいなのに、彼ひとりだけが際だった小男だったので、判別がついていたのだ。それと、泥を塗ってもその異様に四角い顔の輪郭は、かくしきれない。 「感謝する。が、そなたたちは——?」 「あたくしが、さしむけましたの」  なめらかな女声が、その場にすべりこんできた。 「……尤《ゆう》夫人」  その場にあらわれた婦人を、士羽は一瞬、仙女と見まちがえた。雨の中、しばらく前からそこで待ちうけていたのだろう。絹の衣装も黒髪もぐっしょり水分をふくんでいた。それさえも、大輪の花の上に露を置いたようにさえ見えたのは、この商家の女あるじの表情に、いつにない憂《うれ》いの色があったためだった。  ——むろん、士羽も暁華《ぎょうか》とは顔見知りである。尤家と〈奎〉伯、段家とは、何代にもわたって、さまざまな取引をしてきたのだ。暁華がおさないころから、知っているし、彼女が当主となってから、父、〈奎〉伯の代理として会うことも多かった。 「お怪我はございませんでしたでしょうか。手荒なことをいたしまして、申しわけのしようもございませぬ」 「いや、衛士たちよりは、よほど親切であったよ。だが、どういう事情になっているか、教えてくれるんだろうね」 「そのために、士羽さまをお待ち申しあげておりました。羅旋《らせん》も淑夜《しゅくや》さまも、たよりになる者はだれも義京にはおりませぬし、あたくしにはもう、どうしてよいのか——」  女丈夫ともいうべき暁華がこれほど困惑したところを、士羽は見たことがなかった。 「ともあれ、まずはお召しかえを」  雨の上に、泥の中を全速力で走ったために、城に入るため威儀を正した衣装もまた、泥にまみれて見るかげもなかったのだ。 「すまぬが、それよりもまず、私の随行の者に無事だと報らせる法はないだろうか」 「ご一行は、すでに城外へお逃がしいたしました」 「外へ——」 「そちらの方が、安全なのですわ。とにかく、野狗《やく》、室へご案内を」  へ——とかしこまったのは、例の四角い顔の小男。他の者たちはといえば、気づかない間にきれいに消えうせている。夢の中へ足を踏みいれてしまったのではないかと、士羽はうたがいながらも、とりあえず、野狗と呼ばれた男のあとにしたがった。  これが一夜の悪夢であってくれれば、どれほどよいと願っただろう。——だが、夢であるはずもなかった。 「——陛下が、七星宮に?」 「ほんの数日前のことにございます。おもてむきは、祈晴《きせい》の儀のために七星宮にご還御《かんぎょ》いただいたということでしたけれど、それからあと、龍顔《りゅうがん》を拝した者はおりませんの。寿夢宮の内部も打ち壊されて、今はだれひとり棲《す》んでおりませぬ。どうやら、ご存命であることだけは、たしかなようでございますけれど」  沐浴《もくよく》をし、さっぱりとした衣服に着替えた士羽にもたらされたのは、最悪の情報だった。 「妃殿下も七星宮にお移りになられたようで、こちらはお住まいもほぼ、わかっております。でも、監視はきびしく、幽閉同然。手を尽くしておりますけれど、近づくことさえむずかしくて」  こちらも乾いた衣装にあらためた暁華が、都の状況を、ざっと説明してくれた。 「今、都の城門という城門は、庶民でさえ往来を禁じられておりますわ。商売など、もってのほか。ことに、出入りしようとする貴人は、だれかれを問わずひっとらえよと命令が出ております」 「太宰《たいさい》どののしわざ、か」 「さからえる者は、今の義京にはおりません。——お聞きおよびかと思いますけれど、おそらく、陛下が〈征〉公に迫られて、じかに勅書をお渡しになられたことが、お気にさわったのかと思います」 「うむ、聞いているよ。それが慣例となって、だれでもじかに| 詔 《みことのり》をいただけるようになれば、太宰職など不要。——〈征〉公はそれを承知の上で、太宰どのにゆさぶりをかけた。陛下が勅書をくだされたと聞いて、まずいとは思ったのだが」 「陛下の落ち度ではございませんわ。あのおり、陛下が拒否なさっておられたら、支吾さまがなにをなさっていたことか」 「先例が作られてしまったあとでは、どうにもならない。〈征〉公は、みごとに太宰どのを追いこんだわけだ」 「太宰さまともあろう方が、そうも簡単に追いつめられるとは、思いもよらぬこと。あの方とて、事を起こせば不利だということぐらい、十分、ご承知のはずですわ」 「座視していれば、もっと不利になるよ。以後、太宰家の申しようを聞く者はいなくなる道理だからね。そこまで追いこまぬために、面倒でも、太宰どのを通して詔をいただくつもりだったんだよ」  冰子懐が暴走しないうちに、なだめようとしたのだ。だが——。 「なぜ、このように遅くなられましたの」 「父上の具合が急に悪くなって、出立がおくれた。——そういえば、尤夫人。私が来るのをどうして知っていたんだね。前もって知らせる余裕は、なかったのだが」 「野狗——」  暁華は直接こたえず、いつのまにか室の戸口にひかえている小男に声をかけた。 「遠慮など、今さら無用でしょう。何度もしのび入っているはずですものね」  暁華の妙ないいまわしに、 「へへ、おおせのとおりで。——あらためて、二公子に、ごあいさつ申しあげます」  こちらも、顔の泥を落としてきている。輪郭だけで、それと察していたのだが、顔をたしかめて士羽はうなずいた。 「——野狗といったな。たしか、淑夜どのを〈奎〉まで連れてきた。羅旋《らせん》の手の者だそうだが。こんなところで、なにをしている」 「へ、まあ。あのあと、〈衛〉まで使いに行かされてましてね。で、その答えをもらって巨鹿関《ころくかん》までひっかえしたら、頭領——いや、羅旋に義京のようすが気になるから、行って、大牙さまの兄君をおまもりしろと」 「——いったい、そなた、一日でどれだけの道のりを行くのだ」  妙なところで、士羽は感心した。 「大牙たちが青城を出たのは、五日前。いくら急いでも、巨鹿関に着くのは二日後——三日前であろうが。それから、義京まで来て、私を待ち受けていたというのか。——いや、少し、待て」  さすがの士羽も、混乱しかけたようだ。 「義京が、こんな状態になったのは、いつからだね」 「ちょうど、五日前ですわ」  と、すると、大牙たちが青城を出た日ではないか。士羽の脳裏を、ちらりと白虹の情景がよぎったが——。それはとにかくとして、野狗が都まで来たときには、すでに出入り禁止になっていたはずだ。それが、なぜ——。  士羽の視線に気づいて、野狗も、暁華までも意味ありげに笑った。 「ご不審に思われるのも、無理はございませんわね。ここは、あなたのなりわいをかくさずお話した方がよいと思うのだけど、野狗」 「まあ、それは、その……。江湖《せけん》では、夜盗などとよばれておりますがね」  なるほど、それならば、城内へしのび入ることも不可能ではないわけだ。 「念のために申しあげておきますけれど、士羽さま。あたくしも羅旋も、おのれの利益のために、野狗の手助けを頼んだことはございませんわよ」 「わかっているよ」  暁華に先まわりして決めつけられて、士羽はあわててうなずいた。 「ですけれど、この野狗はただの夜盗ではありませんの。おそらく、脚の速さでは中原一かと」 「巨鹿関からここまで、一日もあれば」  ちなみに、巨鹿関から義京までは約四〇〇里弱(一里=四〇五メートル)。車で急いで、三日から四日はかかる。羅旋のように馬に直接乗って走らせるとして、馬をのりつぶしてしまう気なら、一日で走れない距離でもないが、とうてい人間技ではない。 「信じてくれとは、申しませんや。実際にはたらいておみせすりゃ、いやでもおわかりいただけますから。でも、羅旋の下知《げち》でうごく奴の中には、とんでもない連中が幾人もおりますよ。さっきの莫迦《ばか》げた火柱だって——」 「だれが、莫迦じゃと?」  のっそりと戸口に顔をのぞかせたのは、これも小柄で痩《や》せた老人である。こちらは遠慮もあいさつもぬきに、ずかずかとはいりこんで来、士羽の真正面へ座を占めた。 「二公子には、お初にお目にかかる。お耳にはすでに達しておると思うがな、わしは莫窮奇《ばくきゅうき》と申す者にて」 「そなたが、五叟《ごそう》先生か。うわさは、大牙から聞いているよ。なるほど、そなたでなければあの火柱のような大技はできぬ道理だ」 「ほ、さすがは、〈奎〉伯のご子息。人を見る目をお持ちじゃ」  人の悪そうな顔つきでからからと声をたてたが、暁華の視線にあってぴたりと笑いおさめた。 「笑う余裕も有用ですけれど——」 「わかっておるわい、まずは陛下の居所を捜しあてることじゃな。それから、いかにしてお助け申すか」 「うわさでは、明日が祈晴の儀のための吉日だとか、うかがっております。それまでは、陛下も揺珠《ようしゅ》さまもご無事でしょう。でも、外の——ことに〈征《せい》〉公の動き次第では、そのあとのことが……」  みなまでいわせず、士羽ははっきりとうなずいた。それは野狗や五叟に示すというよりは、みずからを納得させるようなそぶりに見えた。 「荒事は得手ではないが、私にとっても他人ごとではないからね。なんとか知恵をしぼってみるから、人の配置やらなにやら、詳細を教えてくれぬか。なにかと、羅旋のようにはいかぬだろうが——」 「そのつもりで、お救いしたんで」  野狗がうれしそうに、上目づかいに両眼をきらめかせてきた。 「わしの出番も作ってくださるのであろうな」  と、血の気の多いのは、五叟老人。 「お入り用のものは、なんなりと。往来が禁じられてから、入手しにくくなったものもございますけれど。金銭の力は、なくなりはしませぬわ」  とは、むろん、暁華の言である。 「今、集められる人手は、いかほどある」 「羅旋の身内で義京にのこっている奴は、そう多くありません。あらかた、巨鹿関へ出ちまったもので。でも、いることはいるし、そのあたりの奴らよりは役に立ちます。なんなりと、下知してやってください」 「時がないとすれば、祈晴の場をねらうしかあるまい。むずかしいかもしれぬが」  士羽が眉をひそめたのは、胸のうちを白虹の幻が、ふたたびよぎったからだ。予感めいた一抹の不安をおさえながら、彼は暁華からさらに宮城の詳細を聞くために、身をのりだしたのだった。  一方、淑夜はそのころ、棘父《きょくふ》とよばれる地に在った。これは、〈呂《りょ》〉という小国の北辺の地であり、目と鼻の先がもう〈征〉の領内だった。  山をひとつ越せば、〈征〉の国都、臨城《りんじょう》までの距離はほぼ四〇〇里(一里=四〇五メートル)ほど。車で強行して四日弱かかる地点だが、戦をする気ならば余力を残さねばならないから、八日から十日の行程と見た方がいいだろう。  ちなみに、ここから巨鹿関までも同じほどの距離がある。臨城をこのまま衝《つ》くにしても、巨鹿関内へ退《ひ》くにしても、好都合な地点といえた。唯一の不都合は、ここと巨鹿関のあいだで一箇処、〈衛〉国内を通らねばならないことだったが、野狗が使者の役目をまっとうしたおかげで軍自体は問題を起こすこともなく、無事に通過した。一番の問題になった淑夜の身柄は、この間だけは粮草《りょうそう》をはこぶ革車《かくしゃ》(輜重車)の中に押しこめられることで解決した。  ——実はもう一本、〈衛〉を通らずに棘父に到る路《みち》がないでもない。ここまで来るのに使った道は、巨鹿関から瑶河《ようが》沿いに東へ下り、支流のひとつとの合流点で道を折れて北上する。通常、旅人の多くが使う公路である。もう一本の道は、巨鹿関を出てすぐに北の山脈を越え、〈容《よう》〉国を横切る方法で、二本の道はちょうど、山脈をはさんで南北に並行して走っていた。  前の瑶河沿いの道は、途中、二箇処で河を渡らなければならない。また〈衛〉の他に〈雛《すう》〉という小領をも通る必要があって、かならずしも安全とはいいがたい。〈容〉伯が、このたびの〈奎〉に呼応した夏氏の一族であることを考慮にいれれば、北路を行く方が確実だったのだが、羅旋はあえて南路を採った。  ひとつには、隊商のような小人数だけならばともかく、戦車や革車のような大型の乗り物、それに人間を確実に、そして大量に山越えさせるのは困難だったからだ。慣れた者が手配をすれば、渡河の方がよほど確実だし早いことになる。  それともうひとつ。 「この際、耿無影《こうむえい》を巻きこんでやるか」  そんないい方を、羅旋はしたのだった。 「ですが、——彼は、知らぬふりをすると」 「魚支吾《ぎょしご》に、疑いを抱かせることはできるさ」  つまり、無影が〈奎〉に加担したのではと、一瞬でもいいから、〈征〉公に思わせることができればよいというのだ。 「〈征〉と〈衛〉が、手を結ぶようなことがなけりゃ、それでいい。あったとしても、一日でも一刻でも、遅れればな」 「瑶河が西へ流れても、そんなことはありませんよ」 「わからんぞ。今、二国が組めば、夏氏の連衡《れんこう》なんぞ、ひとひねりだからな。そうさせないための手なら、なんでも打っておくさ」  そういって、〈衛〉国内はわざと隊伍をととのえ、威儀をととのえて行軍させたのだが、実のところ、それはけっして楽なことではなかった。強行軍の上に、天候がこのありさまである。道はぬかるんでいるし、休息をとるにも食事をするにも、身体を暖めるにも難儀した。しかも、軍といっても、総勢千人あまり、内情は羅旋がどこからかかき集めてきた無頼者が主体の、規律・統制のとりにくい一団だったのだ。  青城《せいじょう》から派遣された軍の大半は、大牙とともに巨鹿関にとどまっている。むろん、徐夫余《じょふよ》のように、〈奎〉の兵もいることはいるが、過半数は羅旋の手の者といってよい。さらにその五百人強のうち、直接に羅旋の顔を知っている者は、百人ほどで、あとは伝手《つて》をたよって文字どおり狩り集められた者ばかりだったのだ。  もっとも、もともと屈強な漢たちばかりである。下手な賦役《ふえき》兵より体力もあり、だからこそ悪天候下の強行軍に耐えられたのだろうが、ひとつには彼らをまとめあげた者の手腕もあるだろう。  この男たちを、巨鹿関でやったとおり五人ずつの組にし、それをさらに数組ずつにまとめるというやり方で組織したのは、壮棄才《そうきさい》である。〈征〉にいっていたはずの、この羅旋の謀士《ぼうし》が巨鹿関にもどっていたのには、淑夜はおどろくというよりも困惑の念の方が強かった。彼は、行軍のあいだも無口で不機嫌そうな表情のまま、次々出てくる問題や苦情、厄介事をひとつのこらずぴたりとおさえこんでしまったのだ。  なにしろ、嫌味や悪口はいっさい通用せず、腕力はといえば、羅旋が知ったときのことを考えると、さしもの腕自慢の漢たちも遠慮するのだから、自在に腕をふるえるというものだ。  とにかく、淑夜の出番などありようがなかった。 (いったい——)  淑夜が、棘父《きょくふ》の野営地でひとり、膝をかかえたまま思い悩んでしまったのも、無理のないところだろう。 (私は、なんのためにここにいるのだ)  謀士に欲しいと羅旋には乞われ、士羽には羅旋の暴走をおさえろと命じられてはきたが、今のところ、淑夜の出る幕はない。ないどころか、重荷になっている始末だ。巨鹿関までは車に乗ったが、そこから先は、追風《ついふう》に乗った羅旋のそばから離れるなといわれた。つまり、超光《ちょうこう》に乗れというのである。  鞍にひと工夫がほどこされていたのが、唯一の救いだった。鞍の左下に、革紐で金属の環が吊りさげられていたのだ。これに脚をかければ、少なくとも乗る際に大騒ぎをしなくともすむ。ぶざまによじのぼるのは仕方ないとして、制御しにくい左脚が安定するのはたすかった。これならば、多少、馬の速度をあげても、振りおとされる回数は減る。  それを見ていた羅旋が、 「五叟のじいさんも、たまには役にたつ」  つぶやいたところをみると、五叟老人の工夫なのだろう。おかげで、乗りやすくなったものの、何度かは落ちる羽目となった。不要なら、まだいい。足手まといになっては、意味がないではないか。  疲労も、極致に近かった。これで今夜も雨だったら、淑夜は逃げ出す算段をはじめたかもしれない。さいわい、雨はこの日の午《ひる》すぎからあがって、夜空には星も見えていた。地面はまだ濡れていたが、野営の竈《かまど》は作れたし火も燃やせた。だが、淑夜の憂いは晴れなかった。 「——どうした、機嫌が悪いな」  一団からひとり離れ、夫余さえも近づけない淑夜に、陽気な声が降ってきた。反射的に、身体の脇にそわせた杖に手が行く。が、闇の中にうかぶ獣じみた緑色の光点を、見るまでもなかった。 「意気消沈といったようすだ。この程度で疲れていては、この先、使いものにならんぞ」  人の影が、淑夜の正面にどっかりと長身が座る。手近には灯火はないが、人数よりも多い野営の燎火《かがりび》が、ここまで薄い影をなげかけている。顔の造作のこまかいところまでは見えなかったが、笑っているのは気配でわかった。 「私が疲れているからって、あなたには関係ないでしょう」  いい返した口調が、あきらかに疲労の色を濃くうかべている。だが、これは身体のではなく、精神の疲労だった。拗《す》ねたような声だと、淑夜は自分でも思った。むろん、羅旋もそう感じたのだろう。緑色の眼光が細くひきしぼられたところを見ると、声をたてずに笑ったのだろう。 「疲れているんでなけりゃ、まだ怒っているってところか、迎えにでなかったからな」 「孩子《こども》じゃあるまいし、何日前の話だと思ってるんです」  先日、淑夜たちが巨鹿関へ着いた時だ。羅旋は、先に巨鹿関に着いているはずなのに、迎えにも出てこなかった。どうしたのだと心配して捜してみると、塞《とりで》の一隅で眠り呆《ほう》けていたのだ。  大牙が、青城の城門まで淑夜を出迎えてくれたことを思うと、あまりにも怠惰で礼儀——というより、心づかいに缺《か》ける態度だと、淑夜には思えた。彼がめずらしく怒ってくってかかったもので、羅旋が大牙のところへあらためて挨拶に出むくという一幕があったばかりである。  大牙自身はたいして気にしていないようすだったし、羅旋も謝るというよりは、酒の対手《あいて》をしにいったほどのつもりだったらしい。  ひとり、淑夜だけがその日一日、機嫌が悪かったわけだが、さすがに何日もひきずるほどに、彼も執念深くない。 「では、これのせいだな」  そういった羅旋の手に、細い銀色の物が遠い光を反射していた。見なくとも、正体はわかっていた。銀の簪《しん》である。巨鹿関でおちあった——というより、すれちがった野狗から譲られたものだった。 「どうもね、もらった物は身につかないんでさね。縁のあるお人に持っていてもらった方が、ましというもので」  野狗は野狗なりに、気をつかったのだろうか。妙に無影のことを誉めて、義京の方へ去っていった。  それを、羅旋が横からとりあげたのだ。 「おまえがこんなものを持っていては、妙なうわさがたつ」 「使ったり、しませんよ」  頭に挿そうにも、今の淑夜は髪に冠を留めるような身分ではない。金目の物をみよがしに身につければ、それだけでもめ事をひきおこしてしまう。だが、 「持っているだけでも、まずい。事情はどうあれ、おまえは耿無影の同族なんだぞ」 「わかっています」  噛みつくように、淑夜は応えた。  だれが、何をどう見るかわからないのだ。この陣営にいる無頼たちは、義京や青城から来た者ばかりではない。他の諸国でも、すこし大きな城邑《じょうゆう》ならあぶれた男たちはどこにでもいたし、これから攻めるべき〈征〉の国内や〈衛〉の国都からも集められているというから、あきれたものである。 「——細作《さいさく》がまじっているかもしれないじゃありませんか。無用心すぎます」  さすがに、淑夜が抗議したが、 「なに、おたがいさまだ」  羅旋は、とりあおうともしなかったのだ。  そんな状態であれば、この簪《しん》が〈衛〉の若い国主の物だと知っている者がいる可能性もあるわけだ。それが淑夜の手にあるところを見た場合、どんな推論が成立するか、考えてみるまでもない。淑夜が〈衛〉の諜者《ちょうじゃ》であるとでも、いったん噂がたってしまえば、収拾のしようがない。いや、わざとあおる者がいるかもわからない。そんなことになれば、軍の結束にも支障が出る。  それは、よくわかっているつもりだった。  だが、羅旋は翠色の眼を底光りさせて、首をふった。 「わかっていないな。いや、未練があるんだな」 「——そんなもの!」 「ないといえるか」  思わず、杖をささえに中腰になった淑夜を見あげてくる羅旋は、冷静だった。間延びした陽気な表情はそのままでも、両眼だけが醒めた光をはなっている。その視線にあうと、いったん頭へのぼった血が急速に冷えていくのを淑夜は感じた。気がくじけた、とでもいうのだろうか。立てた杖をすべるようにして、腰を落とす。その上へ、 「ちがうというなら、聞かせてもらおう」  あいかわらず、ずしりと太く、陽気でおだやかな声音だった。 「——無影のことを考えていたのは、事実です」 「そら、見ろ」 「ですが——!」 「わかっているさ。いまさら、泣きをいれて〈衛〉へもどるつもりはあるまい。その気なら、魚支吾にむかって、おのれの手で滅ぼしてみせるなんぞとはったりをかけたりはせんだろうさ。だが、迷っているのは事実だな」 「迷っているわけではありません。知りたいと思っているだけです」 「なにを——」 「無影が、公位を簒奪《さんだつ》した理由を」 「まだ、そんなことを」 「ちがいます」  軽い舌うちにむかって、淑夜は抗弁をつづけた。どういえばわかってもらえるか自信はなかったが、説明をつづけるよりほかなかった。 「なにか、理由があったはずです。彼は——無影は策士ではありましたが、意外に、情に流されるところもないわけではなかった。だから——」 「情で、一族を滅ぼし一国をのっとったとでもいう気か」 「私の兄のだれかと、何事か起こしていたのかもしれません」  庶家の出でありながら才を顕《あら》わしていた無影は、宗家にうとまれていたふしがある。ことに淑夜の兄たちのうちでも、出来のよくない二人ほどが、無影と険悪な状態になっていたこともある。彼らとのいざこざが、事の発端になった可能性は、十分にある。が、くわしいことは、三年ものあいだ、故郷を留守にしていた淑夜には推察しようもないのだ。 「だが——。そんなことを知っても、どうにもならんぞ。死んだ者が生きかえるわけでもなかろうが」 「わかっていますよ。心配しなくても、無影を許すつもりもありません。でも、理由は知りたいと思うんです」 「理屈っぽい奴だ」  また、舌打ちが周囲の闇に反響した。 「——理屈が多いのはもとからです。それを承知でここに無理やり連れてきたのは、羅旋、あなたですよ」 「俺にからむな。知りたいのなら、無影に直接、訊けばいいことだろう」 「どうやって」 「なにも、今すぐにとはいわんさ。だが、生き延びてさえいれば、そのうち、どんな機会がめぐってくるかもしれん」  淑夜は、目をこらして闇の中を透かして見た。この漢が、こんな気の長いことをいうとは思わなかったのだ。淑夜の方からは、はっきりとは相手の表情はとらえられなかった。が、羅旋の夜光眼は、淑夜の顔の変化をひとつひとつとらえていたはずだ。低い笑い声が起きたのが、その証拠だ。その笑い声のまま、しかし突然、次にとんでもないことをいいだしたものだ。 「——ところで、ものは相談だが、明日、〈征〉に仕掛けてみたいんだが」 「早すぎはしませんか。着いたばかりで、皆、疲れているし、地形もよくのみこんでいない。他の国との連携も、まだ十分には……」 「〈征〉の兵を、少しでも分散させておくべきだ。——動きが妙だ。ここまで国境を手薄にして、臨城に勢力を集中させるとは思わなかった」 「仕掛けるといって、どうする気です」 「その知恵を借りに来たんじゃないか」  即座に無責任な答えがもどってきたが、さすがに淑夜も羅旋の性格になじんできたのか、さほどおどろきもあきれもせずにすんだ。ついでに、回答もそっけないものとなった。 「無理です」 「おまえ、考えるふりぐらいしてみたらどうだ」 「無理なものは無理ですよ」  淑夜は、ほんとうにとっさに、なにも思いつかなかったのだ。だが、羅旋はそうはとらなかった。とらないふりをした。 「——おまえ、士羽に、俺から目を離すなといわれてきただろう」  いきなり図星をつかれて、淑夜は否定するのを忘れていた。 「なぜ、わかるんです」 「士羽がいっていなかったか。俺は、中原の主だった漢どもの腹のうちなら、たいていは読めるつもりだ」 「——いけませんでしたか」  淑夜が憮然といいかえすと、 「いや。心配するな。今のところ、〈奎〉の思惑からはずれる気はない」  ということは、いずれは、それを越える気があるということだろうか。 「今の俺たちの雇い主は、〈奎〉だからな。せいぜい、大牙のいうことはきいておくさ。あれはあれで、いい国主になる。恩を売りつけておいて、損はない」 「妙なことを訊くようですが——」  淑夜は、ふと、突飛《とっぴ》なことを思いついた。なぜ、そんな方向に考えがむいたのか、自分でもわからない。その思考を、即座に口にするのも、彼としてはめずらしいことだった。 「なんだ」 「まさか、大牙さまを、王にしたいなんぞと、いいだすんじゃないでしょうね」 「……なんでまた、そんなことを思いついた」  闇の中からかえってきたのは、心底、あきれかえった声音だった。緑色の光点が、ちらちらとまたたいたところをみると、めんくらっているのだろう。 「いえ、べつに。ただ、王には世子がおられませんし、夏氏の国の公子なら、〈魁《かい》〉王位を継ぐ資格はあると思ったものですから」 「まあ——王もそうしたいところなんだろうがな。そう、うまくはいかないから、俺たちがここにいる羽目になっている。——で、なにかいい手はないか」  と、強引に話をひきもどしてきた。 「なにか仕掛けたら、かならず死傷者が出ます。この人数では、ひとり失うのも惜しいでしょう。それに捕虜でも出せば、こちらの実情がすべて知られてしまいますよ」  昨年の巨鹿関の戦でさえ、〈奎〉は二万の兵の動員がやっとだった。今、大牙の指揮下で巨鹿関に控えている軍は、せいぜい五千。連衡《れんこう》の他の国でも、やはり多くて一万の出兵である。それを、できるだけ大軍に見せかけるために、羅旋はいじましいほどの工夫を全軍に命じている。  今、淑夜が見ている竈《かまど》の火が、人数に比べて異様に多いのもそのためだ。野営のあとの竈の痕跡で敵軍の規模を推しはかるのは、戦の前の常套手段であるといえた。それを逆手にとって、数を水増ししてみせかけているのである。昼間は、旌旗《せいき》を多くひるがえし声を大きくたてて行軍する。砂塵をわざとたてるという方法もあるのだが、この雨天つづきで、これはあまり効果がなかった。  とにかく、下手に仕掛けて実数でもつかまれれば、そちらへむけて〈征〉軍が殺到するだろう。なにしろ、単純に兵の数を比較しても、夏氏の軍すべてよりも、おそらく〈征〉の方が多いはずだ。 「だから、そうさせないために、知恵をしぼれといっている」 「そういうことなら、棄才どのに——」 「あいつの得手じゃない。なにか考えついて、そのあとの段取りなら、お手のものだが」 「——五叟先生のように、術で目をくらますならともかくも、なにもなしでは手のうちようがありませんよ」 「霧のことなら、五叟がいても使う気はないぞ。あれはもう、通用せん」 「ですが——」 「おまえの堂兄が、よけいなことをしなければ、一度や二度は通用したかもしれんがな。荊蕃《けいばん》の戦のせいで、からくりが中原中に知れわたってしまった。支吾なら、霧の対処法ぐらい、すでに考えているだろうさ」 「対処法——あの、一方向を指す水晶玉ですか。でも、あんなものがそう……」 「簡単にできんと思うか。だが、五叟より上手の術者が、簡単にしゃしゃりでてくる世の中だぞ」  羅旋の声音はからかうようだったが、本心から笑っているわけではなさそうだ。少なくとも淑夜には、姿を見ているより、声だけを聞いている時の方が羅旋の本音がよくわかった。 「でも、〈衛〉の術者の実力のほどは、不明でしょう。例の霧だって、偶然だったかもしれないじゃありませんか」  とはいえ、淑夜も本気でそう思っていたわけではない。 「冉神通《ぜんしんつう》。五叟の兄弟子だ」 「え……?」 「五叟が若年のころ、修行した師匠のところに、先に弟子入りしていた奴だそうだ。学問も術も、なにをやらせても五叟のじいさんははるかに及ばなかったし、今でも、勝負したら負けるだろう」 「それを聞いたら、先生が怒りますよ」  性、狷介《けんかい》で、世の中におのれより偉い人間はいないと思っている老人だ。思うだけでなく、口にするし、人がそう信じなければ承知しない。人を人とも思わない言動は、なるほど、羅旋の一味だと妙なところで納得させるものがあるのだ。  が、羅旋は動じるそぶりもみせない。 「なに、五叟自身から聞いた話だ」  と、いいかえして、緑色の眼だけをひるがえしてみせた。 「あなたほど、皆が夜目がきけば、考えようもあるんですが」  淑夜は、わざとおおげさに嘆息してみせた。 「それこそ、無理だろうが」  夜光眼の持ち主は、戎族《じゅうぞく》の、羅旋の一族に限られるという。 「せめて、北方の戎族と連携できれば、ずいぶんとたすかったんですが。——今からでも、手を結べないものでしょうか」  南方で育ち、戎族との抗争は経験のない淑夜だからこその、思いつきだった。北方出身の人間ならば、戎族に蹂躙《じゅうりん》された記憶と偏見があるが、さいわい、淑夜は戎族から被害をこうむったことがない。  もともと、羅旋は戎族の出身だし、話の折りあいようもあるのではないか。戎族は蛮風ではあるが、その慓悍《ひょうかん》さにかけてはならぶものはない。今、北辺に姿がちらつくだけでも、〈征〉への威嚇には十分なるはずだし、いやでも軍勢の一部を北へむけて分散させることになる。  なぜ、こんなことを今まで考えつかなかったのだろうと、淑夜は身をのりだした。だが、 「だめだ」  羅旋は、また、一言のもとに否定した。 「ひとつには、大牙が承知せん。俺たちは今、〈奎〉を筆頭とする夏氏の代理で動いていることを忘れるな。討伐の勅書を出した〈魁〉の氏族が、当の戎族と手を結ぶわけにはいかんだろう。たとえ大牙が承知しても、俺がいるかぎり、話をするのは無理だ」 「——なぜです」 「奴らは、華の人間を軽蔑している。下をむいて、土を耕すのにろくな奴らはいないとな。それに、ひとくちに戎族といっても、部族は多い。今、〈征〉の北にいる奴らは、俺には不倶戴天《ふぐたいてん》の仇同士だ。話のもっていきようがない」 「どういう、意味です」  意外、というよりも、一瞬、なにをいわれたか理解できなかった。 「仇に意味もなにもあるものか。奴らは中原の戦には、関わろうとはせん。とにかく」  そこで、大剣で斬って捨てるようにまた、話題を強引にひきもどし、 「自力でなんとかすることを、考えろ」 「そんなことをいわれても——」 「考えつくまで、寝るな」  非情な声は、いやとはいわせない雰囲気をもっていた。 「必要なものなら、棄才がなんでも調達する。とにかく、明日の午《ひる》には、なにがなんでも仕掛けてみるからな」 「そんな、無茶な」  抗議はしたものの、無駄であることは淑夜にもわかっていた。とんでもないことになったと、ふたたび嘆息する淑夜の視界いっぱいに、竈の赤い火の点がまたたいていた。  みあげれば、すっかり晴れわたった夜空には満天の星。月はなく、雨つづきだったせいか、春にはめずらしく空気も澄んでいる。むろん、星辰の配置はことなっているが、それが羅旋とはじめて逢ったときのことを思いおこさせた。  視線を地上へもどせば、これまた星のような光がひろがっている。  ふと——。 「——羅旋」  火はまた、巨鹿関の戦を思いおこさせた。そして、羅旋と火とも連想の延長線上にあったのだ。 「思いついたか」 「なんでも手に入れてくれるといいましたね」 「ものにもよるぞ」  羅旋はあっさりと前言をひるがえしたが、淑夜は無視をした。 「集めてほしいものがあります。明日の夜なら、仕掛けられるかもしれません。それも、こちらに損害を出さずに」  できるかもしれない。  ついさっきまでの意気消沈を忘れたかのように、自信たっぷりに、淑夜はいいきったのだった。      (二)  翌日は、ひさしぶりに朝からよく晴れていた。あれほど雲に覆われていた空が、雲ひとつないのを見て、顔をしかめたのは羅旋ひとりだった。 「気にくわんな」 「晴れたのだから、いいでしょう。雨だったら、今夜、仕掛けるのは無理ですよ」  昨夜とはうってかわって、むっつり無口になった羅旋に、淑夜は手を焼いていた。この長身の戎族が、いつも以上に荒々しく見えるのは、そろそろ目立ちはじめてきた無精ひげのせいだろう。昨夜は暗がりで見えなかったのだが、昼の光の中で向きあってみると、大型の獣といった印象がさらに強くなる。  虎を思わせる、大柄な身体をゆすりながら、ふんと鼻を鳴らした彼を見て、 「まさか、あの連中を使うのが不満というのではないでしょうね」  淑夜の機嫌も、斜めになりかけた。それでなくとも不自由な脚に杖をつき、徐夫余《じょふよ》のたすけを借りながら、斜面をよじのぼるだけでも手いっぱいなのだ。その彼の視線の先には、窪地に集められた十数頭の牛がいた。この視野にははいっていないが、十頭前後ずつ組にされた牛や豚があと何組か、灌木《かんぼく》のあいだを追い上げられているはずである。  なだらかな勾配《こうばい》をのぼりきると、道は急角度で下の平野へと落ちていく。その先はもう、〈征〉の領内である。  ほぼ北々東にむかって急斜面の上から見渡せば、そこは巨大な台地の端だった。目の下からうねりだした細い川が、ちいさな谷をうがち、台地への登り口ともなっている。川は土地を潤し、ちいさな林や草地を点々と茂らせている。視界の中には、耕した土地もぽつりぽつりと見え、ちょうど谷が開けて、見渡すかぎりの平野へ出るところに、塞《とりで》らしい土塁がちいさく見えた。  そこはもう、〈征〉の領内であり、小塞は〈呂《りょ》〉とのあいだの関の役割をもはたしていた。その、小塁へむけて、今夜、この牛たちをつっこませようという考えなのである。  むろん、ただで走らせるのではない。角や身体に、燃える炬《たいまつ》をくくりつける。これなら、失敗してもこちらの人員に損害はないし、実数を知られるおそれも少ない。対手《あいて》にも、多少の負傷者は出せるだろう。塞を焼き払ってしまえれば一番いいが、そこまでの期待はできない。が、相手を恐慌におとしいれ、魚支吾を怒らせることが目的なら、これで十分なはずだ。  牛や豚は、棄才がどこから集めたのか、あっという間に、あわせて二百頭ほどを調達してきた。 〈呂〉の領内のみならず、どうやったものか、当の〈征〉の塞からたくみに買いあげてきたらしいのには、おどろくより前にあきれた。  その棄才は、数人の男たちといっしょに、この一団のあとからゆっくりとのぼってくるところである。壮棄才が不機嫌なのは、今にはじまったことではないが、淑夜にしてみれば、おのれの立案を批判されているような気分になった。  だが、羅旋の不機嫌は、また、これとは理由が異なっているようだった。なにしろ、人間より馬の気持ちの方がよくわかるという羅旋のことだ。家畜とはいえ、むごい使い方をすることが気にくわず、口をききたがらないのかと淑夜は思っていた。  だから、 「——今日は、何日だ」  日付を訊いてきたのに、淑夜はめんくらった。 「夾鐘《きょうしょう》(二月)の——いや、今夜は新月ですね。では、姑洗《こせん》(三月)の朔日《ついたち》です」 「この天気、気になる。暖かさもだ」  三月のはじめともなれば、春もたけなわの時候である。今年は雨が多かったために、肌寒い日が続いているのだが、平年ならば花という花が咲きはじめるころだ。だから暖かいのは当然なのだが、昨日までと比べて異様なのもまたたしかである。 「たしかに、暑いですね」  夫余が同意したが、淑夜には実感としてはわからない。なにしろ慣れない登攀《とうはん》に、一里もいかないうちに汗びっしょりになっていたのだ。 「あの連中が妙に落ちつきがないのも、そのせいでしょうか」  もっとも、牛どもがいうことをきかないのは、山道を登らされたことと、これからの仕事を察しているせいかもしれない。 「——俺の気のせいかな」  と、羅旋も気を鎮める気になったらしい。広い肩幅をかるくすくめると、〈征〉を見下ろせる場所に、地面に直接、座りこんだ。 「もうすぐ、午《ひる》です」  ここまで、ひいてきた追風と超光の手綱をうけとりながら、淑夜は何気なくつぶやいた。これから、夕刻までここで待機して、日が沈むと同時に準備にかかる。夜半、家畜どもに背負わせた炬に火を放ち、斜面を追い落とす。細い谷間とはいえ、確実に効果をあげるために、馬で誘導する手筈《てはず》になっていた。馬に乗れる人間は一般には少ないはずだが、羅旋が集めた無頼どものうち、半数ほどは乗りこなせることを淑夜は確認していた。 「支度にかかるには、まだ——」  早いはずです。ひと休みをと、いいかけた声は、突然に断ち切られた。  なんの前ぶれもなく、鳥のはばたきがまきおこったのだ。それも、ただの数ではない。全山の鳥という鳥が飛びたったかと、淑夜は思った。実際、空が真っ暗に染まるほどの数だった。そのかん高いさえずりの洪水で、耳が瞬時ではあるが、聞こえなくなった。  鳥の大群は、あっという間に去った。  しんとした不快感が、あとに残った。わけのわからない、重苦しい静寂が形あるもののように胸にのしかかってきた。肩を大きく動かしている自分に気づいて、淑夜はようやく、息苦しいことを自覚した。 「いったい——」  なにごとだと尋ねた声が、むごくかすれていた。が、最後までいいきれなかったのは、そのせいではなかった。  淑夜の視界の半分を、羅旋の肩が覆った。ぬっとたちあがったその横顔から、彼の視線の先をたどり、南の空をふりむいて、淑夜も天空の一角に行きついた。  冲天高く、日輪が輝いているところだった。本来なら、まぶしくて目も開けていられないはずである。が——。 「光が、弱い?」  ほそくすがめた眼にとびこんできたのは、太陽の丸い影。たちまち、眼に強烈な光の影が焼きつく。真円であるはずのそれが、なかばほどにゆがんでいるのを、淑夜はたしかに見たと思った。 「まさか——蝕《しょく》?」 「日蝕だ」  異変は、もう、だれの眼にもあきらかだった。青一色だった天が、光をうしない浅い紫色に変化していたのだ。  まさしく、天変であった。 「まずい」  ただ、呆然となるばかりの淑夜の耳もとで、低い声がうめいた。 「どうしたんです」 「こう散らばっていては、動揺をおさえられない」  羅旋の口からは、歯ぎしりにも似た鈍い音さえ聞こえてきた。 「あ——」  淑夜の脳裏にうかんだのは、青城を出るときに見た白虹である。あのとき、出陣する兵士のすべてが眼下に集まっていた。大牙がぴたりと彼らを鎮めたのは、彼のひとことが全員に直結していたからだ。たとえば、ここから「むやみに騒ぐな」という指示を出したところで、この山中に何組も配置した連中、また野営地に残してきた者たちに届くまでには、時がかかる。また、伝達しているあいだに、微妙なことばのくいちがいが出てくるものだ。下手をすれば——。 「そのあいだに、妙な細工をされては、潰走につながることもある」 「ですが、なにもしないわけにはいかないでしょう。私も行きます」 「待て——。おまえは、俺のそばを離れるな。だれも、その場を動くな」  夫余の手を借りて踵《きびす》をかえそうとする淑夜を、羅旋は腕をつかんでひきとめた。手勢の分散は、流言蜚語《りゅうげんひご》を招く。それを羅旋はおそれたのだろう。その判断は正しい。が、手をこまねいて見ていろというのかと、淑夜はかっとなりかけた。  それをしなかったのは、ただ、目にした変化に気をとられたせいだ。  周囲は、黄昏《たそがれ》時の黄色い光に満たされていた。中空の太陽はいまや五日の月ほどの細さとなり、銅鏡に反射させたような鈍い輝きをふりまいている。そのまわりにちらちらとまたたきはじめたのは、星辰。それも、ただの星天ではない。 「流星——」  天の一角から、白く長い尾を曳いて、ひとつ星が流れた。それが墜ちていく先は、西。  さらに、ひとつ、ふたつと星は天のなかばを横切っては、殞《お》ちていく。淑夜たちが声もなく見守る中、数は増える一方、暗黒は深まる一方。  流星は、雨のようにふりそそぐ。  乾坤《けんこん》を一望できる場所にあって、羅旋でさえ息をつめてただ、この天変を見守るばかりだった。 〈呂〉国がわのなだらかな斜面の、叢《くさむら》が揺れたのは、そのときだ。 「俺だ、頭領。羅旋の頭領。逢いに来たんだ、知らせがあるんだ」  誰何《すいか》される前にわめきたてる声があがり、蓬髪の漢がとびだしてきた。 「俺だ、頭領!」  その場の全員がいっせいに身がまえる中、真っ先に緊張を解いたのは棄才、そして羅旋の順である。 「丁父《ていほ》か」  羅旋たちの旧知の人間だったらしい。そういえば、三十すぎの、ずんぐりとしたその顔だちに淑夜もうすい記憶があった。たしか、巨鹿関で羅旋にひろわれた時、尤家の傭車《ようしゃ》の人足をしていたひとりではないか。 「やっと、やっと遭えた。さがしましたぜ。野狗の兄哥《あにき》から、一刻も早く頭領に知らせろと——」  息もたえだえに、羅旋の足もとへすがりつく。頭から土埃をかぶり、上衣も褶袴《しゅうこ》もところどころ裂けて襤褸《ぼろ》寸前である。安堵のためか、気が遠くなりかけるのをこらえて、丁父とよばれた漢は声をしぼりだした。 「前おきはいい。用件だけをいえ」 「子懐が、王を七星宮に幽閉した」 「それか——!」  ひと声叫んでふりあおいだ天を、またひとつ流星が弧をえがいていく。 「……義京は、どの門も封鎖されて、蟻一匹出入りがならねえ。お偉方の中でも、子懐と仲が悪かった奴らは、どんどんおしこめられてるって話だ」 「——羅旋、士羽さまが!」 「〈奎〉の二公子が、義京にむかったはずだ。まだ到着していなかったか」 「そ、それは、知らねえ。俺は、野狗の兄哥から知らせに行けといわれただけだ。兄哥が帰ってくるまで、俺たちも尤家の中で動きがとれなかったんだ。兄哥がすけて[#「すけて」に傍点]くれて、やっと、ぬけだしたんだが、兄哥みたいな早足というわけにいかなくて……、すまねえ、頭領、すまねえ……」 「水だ」  羅旋がいうより早く、棄才が竹筒にはいった水を丁父《ていほ》の顔へ直接、そそぎかけた。丁父は気死だけはまぬがれたが、それ以上は息も体力も続かなかったらしい。くたくたと、その場にたおれこんでしまった。へたりこんだまま、ぴくりともしない。  うすくらがりの中で、棄才がそのずんぐりとした身体をざっとあらため、 「怪我は、ありません」  事実だけを、冷ややかなことばで報告した。 「よりによって、こんなときに——。今日は、なにをやってもうまくいかん」  吐きすてるようにつぶやいて、羅旋はくるりと背をむける。その広い肩幅を、淑夜が追う。 「羅旋、暁華どのが——」 「あいつのことなら、心配いらん。問題は、士羽だ。義京に入っていないなら、その方がいいんだが——」 「陛下の御身は」 「——いくら子懐でも、無茶はしない」  という答えを、淑夜は予想していた。それが、淑夜の常識だった。だが、羅旋は、無言のまま首を振った。 「まさか——」 「大事にとっておくようなら、今さら幽閉などするか。邪魔になったから、思いきった手段に出た」 「どうするんです、これから」 「わからん」  感情をひどく抑えた声とともに、なにかがぶつかる鈍い音がした。羅旋が、立木の幹に拳をあてたのだ。 「こう、予測の外が一度に起きては、どうにもならん。いったい、なにがどうなった。だれが、仕組んだ」 「羅旋——」  淑夜は、応えるかわりに腕をしずかに上げた。  なにやら巫《みこ》がかった動作だと、淑夜自身も思った。  示した先は、北東。ちょうど〈征〉の国都、臨城の方角である。地平のある一点から、奇妙な煙か霧のようなものが立ちのぼっているのを、その場の十数人がたしかめた。  形もさだかではなく、色も白とも虹の色ともつかず、見ようと目を凝らすとたちまち、かき消えてしまう。が、そのあたりへぼんやりと視線を投げていると、おぼろに陽炎のようなゆらめきがのぼるのがわかるのだ。  羅旋の眼が、底光りした。暗さが増すにつれて、逆に冴えざえとした光をはなちはじめた眼が、無言のままうながした。 「——あれは」  淑夜は、いったんためらったが、羅旋の無言の圧力は、ことばにするより雄弁だった。 「あれは、王覇の気です。大軍が動く兆候です。……たぶん」 「五叟が、そういったか」 「いえ、尤家の蔵書の中にありました。ですが、五叟先生も似たようなことを」 「では、たしかだな」  羅旋は、疑おうともしなかった。 「そして、西か」  ふりかえって、星の流れる方角を見やる。それで、羅旋にはすべてのからくりがのみこめたらしい。 「魚支吾《ぎょしご》め……」  しぼり出すように、大国の公の名が出た。確証など、なにひとつない。だが、淑夜の見立てが正確なら、義京の異変を察知して同時に行動を起こせるのは、それを裏で仕組んだ人間だけだ。  いや、ことの裏づけや証拠など、どうでもよかった。羅旋には直感だけで十分だったのだ。 「してやられた。みんな、あいつに躍らされた」  歯のあいだから、絞りだすような悲痛な声だった。それが羅旋の人なみはずれた長身から発されると、まるで天地を揺るがすような嘆きに聞こえた。  彼のこんな真剣な声を、淑夜は今まで聞いたことがなかった。どんなときにも、動揺などという語からは無縁だと思っていた強靭《きょうじん》な漢が、はじめて吐いた弱音だった。大地がくずれるような錯覚を覚えたのは、日輪が缺《か》けきって、仮の夜に閉ざされたからかもしれない。実際にぐらついた淑夜の身体を支えてくれたのは、夫余の腕だった。  その夫余も、無言。  この場に居合わせた者、すべてが重く口を閉ざす中、ひとり、うっそりとすすみ出た影がある。 「——いかが、なさる」  壮棄才の、感情のない声だった。 「嘆くのは簡単、ことを中途で投げ出すのもたやすいが、あなたには為すことがあるはずだ」 「…………」  緑色に光る眼だけが、不気味にこちらをふりむいた。色や輝きだけではない。その奥に灯った飢えた感情が、野獣そのものを思わせた。 「なにをしろという」 「事が破れた上は、とりかえしはつかぬ。あなたが、心願を捨てるというなら、それもけっこう。だが、悔いたり他人を恨んだりする前に、まずは、あなたに賭けてここまで来た者へ、報いることを考えていただこう。このままここで朽ち果てるか、再起を期して退くか。どちらかを選ばれよ。ぐずぐずしていては、無駄死にするばかりですぞ」  いつもは存在を主張することもなく、無口なばかりと思われている棄才である。ここまで長いせりふを吐いたのを見た者は、おそらくほとんどあるまい。  沈黙が、彼らの頭上に落ちかかってきた。天空の太陽は、いまや黒い鏡のようになり、赤黒い光彩がその周囲をふちどっている。流星の乱舞は、まだ熄《や》む気配はない。  長い沈黙の回答は、流星とも日輪とも異なった光で与えられた。  羅旋とおぼしき人の形の手の中に、ほっと赤い炎が灯ったのだ。  これは、五叟のような術を使ったわけではない。小さな素焼きの器に埋めて携帯してきていた火種を、柴か麻幹《おがら》に移したのだろう。今夜の夜襲のために用意していたものを、羅旋はさらに小枝の束に移す。そして、さらに太い枝へ、炬《たいまつ》の束へと、徐々に炎を大きくしていったのだ。  手際がよかったこともあるが、全員、羅旋の意図がのみこめずに、ただたちすくむばかり。その顔面へむけて、怒声が飛んだ。 「なにをしている。火を移せ!」 「どうする気です」  今さら——という気もちが、なかったといえば虚言《うそ》になる。だが、尋ねながらも淑夜以下の全員が言下に、めいめいに用意していた炬の束に、羅旋の炬から火を移しにかかっていたのはさすがというべきか。 「ここまできて、一戦もせずにひきかえすのはしゃくだ」 「そんな、無茶な」 「勝算はある。この日蝕で混乱しているのは、むこうもおなじだ。どうせなら、それに乗じてやる」 「でも、たったこれだけの人数では、効果はありませんよ」 「心配するな。勢いにひきずられてあとに続く莫迦が、何人かはいるさ」  なるほど、このまま退けば、皆、ばらばらになる。だが、この暗さなら、炎がかえって合図にも目標にもなるだろう。いったん逃げた者が、ひきかえしてくる可能性もないではない。  それに加えて、淑夜の観測が正確で、望気《ぼうき》に信頼がおけるとして、そして〈征〉が兵を進めるとすれば、まちがいなく〈魁〉にむかってくる。とすれば、この地点を通ることはほぼ確実だ。巨鹿関が〈奎〉の要衝《ようしょう》であり命綱であるのと同様、この〈呂《りょ》〉国との国境、棘父《きょくふ》の塞も〈征〉には重要な中継地点であり、粮秣《りょうまつ》などの物資の集積地でもあるはずだ。それを焼き払い、〈征〉の進軍の速度をおくらせることは、かならずしも無駄ではないはずだ。 「下で残っている連中には、丁父、おまえが伝えろ。とにかく、巨鹿関の内へ逃げこめ。来た公路はとるな。ここから〈容〉をまわって、間道をぬけろ。なにがあっても、〈衛〉を通るなよ」  淑夜の顔が、白くひきしまった。この情勢の急変だ。往路は通過を許した無影だが、復路もまた、だまって通すとは考えにくい。淑夜でも、彼の立場ならそうするだろう。 「道すじは、尤家の傭車《ようしゃ》をやったものなら知っているはずだ。数人ずつ組になって、助けあえ。ただし、あまり大勢で行動するな」  的確な指示が、細かく、歯切れよく発された。つられたように、 「し、承知」  それまで、倒れたきりぴくりともしなかった丁父が、わずかに顔をあげて、それだけを嗄《か》れた声で応えた。 「支度は」 「できました!」  答えたのは、夫余である。あらかじめ牛の角にくくりつけた柴の束に、炎が近づけられ、最後の合図を待っていた。伝令もひとりふたりはしらせたが、準備のための怒号と炬の光とが樹木のあいだをぬけて伝わり、それと察したのだろう。逆に人の動く気配が、こちらまで流れてきた。  この場にいる者は、それぞれ自分の馬に乗るところだった。淑夜も、超光の手綱を取っていた。左脚を鞍《くら》にとりつけた鐶《わ》にかけるまでは、夫余に身体を支えさせたが、そこから先は自力でよじのぼれた。鞍の上での身体も、ここ数日の強行軍のあいだに慣れてきたのか、ずいぶんと落ちついてきている。  これならば、なんとか羅旋についていけるという、妙な自信が湧きあがってきた。戦の前の興奮が、そう思わせたのかもしれない。ぱちぱちと音をたてて燃える炬と炎の熱さ、それに赤く照らしだされる男たちの形相が、昨秋の戦の血の匂いを思いおこさせた。一瞬、起こったかるい吐き気を、彼は気力でおし殺した。ここでためらったり、忌避したりしていては、彼自身の生命がないのだ。とりあえず無影を殺すにしても、簒奪の理由を問いただすにしても、淑夜が生きていなければ話にならない。 「火をつけろ」  羅旋の命令に、一斉に反応が返る。天変と異変とで気がたっている牛を押さえ、炎を近づけるだけでも至難の業だ。が、羅旋の股肱《ここう》ともいうべき無頼たちは、難なくそれをやりおおせ、牛どもの首を一方向へそろえ、うしろから追いたてた。  一頭がすべり降りると、その後を追って他の牛が走りだす。ひとところから押し出すのを合図に、さらに別の一団が堰《せき》を切っておとしたように、わっとあとに続いた。  その真っ先に立っていたのは、追風にまたがり炬を右手に高くかかげた羅旋である。淑夜もまた、騅《あしげ》の手綱をさばいてその直後につづく。その口からは、だれのものともつかなくなった喚声があがっていた——。  同じころ。 〈衛〉の国都、瀘丘《ろきゅう》でも、日蝕にともなう混乱が起きていた。とはいえ、無影自身は予測していたことのように、いたく落ちつきはらっていたのだが——。 「なにほどのことがある。一刻もすれば、もとにもどる」  冷笑まじりに、つぶやいた。  だが、天変が天意であるという信仰は強かった。ちょうど国務にたずさわる者たちが退出する刻限にあたっていたこともあり、一国の| 政 《まつりごと》を動かす男たちがおそれおののき、うろたえるという姿が見られた。  明堂の無影の前にのこっていた人数は、さほど多くないが、それでもかろうじて腰をおちつけていたのは、ただひとりというありさまである。無影が笑うのも、無理はない。  もっとも落ちついていた細い口ひげの尹官《いんかん》(各署の長官)のひとりが、無影のことばを聞きとがめて、 「おことばながら、日輪がかくれるとは、これは〈魁〉王陛下の御身になにごとかが出来いたした証では。これは、一大事でございますぞ」 「なぜだ——?」  心底、不思議そうに無影は訊きかえした。 「なぜとおおせになりましても——」  口ごもる彼を、ひややかな眼が舐《な》めてとおった。その眼光と、左ほほにはしる傷痕とに出あって、尹官は身を硬直させる。  彼がその呪縛から解かれたのは、奥から小走りにあらわれた侍僮が、数語をとりついだからだ。 「主公。奥で——。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]君《しんくん》が、たいへんだとか。すぐ、おでましを、と」  長い衣の裾が、音もなくひるがえった。尹官をはじめとする、その場の者が顔をあげたときには、その姿は明堂から影のように消え失せていた。ほっと、安堵の吐息が刻一刻暗さを増す明堂の中にひびきわたったのだった。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》君——つまり、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫は院子《にわ》をそぞろあるいていたところで、この異変に遭ったらしい。 「べつに、害はない。なにを畏《おそ》れる」  雷ならば音や光におびえる気持ちもわからぬでもないが、ただ暗くなるだけのことに、なぜそれほど怯《おび》えるのか、無影には理解できないのだ。  とにかく、女あるじよりも侍女たちの混乱が大きく、無影はまず、そちらからなだめなければならなかった。後宮ともいうべき香雲台《こううんだい》は、多少の例外はあるが、原則として男子禁制である。恐慌にかられた女たちを制止できる者は、他にはなかったのだ。  無影は、慣れないことを長くつづける気はなかった。院子の池水のほとりでうずくまっている、ほっそりとした影を無影は抱きおこす。いつもならば顔をそむけ、あらがうそぶりをみせる連姫が、その余裕すらなく小刻みに震えるばかりだった。それに無影が、多少なりとも意地の悪い満足感をおぼえなかったといえば、虚言《うそ》になる。 「室内へはいれ」  その声に、袖の中から連姫の顔がちらりとあがる。だれがかたわらに在るのか、そこでようやく気づいたらしく、あっという表情を作ってみせた。いつも、珪《たま》を刻んだ仮面のような顔しか見せない彼女が、めずらしく感情を見せた一瞬だった。しかも、その直後にも、連姫の面にも態度にも拒絶のそぶりはなかったのだ。 「早く、中へ——」  連姫がうながされても動かなかったのは、恐怖で脚がすくんでしまっていたからだ。無影は細い肩を抱いたまま、強引に建物の方へひきずっていこうとした。  その前へ、侍僮のかかげる燎《かがりび》を案内として、黒い影がうずくまった。 「百来将軍よりの、急使にございます」  牙璋《がしょう》とともに、数枚の竹簡《ちくかん》を細い縄でまとめたものがさしだされた。百来が今、兵の一部を率いて駐屯している棗《そう》は〈衛〉の国内であるから、蝋丸のような厳重な機密保持の細工はほどこされていない。が、綴じた縄の結び目には、封泥がおしつけられ、百来の印がほどこされていた。  百来の太い筆跡で書かれた文字は、十数語にすぎない。  が、燎の光でその文字を読んだ無影の顔色が、あきらかに変わった。 「——淑夜が?」 『耿淑夜どの、棘父《きょくふ》の〈奎〉軍の内に在りという報あり』  男の声に、それまで無影の肩にうずめていた連姫の顔も、はっとあがった。声こそ出なかったものの、その紅いくちびるが、淑夜の名を呼んだのを無影ははっきりと見てとってしまったのだ。 「百来へ、伝えよ」 「は——」 「国境を開けて、〈征〉軍を通過させよ。すぐに援兵をさしむける。到着次第、南路をとって百花谷関《ひゃっかこくかん》へ向かえ。巨鹿関には手を出すでないと、な」 「かしこまりました」  若い伝令は、その理由を尋ねようとはせず、一礼しただけでそそくさと立ち去った。彼の役目は、それを正確に伝えることだけで、説明することではない。また、いちいち解説をくわえなくとも、たとえ無影の意図が理解できなくとも、百来はかならず指示どおりに行動するだろう。 「——〈奎〉にいたか」  竹簡を片手でもてあそびながら、無影はつぶやいた。肩先で揺れる連姫の白い顔が、蝕のうす闇の中でさえはっきりと見えた。 「今のところは、無事なようだぞ」 「わたくしに、何の、関係がございますの」  細い銀の糸のような声が、震えながらも紡《つむ》ぎだされた。顔色はもとから悪いが、気のせいか安堵の翳《かげ》が、わずかに眼もとのあたりにさしたように見えた。 「そうか。では、あやつが首級《くび》になってもかまわぬな」 「お討ちになるのですか……!」 「おまえに、関係はなかろう」 「——ございませぬ」  ふるえる唇《くち》から出たことばは、彼女のせいいっぱいの強がりである。それが、本心とは裏腹なことを知っているだけに、無影はいらだちをあおりたてられた。いや、たとえそれが連姫の本心であったとしても、やはり胸を棘《とげ》で刺されるような想いは変わらなかっただろう。 「安心するがいい。〈征〉が、巨鹿関をめざしている。〈奎〉は〈魁〉とともに滅びる手はずになっている。淑夜が〈奎〉に身をよせているなら、好都合だ。〈征〉公が、奴を討《う》ってくれよう。万一、百花谷関へ逃れ出る者があれば、そのときは百来の仕事となるだろうがな」 「……〈魁〉が、滅びる?」  白い顔が、三度目の激しい変化をみせた。 「〈征〉の手でな。一歩も二歩も先んじられていては、いたしかたない。今のところは、魚支吾にあずけておく。だが、奴では天下は長くは保つまい。すべては、それからだ」 「どういう、意味でございます。なにを……なにをご存知なのです」  連姫の問いには答えず、無影は天をふりあおいだのみ。  昏《くら》い空には、三日月よりも細い太陽が、鈍く輝いていたのだった。  ——そして。  その、おなじ黒い太陽のもとに、激しい鬨《とき》の声があがったのは、〈征〉の国都、臨城。 「これは、天意ぞ。〈魁〉に異変が起きたことを示すもの。われらは、不義を正すために〈魁〉へ赴くのだ」  館前の観台からそう叫ぶのは、〈征〉の将軍のひとり。ただ、そのことばは、主からそういえと命じられたことであり、彼自身、それを鵜呑《うの》みに信じていた。  彼のみではない。これから出征する兵士たちだけではなく、将軍位にある者たちの大半までもがそう、かたく信じていたのだ。 「予言どおりに、蝕が起きたな」  美々しい戦支度をまとった魚支吾《ぎょしご》が、背後にひかえた影に声をかけた。 「予言ではありません。起こるべくして起きる天体の現象を、申しあげたまでのこと。すべて、学問の成果です」  漆離伯要《しつりはくよう》の、いささか不機嫌な声がこだまのようにもどってきた。 「どちらでもよい。要は、どう乗じるかだ」  支吾にとっては、利用できるものであれば、天意でもなんでもよいのだ。  また、門前に鬨の声がひとつあがり、男の怒声がそれをうわまわる。 「——おそれるな。われらは義軍ぞ!」 「われながら、たいした偽善だ」  支吾は、自嘲気味に唇《くち》もとをゆがめる。  これは、天変に対する畏怖を、鼓舞へとふりかえる方便のひとつにすぎない。すべてを仕組んだのは、おのれ自身なのだ。それを知っているのは、彼自身と伯要のほか、ひとにぎりの人間にすぎない。 「では、お罷《や》めになりますか」  漆離伯要の静かな眼が、観察するように美丈夫の周囲にめぐらされる。 「いまさら、そういうわけにもいくまい」 「では、この道をお行きくださいますよう」 「うむ」  ひときわ大きくなった歓声とともに、燎が一斉に高く掲げられる。炎と人の熱気の中、昏《くら》い天の下へと、魚支吾は一歩、踏み出したのだった。  羅旋に、文字どおり口火を切られた火牛の群れは、意外にも多くの連鎖反応をひきおこした。  この蝕という思わぬ異変に、大半の兵が逃げ散ったと覚悟していたのだ。なかばは〈奎〉からの借り物、なかばは独立|不羈《ふき》の無頼ども。ふみとどまれと命じる者もなければ、逃亡しても厳罰が待つわけではない。にもかかわらず、混乱の中の目算ではあるが、用意した牛のほとんどが斜面をくだり降りているようだった。  淑夜は、超光からふりおとされないよう、羅旋のあとについて行くのがやっとだった。が、ただ、一度、肩ごしにふりむいてみた。炎で埋まったように見える谷あいが、下からその眼に焼きついた。  ——いくつもの炎が、斜面を雪崩《なだ》れおちていった。まるで、天上の流星に呼応するように、地上の星々もまた乱世へと隕《お》ちていこうとしていたのだった。      (三)  棘父《きょくふ》の小塞の炎上を、〈征〉公、魚支吾が知らされたのは、臨城を出発した、翌日の夜のことだった。  むろん、単身ではない。  周囲には、禽不理《きんふり》、漆離伯要をはじめとする側近たち。そして天幕の外には、十万という大軍が、彼をとりまいていた。 「やったのは、〈奎〉の手の者か、〈呂《りょ》〉か」 「〈呂〉ではございませぬ。〈呂〉の国主が、さっそくに弁明の使者をつかわしてきております」 「では、段大牙《だんたいが》か」 「報告によれば、〈奎〉の世子の兵、五千は、巨鹿関を守って一歩も出ておらぬ由」 「では、だれだ」 「さだかではございませぬが——」  いいにくそうに、報告をもたらした衛尉がことばを濁《にご》したが、支吾は最後までつづけるよう要求した。 「名もない無頼者が、一軍の指揮をとっていたと申す者がございます」 「名のない者など、ない」 「しかし、お耳にいれるほどの、人物ではないと存じます」 「それを決めるのは、われらだ。わからぬのなら、今からそやつに逢ってたしかめてくるがよい。たしかなことが報告できぬのなら、探索など不要だ」 「は、判明しております」  あわてて、若い衛尉は平伏した。 「羅旋《らせん》と申す、戎族《じゅうぞく》だそうでございます」 「赫延射《かくえんや》の小せがれか——!」  無念の思いが声にこもった。 「たしかであろうな」  支吾の周囲から、念をおす声がいくつも飛んだ。 「内部にまぎれこんでいた、細作《さいさく》の言にございます。一団のほとんどは、急遽かきあつめられた人足まがいの者ばかりで、軍というより、流賊の類に近かったとの報告もございます」 「賊、か」  支吾が、低くくりかえした。 「それが証拠に、棘父の塞を襲ったあと、奴らめはばらばらになって逃げ散っていったと申します」 「申すことは、それだけか」 「は——」 「まだ、申しのこしていることはないか」 「ございません」 「では、さがってよい。杖罰《じょうばつ》を受けてからな」 「そ、それは——!」 「わが国は法をもって立つ。くわえて、今は軍中である。軍紀に照らして、虚偽を申す者の罰はいかほどか、伯要」 「杖《じょう》、二十が相当かと」  即座に量刑がくだった。  他の衛士に両腕をとられて、しおしおと天幕を出ていく衛尉を、冷ややかな眼が幾組も見送った。どの視線も軽侮の色と同時に、ああはなりたくないという、うそ寒いものもたしかに含んでいた。法に照らしてすべてを裁けば、主君の好悪の感情やその日の虫の居処によって、刑の軽重が変わるおそれはない。が、法は、身分や地位に対する斟酌《しんしゃく》もしないのだ。非違があれば、ここに居ならぶ側近たちも等しく処罰の対象になる。  先ほどの衛尉の悲鳴が聞こえれば、首のうしろのあたりに心地の悪さを感じるのも、無理のないことだった。  支吾もまた苦い顔をしていたが、理由は異なっていた。 「——かるく見積ったな。伯要」 「今は、皆へのみせしめになれば十分。ここで兵を損なうのは、法の本意ではございません」  いいきって、しらりとしている。 「それよりも重要なのは、今後の粮秣《りょうまつ》の手配でございます」 「それは、通粮《つうろう》たるおまえの仕事であろう」  通粮とは、糧食の準備や輸送、保管、護衛にあたる役目である。後方の参謀の中でも重要な役は、通常、数人がつとめるものだが、今回、伯要はひとりでこの通粮をつとめていた。 「手配は可能です。ですが、行軍の予定が、数日遅れるのは、避けられませぬ。あらたに後方から、革車を仕立てるわけですから」 「糧食など、行く先で徴発すればよいことであろう」  戦をするのに、必要なものすべてを国元から運んでいくわけにはいかない。そのために、軍用路ともなる公路の要処要処の塞に、備蓄もしておくし、侵攻した先で補充をするのも、ほぼ常識となっている。  だが、反論があがるのを、伯要は微笑まじりの視線で受けとめた。 「われらは、義軍。なれば、進む先の民から食物を取りあげるような真似は、なりますまい」  さらりといいきった。揶揄《やゆ》の響きはいっさいなかったにもかかわらず、数人が、あてこすりを聞いたような渋面をつくった。 「どうやっても、遅れるか」 「実際の戦闘がないか、戦っても短期間で決着がつく見通しがあるのならば——」 「いや、無理はするまい」  支吾の決断は、早かった。 「ここで、功を急《せ》いてはなるまい。この状況下で、〈奎〉が巨鹿関《ころくかん》をおとなしくあけわたすとは考えられぬし、思ってもみなかったことが起きるのが戦というもの。用心をして、しすぎることはあるまい」  それはむしろ、側近たちに申しわたすというよりも、おのれのはやる心を鎮めようとするかのようだった。 「〈奎〉は、〈魁〉とともに巨鹿関の内に封じこめたも同然。急ぐことはあるまい。また、遅い方が、十万の軍を整然と保つこともたやすい。そのつもりで、遺洩《いろう》のないよう、支度は万全を期すように」 「は——」  伯要の細面が、かしこまって頭を下げる。その命令がどんな結果を生むのかは、彼らにも、また他の者にもまだ、知りようのないことである。 「あのとき——」  支吾の横顔が、唇だけをうごかしてつぶやいた。 「父親とともに、殺しておけばよかった」  それに気づき、しかも内容を読みとったのは漆離伯要ただひとり。そして彼も、それを声に出すことはなかったのだ。  姑洗《こせん》(三月)、初四日。  淑夜は、巨鹿関の内にはいった。むろん、羅旋も同時である。行動をともにしたのは、ふたりの他に徐夫余と壮棄才、もうひとり、馬の扱いにたくみな朱五《しゅご》とよばれる男との、五人である。  もっとも、このすこし手前から〈奎〉の支配内にはいっているため、処々で追いついてきた一団と合流し、巨鹿関の門をくぐったときには総勢、五十人ほどにはなっていた。 〈容〉から山中の間道をたどっての行程は、〈衛〉を通る道よりは危険は少ないとはいえ一瞬も気はぬけなかった。間道といっても、人より獣のとおる道にちかい悪路である。その上、いつだれが裏切るか襲ってくるかわからない。短い野宿のあいだ、だれかひとりはかならず不寝番に立っていたが、満足に眠れたのは羅旋ひとりぐらいなものだろう。 「よく、これだけもどってきたもんだ」  感心というより、呆《あき》れたようにつぶやく羅旋の表情にも、さすがに疲労の色はかくせない。伸び放題の髭《ひげ》もさることながら、またふりだした雨に打たれ、またどこからが泥だか顔だかがわからない状態なのだ。これは、淑夜もふくめ、ほかの者の姿も大差なかった。むろん、身だしなみどころか、水浴をする余裕などあるはずもない。 「不可抗力とはいえ、ろくに戦もせず効果もあげず、〈奎〉の兵も無事に連れかえれなかった。大牙に、なんといっていいわけをすればいいかな」  馬上で、ぼそぼそとひとりごちていた羅旋だが、弁明をするひまは、ついになかった。  彼らが関の内にはいるのと、さらに衝撃的な一報が大牙のもとへもたらされたのが、また同時だったのだ。 「羅旋——」  小規模ながら、観楼子《かんろうし》(物見|櫓《やぐら》)をかまえた門をくぐったとたん、大牙の顔が羅旋たちをふりあおいだ。数日ぶりに見る、〈奎〉伯の世子の若い顔は、しかし驚愕と混乱とに彩られていた。 「すまぬ——」  羅旋は、追風からなめらかな一動作で降りた。顔や衣服はどうあれ、その野獣のような身のこなしだけは、毫《ごう》も変わりはなかった。だが、口をひらきかけた羅旋を、大牙は動作でおしとどめた。とっさに、ことばが出てこなかったらしい。彼にはめずらしく自信なげな眼のうごきで、それと淑夜にはわかった。 「どう、なさいました」  夫余の手を借りながら超光から降りた淑夜がわりこんだのは、大牙のようすにただならぬものを感じたからだ。羅旋たちが敗走してきたことに怒っているのなら、顔を見たとたん、すくなくとも、底意のない罵声がふたつみっつは飛ぶはずだ。 「なにごとです、いったい」 「〈魁〉が——」  やっとのことでしぼりだした声は、むごくかすれていた。降り続く雨が、大牙の姿をもみるみる濡らしていく。その彼の陰に、もうひとつ、影がうずくまっているのを淑夜は見た。 「義京の封鎖と、王の幽閉は知っている。この上、士羽の身になにかあったのか」 「兄者の消息は不明だ」 「なんだと——!」 「それどころじゃない。陛下が、崩御《ほうぎょ》なされた。いや、弑《しい》された」 「……!」  一瞬、雷が落ちたかと、だれもが感じたにちがいない。音は、なにひとつしなかったにもかかわらず、淑夜の耳は大音響を聞いた直後のようにひりひりと痺《しび》れ、ことばをうけつけなくなってしまったのだ。  大牙の口がことばを形づくるのは見たが、なにを告げたのかはわからなかった。もっとも、大牙の方でも声にならなかったのかもしれない。 「——だれに、だ」  低い、腹にひびく声が羅旋のものだと気づいたのは、それから十年も経ったかと思うころだった。その声で、ようやく淑夜は夢から覚めた。いや、これもまた、夢ではなかろうか。 「冰子懐《ひょうしかい》に、で——」  羅旋に応えたのは、大牙の陰の人影である。泥の中に膝をつき面を伏せてはいるが、それでも小柄な身体つきは、だれとまちがいようもない。 「野狗《やく》」 「たった今——ほんとうにたった今、着いたばかりだ。俺も、まだくわしくは聞いていない」  大牙が、気のぬけたようにつぶやく。 「話せ」  大牙の眼を見、野狗の四角い頭を見おろし、短くひとこと、羅旋は命じた。 「冰子懐が、逆上して、王を……。祈晴《きせい》の儀の最中、刺客がはいりこんでいて、それで子懐を殺そうとしたもので……」 「待て。刺客が、子懐をねらった? 話があわんじゃないか」 「でも、そうなんで。おいらは、この眼で見てきたんだ」 「祈晴の儀に、なんでおまえが居あわせた」 「士羽さまが、王さまを助けだしたいってんで、お手助けを。でも——」 「くわしく話せ。最初からだ」 「へ、へい——」  野狗の話は、長いものになった。  まず、祈晴の儀の日取り、場所はすぐに判明した。天へむけての呪法や儀式をおこなうのは祖廟《そびょう》に於《おい》てと、どこの国でも決まっているからだ。  義京の祖廟は、七星宮《しちせいきゅう》の内城と隣接した外にある。ここもまた、ひくい城壁にかこわれているが、王宮内に潜入するよりはたやすいはずだ。  暁華の手配で、人も十分に集められていた。尤《ゆう》家の荷役を請け負っていた男たちが、城門の閉鎖と禁足によって屋敷内に幾人もたむろしていたのだ。その中から、腕がたって信頼のおける者をえらべばよかった。  手はずも、単純だった。  祈晴の儀の準備や護衛、儀杖のためには、兵卒が多く動員される。それにまぎれて、七星宮内にはいりこみ、儀式の最中に王の身柄を奪回する。逃げこむ先は、尤家。  むろん、尤家にはなんの権威も特権もないが、屋敷を守るだけの人手はある。しかも、中原有数の商家であり、子懐もまたその恩恵を承《う》けてきたひとりであるという事実が、多少なりとも効を奏するはずだ。 「こういう日のために、ふだんから金銀を使ってありますのよ」  とは、暁華《ぎょうか》の言である。  王を、永久にかくまいとおす必要はない。暁華が応対で、数日でよい、時をかせいでくれれば、そのあいだに野狗が導いて城外へ脱出させられる。 「子懐は、おのれを過信する性癖がある。こみいった策を弄するより、この方が、奴の意表を衝《つ》けるだろうよ」  そう、士羽はいったという。  計画の中心ともいうべき士羽は、しかし、直接には王奪回の人員の中にははいらなかった。ひとつには、冰子懐とその周辺の人間に、顔を知られているという理由。警戒のきびしい王の身辺に、うかつに現れるわけにはいかない。もうひとつには、これも幽閉されていた揺珠《ようしゅ》を救出する必要があったからだ。 「その姫《ひい》さまも、七星宮の中にいるとかで、どうしてもお救いするんだと、尤家の姐《ねえ》さんが——。それで、士羽さまは数人を連れて、そちらへ向かわれたんで」  相手が、まだ歳若い姫ということで、こちらは顔見知りの人間がいた方が、事がおだやかにはこぶだろうとの配慮である。軟禁の場所が後宮なら、士羽でも手はだしにくいところだったが、そこでは子懐もさすがに監視の目がとどきにくいと考えたのだろう。これも、好都合だと思えた。  祖廟内の指揮は野狗がとることになった。荒事は苦手な方だが、機をみる鋭敏さを暁華に見こまれたのだ。  潜入は、あっけないぐらい簡単だった。宮城に詰める兵士のほとんどは、異常事態を察して概して落ちつきがなかった。子懐も、それを承知して、王宮の警護におのれの随従を入れ、要処に配したのだ。自分の目と命令が届きやすいようにしたつもりだったが、皮肉にもこれで、宮城はたがいに知らない者同士が顔を合わせても疑われず、多少、挙動不審でもとがめられない状況になった。  七星宮の内部のようすは、士羽から克明に聞いていた。本職が夜盗なだけに、聞いただけで目を閉じても歩けるほどだった。とまどうこともなく、まんまと儀杖兵《ぎじょうへい》の列にまぎれこみ、祭壇の間近に立つことになったときは、事はなかば以上成功したと確信した。  儀式の開始を告げる鼓《こ》の音とともに、王があらわれたとき、野狗はがっかりしたという。眼のあたりがげっそりとおちくぼみ、脚もとがおぼつかないのは幽閉のためだとしても、姿勢は前かがみ、あたりを見る眼つきがおどおどと、これではまるきり処刑前の罪人である。まして、背後から侍宦《じかん》にうながされても、震えるばかりで一歩も動けず、ついには両脇からかかえあげられ、ひきずられてくるにいたって、畏怖どころか敬意をはらう気さえ失せてしまった。  野狗の目の前をとおりすぎた王は、ただの貧相な老人にすぎなかったのだ。これなら五叟老人の方が、まだましだと思ったという。  一方、祭壇の前で待ちうける太宰子懐にも、野狗は嫌悪感をおぼえた。彼がゆたかに太っていたからでも、美々しい衣装をつけていたからでもない。おおかたの士大夫の例にもれず、傲慢そうにそりかえっていたからでもない。 「——あれは人じゃない、|※[#「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1-84-28]《ぶた》です。いや、太ってるからじゃねえ、心底、卑《いや》しいんでさ。他人のものならなんでも欲しいんだ。欲しいとなったら、力ずくでも手にいれる。はいらなけりゃ、死ぬまで根に持つ。そのくせ、満足するってことを知らねえんだ。いつでも、がつがつしてるって眼でしたよ」  野狗の評は、手厳しかった。  それでも士羽や暁華の依頼を、ここまできて裏切るわけにはいかないと思うのが、野狗の奇妙に律義なところである。救出の機会をねらって、他の仲間と目くばせをしあっていたのが、ちょうど正午すこし前。  祭壇の前には、すでに牲《にえ》として割《さ》く牛が用意されていた。天頂に陽がかかったら、儀式が始まることになっていた。 「——そこへ、あの日蝕か」 「いや、騒ぎは、その直前にはじまったんで」  それは、一瞬のことだった。  祖廟の一角をかこむ低い城壁の上から、ぶんと弓弦《ゆづる》の音をたてて一本の矢が放たれたのだ。  なにが起きたか、とっさに察した者はいなかったはずだ。  子懐のほほを冷たいものが疾り、すぐに熱を持った。反射的にあてた手に、紅いものがついているのを見て、ようやく子懐はきゃっとひと声、女のようなかん高い声で悲鳴をあげた。 「追え!」  瞬時の空白のあと、色めきたったのは太宰家の従者たちである。つられて、儀杖兵と警護の兵の隊列が崩れる。城壁の射手はあっという間に姿を消していたが、それを追って、門へと兵の一団が殺到した。  絶好の機会だと野狗は思った。仲間への合図は、野狗自身が列から離れることだった。数人が、鉄剣を抜きはなって、あとに続いた。  が——。  それが、結果的に裏目に出た。 「こ、これは、どうしたことじゃ!」  金属に似た声でわめきたてながら、子懐はちょうど祭壇の下までたどりついた王を、数段のゆるやかな階《きざはし》の上からねめつけた。 「これは、陛下の御さしがねでございまするか。臣が、宮城へご還御ねがったのを逆恨みしての、ご所業でございまするか」 「よ、余はなにもしてはおらぬ」 「この宮城の者にご下命なされるのは、陛下おひとり。されば、この矢は、陛下のご指示で放たれたものに相違ございますまい。その、うしろの者たちも、臣の命を狙ってお引き入れになられた刺客でございまするか」 「余は、知らぬ!」  顔を真っ赤に染めて、子懐はわめきたてた。逆上した彼の耳には、王のよわい抗弁はいっさい通じない。その上に、子懐自身の手勢が、あるじの危難をまのあたりにして殺気だつ。自然、野狗たちの戦意もそちらへ向けられた。  冰子懐の疑念が、確信となった。 「そうでございましたか。それほど、臣は邪魔者でござい——いや、邪魔者だったか。臣に殺される前に、臣を殺そうとしたか。〈征〉への勅書の件といい、よくもよくも」  その丸みのある指に、剣の柄が握られた。ふとり肉《じし》の体躯には似つかわしくない、なめらかな動作だった。その意外な身のこなしには、身軽さが身上の野狗が目をみはったほどだ。が、やはり、飛びおりたというより、転がったという方がふさわしかっただろう。  階の、上から下へ、子懐の黒い長衣の裾がひるがえったと見るや——。 「……声をあげる暇もなかった。あいつに、剣があつかえるなんて思わなかった。たしかに、油断してました。いいわけはしたかねえが、頭領だってあの場にいても間にあわなかったにちがいねえ」  実際、子懐が斬りつけた傷は、たいしたものではなかった。剣の重みでねらいが逸れて、王の細い肩先に当ったのだ。そこで、剣は止まった。鉄剣は鋭利で強靭だが、銅剣と同様、おもに突くものであって斬るものではない。王も傷は受けたが、致命的なものではなかった。 〈魁〉王、夏長庚《かちょうこう》の命を直接にうばったのは、その場に敷きつめられていた砌《みぎり》だった。  斬られた衝撃を、弱った体は受けきれなかった。よろめき、あおむけに倒れたはずみに、頭を激しく打ちつけたのだ。 「——!」  瞬間、野狗はすべてが無駄に終わったことを直感していた。王は、悲鳴すらあげなかった。ただ、宙をつかむように曲ったままこわばった両手の指とうつろに見ひらかれたままの王の眸が、結末をはっきりと示していた。悔いている暇も、またあわてている余裕すらなかった。子懐の護衛が、おめき声をあげて、野狗たちに雪崩《なだ》れ降りてきたからだ。 「逃げろ——!」  迷うことなく、野狗は命じた。戦っても、けがをするだけ無駄である。また、ふみとどまって戦うだけの意地や義理をもっている者も皆無だった。声とともに、ぱっと蜘蛛《くも》の子のように逃げ散る。こういう場合、同様の身装の衛士たちが、混乱の極みにあったのは好都合だった。  それからあとは、ただ夢中である。なすすべもなく、野狗はいっさんに逃げかえることしかできなかった。  ただ——。  逃げまどう衛士たちにまぎれながら、背中に狂気じみた声を聞くだけの注意力は、野狗にもあった。 「——蝕じゃ、日蝕じゃ!」 [#挿絵(img/02_189.png)入る]  なかば以上、黒く染まった太陽が天頂に輝くのを、野狗も見た。 「王は死んだ。これは、天意じゃ。〈魁〉は滅んだぞ。わしが、王じゃ! この、冰子懐が王になったぞ——!」 「——何度も何度も、おなじことを、狂ったみたいにわめきたててました。おいらは、もしかしてこれは、五叟のじいさんの術じゃねえかと、ふっと思ったりもしたんです」 「そうじゃなかったというわけか。そういえば、五叟はなにをしていた」 「五叟のじいさんは、士羽さまといっしょに行ったんです。太医《たいい》に化けて、姫さまのところへ——。あんな術なんか、使うような手はずにはなってませんでしたし」  たとえ、五叟の術であったとしても、王が崩御してしまっては、なんの役にもたたない。しかも、混乱にまぎれて尤家へ逃げかえったものの、士羽の一行がもどってこない。さがしに行こうにも、冰子懐がたてこもった七星宮はかたく城門をとざし、内城の城壁の上には、夜にはいって燎《かがりび》と歩哨を数丈ごとに置くという厳警ぶりである。これでは、さすがの野狗もしのびこみようがない。  ことの顛末を、青城と巨鹿関に報らせるのが先決と判断したのは、暁華である。依然、閉ざされたままの義京を抜けだせるのも、野狗だけだった。 「もうひとり、若いすばしっこいのを連れて、やっとのことで——。そいつは、青城へ知らせにやりました。今時分は、〈奎〉伯の耳にも……」  ——耳に痛いほどの沈黙が、雨とともに彼らの髪の上からふりかかってきた。 「親父どのが……、なんと嘆かれるか」  奥歯が、ぎりっと鳴る音がした。大牙だった。 「兄者まで——」 「まだ、どうなったと決まったわけではあるまい」  羅旋が、胸の前の腕組みのあたりから、ひくく響く声で反論する。 「苦境にあることは、たしかだ。——俺がいけばよかった」 「いうな」  びしりと、ふたたび雷のような声が大牙をさえぎる。 「俺に、指図をするな」 「繰《く》り言をいうなといっている。後から、ああすればよかったというのは、簡単だ。だが、起こってしまったことを、今さらどうする。俺は、これからおまえがどうするかを聞きたい」 「——これから?」 「おまえに命じてもらわねば、俺たちはうごけん」 「こんなときに、決めろというのか!」 「こんなときとは、どんな時だ」  大牙は声につまって、羅旋の顔を正面からにらみすえた。一方、羅旋の両眼は深い翠色にしずんだままだ。が、大牙がぶつけてくる激しい感情を、はねかえすだけの力勁《ちからづよ》さはこもっていた。  大牙の両腕が、両脇と胸のあたりを二、三度、上下した。太い眉をはねあげて、今にもつかみかかりそうな勢いに見えた。淑夜と野狗、それに夫余は、どうしたものかと息をのむ。双方ともに、人なみはずれた腕自慢である。ふたりが組みあった場合、数人がかりでもひき離せるかどうか。淑夜など、まだ衝撃から立ちなおれない頭の片隅で、もし喧嘩になったら割ってはいるかそれとも逃げた方がいいかと、うっすら考えていたくらいだ。  ただ、壮棄才ひとりが無表情なままで、じっとふたりの顔をみくらべていた。 「ここは……動けぬ」  大牙の口から声がしぼりだされたのは、数瞬のちのこと。 「親父どのの命令がなければ、勝手に離れられぬ」 「子懐が義京を思いのままにするのを、手をこまねいて見ているのか」 「真っ先に飛んでいきたいのは、俺だ! 兄者の行方が知れぬのだぞ!」 「ならば、すぐに義京へ直行するべきだ。それとも、ここで〈征〉の十万の大軍につぶされるのを待つか」 「〈征〉——? 魚支吾が、動いたのか。たしかか」  大牙の眉が、またはねあがる。気のせいか、雨気にまじって、霧のような気配が彼の身体からわきあがった。 「たしかだ。淑夜が気を読んだ上に、臨城へもぐりこませてあった奴と、ここの手前で運よく落ちあえた。支吾は十万の兵を率いて、こちらへむかっている。理由は、太宰子懐の無道を懲らすためだそうだ」  おもてむきの大義は、そうだろう。だが〈征〉が、つい先日、抗議をつきつけたばかりの〈奎〉を素通りして〈魁〉にむかうとは考えにくい。よくて、通過の際に難癖をつけてくるのは、目に見えている。だが、支吾の無理難題におとなしく従えるぐらいなら、〈奎〉にしろ夏氏の国々にしろ、最初から〈征〉の動静を黙認している。 「だが、まさか十万とは。誇張しすぎだぞ。俺をおどすつもりなら、その手は——」 「いえ、ほぼ、数にまちがいはありません」 「淑夜?」  だまってふたりの応酬を聞いていた淑夜だが、だまっていられなくなったのだ。 「もどってくる途《みち》すがら、換算していたんです。以前からの〈征〉の内情、それにこの冬、尤家をはじめとする各地の商人に発注した武具の数——量から逆算して、ゆうに十万の軍に匹敵します」 「しかし、こちらの五千の兵では、義京を討つには足りぬ。青城にのこる軍をかきあつめても、全部で一万とすこし——一万五、六千がやっとだ。だが、巨鹿関でなら、小勢で大軍を食い止めることはできる」  羅旋が、ゆっくりと首を横にふった。 「去年のことをいっているなら、同じ手は通用せん。俺なら、最初から十万の軍を何組にも分けて、何度も攻撃をかける。人や武器の消耗を考えれば、人数のすくない方が負ける。こちらは、補給も補充もない上に、背中に子懐という敵をかかえているんだぞ。その上、和議の仲介をするべき〈魁〉王家は、もう地上にはないんだ」  羅旋のことばが、あらためて雷のように人々の面を撲《う》った。  三百年続いた〈魁〉が、滅んだのだ。  ほとんどの人間が考えていたよりもはるかに早く、あっけないほどのもろさ、はかなさだった。 「今はまだ、子懐は興奮して、義京を内側からかためることしか考えていない。だが、時を置くと冷静になる。そしたら、〈征〉か〈衛〉と結んで、まず、〈奎〉をはさみ討ちにかかるぞ。奴が王を僭称《せんしょう》するために、一番の障害になるのは〈奎〉伯だろう」  歴代の通婚で血統も近く、封国も接しているうえ、喉もとともいうべき要衝を押さえている。 〈魁〉王亡き今となっては、だれにとっても目ざわりな存在かもしれない。 「——どう、すればいい」 「はさみ討ちを避けるには、義京を抜いて、百花谷関から外へ出るしかない」 「それは——〈奎〉を、この領国を捨てろというのとおなじだぞ! つまり、みずからの手で滅ぼせと——!」 「そうだろう。俺も、そのつもりでいっている」  大牙の両眼の中に、火花が燃えあがった。目にもとらえられぬ速さで、右腕がふりあげられる。大牙の背後に、すこし離れて控えていた〈奎〉の甲士たちが、羅旋の声にどっと色めきたつ。もっとも早く反応した野狗が、腰をうかした時には、大牙の握り拳は羅旋の鼻先にまでとどいていた。  が——。  羅旋は避けようとするどころか、腕を深く組んだまま、ぴくりとも動かない。そして、大牙の拳もまた、羅旋の顔面、すれすれのところで、ぴたりと停止したのだった。 「……本気か」 「おまえひとりだけでも、生きてさえいれば再起の時も来る。——なあ、淑夜?」  さすがに血の気のひいた面で、しかし、淑夜ははっきりとうなずいた。彼もまた、ないはずの命を羅旋に救われ、再起を心中深くに期す身だった。生きようと決心したのは、奇しくもこの巨鹿関の山中ではなかったか。  大牙の視線が射るように、淑夜の方へ向けられる。 「親父どのが……なんというか」 「反対はするまい。あのご老人ならばな」  羅旋のせりふは、妙に確信に満ちていた。 「しかし——」 「まだ、なにかあるのか。未練がましい奴だな」 「巨鹿関を、どう守る。千やそこら、守備に残してももちこたえられまい」 「だれが、残すといった。全軍、義京に向かわせろ。でなけりゃ、義京は抜けん。士羽を助けることも不可能だ」 「無抵抗で、支吾を通すのか」 「それが癪《しゃく》なら、ひと泡ふかせてやるか。策はある」 「どうするんだ」 「のるか」  まるで、悪童がいたずらに誘うような口調だった。  回答のかわりに、大牙の拳がゆるやかにふり降ろされた。 「——いつか、殴らせろよ」 「おまえが、生きていたらな」  緑色の両眼が、今日はじめて、陽気そうにひらめいた。いつのまにか小止みになった雨足のあいだから、うすい陽光が音もなくこぼれ、淑夜たちの上にふりそそいだ。 「問題は、どうやって義京を攻略するかだな」  陽光へむかって、額にかかる濡れた髪をかきあげながら、羅旋がうそぶいた。 「時はなし、人手はなし。攻城のための大がかりな道具はなし。五叟のじいさんも、いないとなると、これは大事になるな。さて、どんな手をうってやろうか——」 [#改ページ]  第四章————————死戦      (一)  太宰子懐《たいさいしかい》——いや、いまや〈魁〉王と自称しはじめた冰《ひょう》子懐は、得意の絶頂と恐怖のどん底とのあいだを、往復していた。それも、たった今、七星宮の大殿で文字どおり胸をそりかえらせていたかと思うと、次の瞬間には奥殿へかけこみ、一室にとじこもって顫《ふる》えるという具合である。  彼とて、莫迦《ばか》ではない。これが、周到に計画した結果であれば、ここまで狼狽《ろうばい》することはなかったかもしれない。だが、王の死は、偶然の産物だった。子懐が直接、手をくだしたわけではないが、彼が与えた一撃がひきおこした不測の事態である。彼が殺したわけではないことは、多くの者が見ている。だが、王の死に責任があることもまた、多くの者が知っていた。 (そもそも——)  人気のない室内で頭をかかえながら、子懐はいっこうに整理のできない思考を、けんめいに解きほぐそうとしていた。 (あの矢は、だれのさしがねだ。王に、刺客を雇う機会はなかった。寿夢宮《じゅぼうきゅう》に在ったころならばともかく。いや、そうだったかもしれない。離宮から命令を出して、俺の命をねらっていたにちがいない——。だが、待て。七星宮に連れもどされるなど、予想もしていなかった奴に、あの場で俺を殺せと指定することなど、できぬはず。では、だれだ——)  一歩、推論のわき道へふみだせば容易に真犯人にたどりつくものが、興奮している時とはそんなものだろう、無益などうどうめぐりをするばかりだった。  祖廟で、みずから王だと宣した直後、子懐は太学《たいがく》の学者たちに命じて、先王たる夏長庚《かちょうこう》の諡号《しごう》を『衷王《ちゅうおう》』と定めた。『衷』には、まこと、偏らないという字義のほかに、中ほど、適当という意味もあった。長くもない一生を、実権をにぎる太宰子懐と〈征〉公の顔色をうかがうことで費やした王には、ふさわしい諡《おくりな》だといえた。  が、葬儀をとりおこなうとなると、そう簡単ではなかった。本来なら、諸国にむけて喪を発するべきなのは、太宰たる子懐がだれよりよく承知している。だが、各国が冰子懐を王と認める可能性のうすい状況では、諸侯列席の上で礼にのっとった正式の葬儀などのぞむべくもない。また、子懐にとっては七星宮と義京の守りをかため、まず、都の廷臣の支持をとりつけることが先決だった。もともと、太宰家はここ百年ちかくにわたって、〈魁〉の実権をにぎりつづけていたため、今さら異議をとなえる者はないはずだったが、さすがに動揺の色がかくせない者も多い。その動揺を最小限度におさえるため、王の遺体はとりあえず祖廟内に安置されたままとなり、護衛に立つ者もなかった。  だが、先の君主の大喪《たいそう》をおこなわなければ、順序として、次の君主の即位式もない。あるじを臣下が弑《しい》したこと自体、法も礼もないのだが、子懐はそのあたりにこだわっていた。たとえば、先年、〈衛〉の耿無影が先公を弑逆におよんだが、無影はそ知らぬ顔で公の葬儀を主催したという。それがすべての決め手ではなかっただろうが、彼の公位をなしくずしに承認させる遠因になったのも事実である。  だが、無影には、それなりの覚悟と準備と、胆力があったはずだ。ひきかえ、今の子懐には、そのどれひとつとしてそなわっているものはない。  調度のすくない、がらんとした室内でひとり考えこんでいると、ますます気がめいってくるのが自分でもわかった。ここは、歴代の〈魁〉王の居室だった。ただし、衷王と子懐が名をおくった夏長庚は、ここではほとんど暮らしておらず、遺品もろくにない。品物だけではない。王后は早くに亡くなり、子も孫も、血縁といえる者はほとんど残されていない。 (この座を要求する奴が、中原にいるとすれば)  まず、もっとも〈魁〉宗室に近い、〈奎〉伯の親子。これは同姓の氏族というだけでなく、二、三代前の〈奎〉伯の正夫人に、〈魁〉王の公主が降嫁している。それから、真実ではないが、〈征〉公、魚支吾が、王の異母弟ではないかという噂を以前から利用したがっていたことを、一味ともいえる子懐は承知していた。それから——。 (〈琅《ろう》〉公)  彼自身がその手で太子の座から追いおとし、衷王に殺させた、衷王の弟、その娘の子が、今の〈琅〉公である。女系の子孫の相続はみとめられていないとはいえ、まったくの他姓の子懐が王位を襲うよりは、正統性があると思う者もあるだろう。 (問題は、あの小娘だ)  先の王太孫妃、玉公主と異称される揺珠は、〈琅〉公の実妹でもあった。 (この七星宮の中で、俺にたてつく、唯一の——)  揺珠を子懐は、衷王を幽閉するのと同時に、王宮の一角に建つ高楼に移していた。むろん、外には厳重な監視兼護衛をつけてである。生前の衷王に懇願されたせいではないが、とりあえず子懐は、揺珠には関心がなかった。当座の食料は、楼の中にあるはずだった。あるじ不在の七星宮の建物のほとんどが、こういった保存食や布類などの倉庫として使われていたからだ。そのうえに、数日分の水を与えたきりで放置しておいたのは、特に虐待する気もなく、また利用する意図もなかったからだ。  ところが、である。王の崩御を聞いたとたん、揺珠は逆に、どう扉に細工をほどこしたものか、高楼の中にたてこもってしまったのだ。脅してもすかしても、出てこようとしない。おそらく、王の次は自分だという恐慌にかられたのだと、子懐は見た。だからこそ、好きなようにさせておくことにした。女に甘いというより、女ひとりになにができるとたかをくくっていたのだ。  ともかく、揺珠にここで害を与えるのは上策とはいえなかった。  害するどころか、かすり傷ひとつ与えても、〈琅〉公がだまってはいるまい。幼いときに引き離された兄妹だが、〈琅〉公、藺珀《りんはく》、字《あざな》を孟琥《もうこ》という若者が、なにかにつけて妹に気を配ってきたのを、子懐はその立場上、知っている。何度か上都してきたときには、かならず面会を求めてきていた。〈琅〉を敵にまわせば、即座に百花谷関から侵入される。  が——。 (ものは考えようだ)  揺珠が手のうちにあるかぎり、〈琅〉公は〈魁〉に——つまり、冰子懐には手はだせない。〈琅〉は辺境の、いってみれば数代かけた成り上がりで、国力もきわだって強大というわけではないが、まがりなりにも公国だ。それを味方につけられれば、やがて、ほかの国も徐々に靡《なび》いてくるのではないか。なんといっても、〈魁〉は中原の中心だ。 〈奎〉伯がどういおうと、魚支吾がなんと主張しようと、義京の、七星宮を占拠する彼、冰子懐が華の真の支配者なのだ——。  次第に高揚してくる胸をおさえて、子懐はよろよろと立ち上がった。ここのところの過度の緊張と、不規則な生活のため、皮膚が黄色くたるみはじめていた。こんな風に、狂躁《きょうそう》と陰鬱とが、一日に幾度となく交替をくりかえすのだ。身体のみならず精神までもが疲れ荒廃していくのが、おのれにもわかるのだが、制御はできなかった。これで荒淫《こういん》にはしらなかったのは、単に七星宮の後宮には、めぼしい女がほとんどいなかったためである。あらたにかりあつめる余裕もまだ、なかったのがさいわいだったのか不運だったのか。 (俺は王だ。やっとのことで、手にいれた座だ。ほかの奴になど、だれが渡すものか)  これだけは、肌身はなさずもっている、錦の袋を子懐はにぎりしめた。衷王を寿夢宮《じゅぼうきゅう》からつれだした際、王から奪いとった玉璽《ぎょくじ》である。これさえあれば、詔書など、何枚でも発せられる。だれであろうと、その権威の前には抵抗できないはずだ。  彼自身が、その権威を根底からくつがえしてしまったことを、子懐は理解していない。たとえ気づいたとしても、認めようとはするまい。 「だれか——、だれか、在るか」  回廊へ、脚をもつらせながら、ころがり出る。呼んでも、即座に応答がもどることは、めったにない。側近の者は、子懐の混乱の度合いのひどさに、呆れるというよりはとばっちりを受けるのを避けて、なるべく身辺に近づかないようにしているからだ。  そうなると妙なもので、おのれの権力を誇示したくなる。それまでしぼみきっていた胸が、ふいごで空気を送りこまれたようにふくらんでくるのが、自分でもわかった。 「おらぬのか、この——」  悪態をつこうとしたとき、回廊の柱の陰をぬって、宦人《かんじん》が小走りにあらわれた。 「呼んだら、すぐに——」 「一大事にございまする!」  ふだんは、なにがあっても顔つきを針ほども動かさない、奥づかいの宦人である。それが息せききらせ、蒼白な面をしてはたりとひざと両手を同時につき、子懐のせりふをさえぎった。 「せ、攻めてまいりました」 「だれがじゃ」 「〈奎〉伯にございます」 「来たか」  そこまでは、予想どおりだ。 「数は」 「衛士の長の申すところでは、一万あまりとか」  ほっと、子懐は胸をなでおろした。 「たったそれだけで、この義京を攻めきれるものか。囲まれたところで、城壁を越えて侵入されぬかぎり、中の者は安泰。うろたえるな」 「そ、それが——」 「なにごとじゃ」 「その、城壁が、城壁が……」  歯の根もあわぬぐらいに、小刻みに震えているのに、子懐はようやく気がついた。 「城壁がどうしたというのじゃ!」 「み、水が——」 「ええい、はっきりと申さぬか!」  平伏した宦人の衿がみをわしづかみにして引き起こしたが、相手はよほど気が動転しているのか、ほとんど気死しかけていた。  これは話にならないと、子懐は相手を力まかせに突き飛ばした。その身体が柱の一本にあたって、ぐきりといやな音をたてたが、かえりみる余裕はすでにない。子懐は太り肉《じし》の体躯をぶつけるようにして、表の殿宇へと躍りでていった。  義京の外郭の城壁は、おおざっぱにいえばほぼ方形だが、実際には地形の関係上、かなり歪《ゆが》んでおり、また高さも一定ではない。もっとも城壁が低いのは東南の一角で、そのかわり濠《ほり》が深くなっていた。  その東の城壁沿いに、〈奎〉の軍が姿をあらわしたのは、姑洗《こせん》(三月)初七日のこと。暦の上では季春にはいっているのに、天候はいっこうに安定せず、いつまた、雨がふりだしても不思議のない空模様だった。  このために、義京付近の川は増水しており、そこにつながる義京の濠も同様だった。が、東南のこの一角の濠だけが満水になっているのは、天候ばかりが理由ではなかった。 「まだるっこしい」  と、ひとこと、つぶやいたのは、大牙である。その鉄の小札《こざね》をつらねた美々しい甲冑も、今は泥にまみれて見るかげもない。ことに泥のこびりついた手から二の腕の披甲《ひこう》を、ことさらにそらせた胸の前で大きく組み、彼はもうひと声なにごとか、低くうなった。満々と水をたたえた濠の、外から見あげる義京の城壁は、思っていたより遠くにあるように感じられたのだ。 「こんなことで、陥とせるのか」 「要は、一箇処でいい、壁がくずれればいいんだ。城内へ入りこめれば、数は問題じゃなくなる」  甲以外は大牙とそっくりおなじ姿勢の羅旋が、この場には似つかわしくないほど陽気な声音で答えるのを、淑夜はさらにそのかたわらで聞いていた。  攻城の要《かなめ》は、攻める側が内部に入れるかどうかにかかっている。そのためには、城門を開かせるか、また城壁を登るか壁より高い櫓《やぐら》を組んで、のり越えるか。さらには地下を掘りぬくか、いっそ壁自体を壊すかである。  黄土を築《つ》きかためた城壁は、その厚さからいっても、平常ならば容易に破壊できるしろものではない。だが、さいわいというべきか、この気候不順の雨つづきである。水分は、壁の内部のかなり深いところまでしみこんでいる。たっぷりと水を吸った城壁は、かなりもろくなっているはずだった。  さらに、基底部をもろくし崩しやすくするために、羅旋たちは細工をほどこした。  瑶河《ようが》へ流れこむ支流のひとつで、この義京へ水を分けている瀟水《しょうすい》という川がある。その分水口のすぐ下流に、急ごしらえの堰を作った。当然、水は義京の方へ流れはじめる。城壁をくぐって城内へ水を引くための水路は、昨夜一晩かかって、逆に外から封鎖した。同時に、濠の内部にも土嚢《どのう》をつみあげて水を堰《せ》いて導き、この東南の隅だけ水嵩が増すようにしたのだ。 「——この箇処は一番壁が低いうえに、うすくできている。以前から大きな亀裂があったが、まだ、補修されていないはずだ」 「そんなことを、何故知っている」  羅旋のはったりだと疑ったのかもしれない。大牙は、この計画を説明されたときに、そういってくってかかった。城壁の構造や弱点は、その城邑の最大の機密である。 「俺の親父が、〈魁〉に仕える将軍だったのを忘れたか。中原の主だった城邑の長所、弱点は、あらかた知っているぞ」 「もしかして、青城のもか」 「あたりまえだ。条件さえととのえば、三日で陥としてやる」 「——とんでもない奴だ」 「なにを、今さら」  いつもなら、間のびした笑顔でふたことみこと、冗談口をたたくところを、羅旋はいつになく真顔で話していたものだ。  それが、今の淑夜の胸には、なぜか深くささった棘《とげ》のようにひっかかっている。 「いつまで、こうして見ていなければならぬ。一気に攻めにかかっては、いけないのか」 「何度おなじことをいわせる。兵を無駄死にさせたいなら、そうしろ」  いいながら、羅旋は顔だけをわずかにうごかして、背後をうかがった。ふたりからかなり離れたところ、声の聞こえないあたりに、車が一両止まっている。戦車ではなく、屋根と側面と窓のある温涼車《おんりょうしゃ》である。この中には、〈奎〉伯、段之弦《だんしげん》の病身があるはずだった。  巨鹿関から青城へ走らせた使者は、大牙のもとへ意外な返事をもたらした。大牙が巨鹿関を離れるより前に、老伯はのこっていた全軍を率いて義京にむかったというのだ。しかも、巨鹿関は放棄せよと、羅旋の策どおりの指示までがついてきた。  昨日の夕刻に、伯の軍に追いついた羅旋は、老伯を説いてこの水攻めを承認させている。というより、他に策はなかったのだろう。久々に顔をあわせた老伯は、淑夜がおどろくほど痩せおとろえていたのだ。以前からの病のせいも大きいが、ここ数日の事態の急変がよほどこたえていたようだ。 「若い者にまかせる」  老伯はいい、 「悪いようにはしない」  と、羅旋が請けあった。ひとり、大牙だけが焦《あせ》る気持ちをおさえきれず、いらいらと羅旋にくってかかっては、冷たくいなされていたのだった。 「焦るなという方が、酷だ。兄者の生死さえさだかではないというのに」 「無事だ。安心しろ」  と、羅旋の答えは気をくじくようにそっけない。 「なぜ、わかる」 「士羽は慎重な奴だ。揺珠どのの安全を、一番に考えて手間どっているだけだ」 「野狗がいったことなど、あてになるか」 「失敗したのなら、そうと噂がたつ。いや、子懐のことだ。今時分は城内の奴らへのみせしめのために、どこかへさらしものにしているはずだ」  早耳の野狗ですら、一片の情報すらつかめなかったということは、すなわち冰子懐にも士羽の行方は知られていないということ。 「五叟のじいさんがついている。心配するな」  あまり頼りになりそうにもないことをいって、羅旋は眼光を躍らせる。 「だが——、それにしても、悠長すぎる」  大牙も背後をふりかえったが、その視線はさらに遠くを見ている。 「今日、明日にも、〈征〉が巨鹿関へ雪崩《なだ》れこんでくるかもしれんのだぞ」  棘父の地で散りぢりになった兵を収容するためもあって、巨鹿関は開けたままになっている。関の維持と兵の回収のために、三十ほどの人数を残してきただけで、これは平時の守備よりもはるかにすくない。十万の軍を相手に戦になるはずもなく、〈征〉軍の姿が見えたらすみやかに逃げよと命令してある。 「心配、いらん。支吾がここまで来るには、あと十日はかかる」  羅旋はきっぱり断言してから、ようやく、そこにいるのに気づいたという風に、淑夜の上に目をとめた。 「棄才の方は、どうなっている」 「順調に。明日の午後には、三基できあがると聞いています」  杖を持ちかえ、足場を慎重に変えながら淑夜は報告した。満足そうに、鼻が鳴っただけだったが、それで妙に落ちつくのを淑夜は感じた。この男が心配要らぬというのなら、そのとおりなのだろう。  淑夜も、大牙の不安は痛いほど理解できる。くどいほど説明もされ、道理にかなっていると納得はするのだが、もしも万が一という疑念があとからあとから湧いて出るのだ。だいたい淑夜自身、羅旋に要求されて、苦しまぎれに考えだした水による攻城方法がうまく運ぶか、疑問に思っているところなのだ。ただ、羅旋がこうしてどっしりと構え、しかもいつもとかわらず陽気なのを見ると、淑夜や彼の手勢の無頼たちばかりでなく、〈奎〉の兵たちまで気持ちが大きくなってくるらしい。義京をとりまいている〈奎〉の兵たちの表情も、こんな状況にしては概して明るく、笑い声さえそこここからあがっていた。  そのざわめきが不意に、ひときわ高く、どっとふくれあがったのは、羅旋がしずかにうなずいた直後だった。 「あれを——!」  いぶかしげな声が、やがてかるい驚きの響きになる。同時に、城壁の上でも衛士が忙しく走りまわり、人数が増える。彼らが手にした武器が、弱い陽光をはねかえしてにぶく光る中、あきらかに武人ではない姿が、女墻《じょしょう》のあいだから見えかくれしていたのである。 「おい!」  大牙がまず、その正体に気づいた。さすがの羅旋の表情にも、緊張がはしる。 「子懐か」 「まちがいない」  眼のいい羅旋の方が、うなずいた。急を聞いて、城壁のありさまを、みずからの目で確認にきたのだろう。 「やるか」 「ふむ」  それだけのやりとりで、同時にふたりは背後をふりむき、 「弓」  ひとことだけ、命じた。  即座に、弓が二張、矢を添えてさしだされる。大牙愛用の、赤い箭に青い羽をとりつけた、鉄の矢である。それをふたりとも無雑作に弓につがえ、かるくひきしぼった。  ただし、かるく——というのは、あくまで外見上のことである。この弓は、十五|石《こく》——つまりそれだけの重量をかけて、ようやく引ききることができるほどの、きわだった剛弓なのである(一石=約二十六キロ)。ふつう、戦に用いられる弓は十石程度だから、かなりの剛弓である。また、弩《いしゆみ》の方が射程も長く、強力なのだが、ふたりともわざと弓を選んだのは、見物人に対する効果を考えたのだろう。  ふたりが矢を放つのも、ほぼ同時だった。ろくにねらいもつけず、まるで速射を競うようにさっと射了《いお》えてしまった。  あ——という声は、まず、〈奎〉軍の中からあがり、次いで感嘆とも悲嘆ともつかぬ喚《おめ》きが、城壁の上から降ってきた。  二本の矢は虹のような軌跡をたどり、いったん城壁の上空へとかけ昇るや、子懐とおぼしき黒衣の人物の背後すれすれのところへ、まったく同時に落下したのだ。落下といっても矢勢に衰えはなく、金属の鏃《やじり》は城壁の磚《せん》に深い傷を穿《うが》ったという。女墻のために下からは直接ねらえないことを考えれば、これは人間ばなれした技量であり膂力《りょりょく》であった。  もっとも、それらはすべて、後になって聞こえてきたことで、その場では、二本の矢が目指す相手の心胆をふるえあがらせたことだけしか、わからなかった。きゃっという悲鳴が、淑夜たちのところまで聞こえてきたようだったが、これは気のせいだったかもしれない。  とりあえず、子懐の姿が城壁の上で硬直し、あおのけざまに倒れるのが、下からも見えた。また、衛士の群れがどっと一点へむらがり、やがてなにやら重そうなものをかきあげてあたふたと走っていくのも、手にとるようにのぞめた。遠目にも丸みをおびてそれとわかる冰子懐が、なにやら両手をふりまわしている姿が衛士のあいだからちらりと見え、やがて視界から消えた時には、濠の外ははげしい歓声につつまれた。  中には何度も飛びあがっては、手をたたく者、子懐の逃げるさまを真似る者、ついには踊りはじめる者まであらわれる。手拍子ひとつに、即興の野卑な歌がとびだす。歌と踊りの輪は、またたくうちに〈奎〉軍全体へとひろがっていった。  ちょっとした、祭りのさわぎになった中を、羅旋はにこりともせずに弓を背後の兵につきかえした。 「これであいつも、当分、七星宮の奥から出てくる気をなくしたろうさ」  淑夜は杖にたよって、ようやく羅旋の早足についていく。 「城内の者が、被害をうけるおそれはありませんか。あなたの姿を、あちらも確認したはずです。もしも、暁華どのに……」 「おまえはまだ、経験がないから知らんだろうがな。女っていうのは、おそろしい生き物でな」  からかうような口調が、かえってきた。 「どんな事態になっても、終わってみればけろりと、以前どおりの顔をみせるもんだ。とりわけ、暁華はそういう女だ。案じてやる必要もないし、なにかあるとしたらとっくに起きている。城内にもどした野狗からもなんの連絡もないところをみると、無事だろうし、これからも無事にきまっている」 「どうやら、兄者もな——」  多少、表情に明るさをとりもどした大牙が、こちらは楽々と追いついてきた。 「さて、これからがみものだぞ。明後日には、義京から子懐の姿を消してやるからな」  きっぱりと、自信たっぷりに断言した羅旋の横顔を、湿気をふくんだ風が吹きなぶっていったのだった。 「なにごとでございましょう——?」  七星宮の一角にたつ高楼の、最上階からひそひそと声がたちのぼったのは、ちょうどそのころである。非常の際には、観楼子《かんろうし》(物見|櫓《やぐら》)となるよう建てられた楼閣である。こういった闕《けつ》が、宮城の中に五基、後宮に二基あり、それぞれ北斗にちなんだ星辰の名がついていることから七星宮の名があるのだ。声が起こったのは、| 政 《まつりごと》の場である宮城の、北東に位置する|天※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]楼《てんきろう》である。  六層の建築物の最上階、下からは見えぬよう、欄《てすり》からは遠くはなれて立つのは、長身|痩躯《そうく》の青年だった。その背後に小柄な老人の姿、そして、そのさらに奥のくらがりに、ぼうとちいさな白い顔がうかんでいる。細い銀の糸のような声は、白い影から流れだしたものである。 「大牙が来ているようだね」  ものやわらかに応えた長身は、衛士の装束と武具をまとっているが、段士羽のものにまちがいない。 「〈奎〉の旌《はた》がふられているよ。あの分だと、父上もおでましだな。にぎやかなことだ」  旗の数や色彩で、それと判別したことを、そのまま士羽は背後の少女へ報告した。 「大牙さまが——」  つぶやいたものの、揺珠の顔色はあいかわらず冴えない。もっとも、幽閉も十日ちかくになり、満足な食事も摂《と》っていなければ元気でいる方が不思議というものだ。とり乱したようすがないのは、奇蹟とよんでよいぐらいである。  唯一のたよりの綱である王と引きはなされたあと、揺珠は見知らぬ男たちの手で住み慣れた寿夢宮からここへ移された。楼の中に食べ物はあっても、彼女ひとりの手ではどうしようもなかった。もっとも、たとえ十分な膳部が用意されていたとしても、喉はとおらなかっただろうから、おなじことだ。  逃れようにも、昼夜を分かたず屈強な兵たちが幾人も監視に立っているのを見ただけで、脚がすくんだ。彼らは寿夢宮に配置されていた、それなりに教育された男たちとは、あきらかに異なっていた。おのれの周辺に傅《かしず》く侍女たちとですら、対等に口のきけなかった遠慮がちな少女が、いきなり粗野な男たちの目をくらませるような手管《てくだ》を弄《ろう》せるはずがない。まして、脱出の隙をねらうような機敏さなど、望む方が無理というものだ。  士羽たちが天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼にあらわれるまで、揺珠は夜も昼も、ひとりで座っていることしかできなかった。  そして、あの日蝕の日である。  真昼に突然おとずれた仮の夜には、だれもがすくなからずうろたえた。訓練の浅い天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の兵たちも例外ではない。皆、持ち場を離れて宮城の門へ殺到していった。その隙に、士羽たちは天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼へしのびこむことに成功したのだ。  姿は兵卒にやつしていたが、すぐにわかった。士羽の顔も人物も、揺珠はよく知っていたし、大牙の庶兄の心くばりは、質子《ちし》時代の弟の身に及んだだけではなかったのだ。ひと目で、連れ出しにきてくれたのだとわかった。 「尤夫人に頼まれてね」 「陛下は——、いかがなさいましたでしょう」 「案じるな。羅旋の手の者が、ご救出にむかっておる」  五叟の、どちらかといえば異相がひょいとのぞいたときも、不安は感じなかった。彼女が不吉な冷たい予感をおぼえたのは、かりそめの夜空を裂くように大きく流れた星をふりあおいだときだった。 「あ——」 「どうした」 「もしや、お祖父さまが」 「陛下が、どうされたと?」  訊いた士羽のことばは、一瞬の風にのって流れてきた喚声にさえぎられたのだ。 「——死んだ」「殺されたぞ」「陛下が」  断片しか聞きとれなかったが、それで十分だった。真偽のほどをたしかめようにも、揺珠を連れては、その場にかけつけようもない。悪いことに、騒ぎに押されて、逃げたはずの監視兵たちが逆流してきた。日蝕も刻限をすぎ、あたりは昼が復活しはじめていた。とっさに、士羽が天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の内へ身をかくすことに決めたのは、一にも二にも、揺珠の安全のためだった。逃げようとしたことが冰子懐に知れれば、揺珠の身が危険にさらされるだろう。次の判断は、状況を見てからだ。なにごとにおいても慎重な、士羽らしい選択だった。  結果、たすけに来たはずの士羽と五叟が、揺珠ともども天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼に閉じこめられる羽目になったのは、仕方のないことだろう。  さいわい、食料はぜいたくさえいわなければ人数が増えても十分にあったし、水も雨水を利用することで、当座はしのげる。入口の用心も兼ねて、夜は五叟と士羽が最下層で寝《やす》み、最上階は揺珠の室と、気をつかったのには揺珠の方があきれた。  外へ出る手段だけは、士羽たちがいくら考えても皆無だった。  唯一の希望は、五叟が術を凝らして建物の中から封鎖したために、今のところ、ふたりの侵入を子懐に悟られずにいること。そして、見張りのために残した尤家からの手の者が、まだ正体を知られずに監視兵の中にまぎれこんでいることだった。これは、隙を見て五叟が確認し、そのままで待機するように指示しておいたのだ。士羽たちにとっては彼らが、文字どおりの命綱だったが、日蝕の後、兵卒同士の監視が強化され、うかつに外へ連絡がとれなくなった。また、士羽も敢えて危険をおかそうとはしなかった。  王の崩御は、まもなく、監視兵の中の彼らから確実なものとして知らされた。が、それ以降の外部の状況の変化は、なにひとつはいってこなくなった。いや、噂は山ほど耳にするのだが、これは真実、これは流言と判別できる材料を、彼らも士羽たちも持ちようがなかったのだ。  ただ、天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の上から見おろす、城内の兵のうごき、それにはるかにのぞめる城外の風景だけが、士羽が得られる情報だった。  にもかかわらず、 「こんなことなら、旗の合図でも定めておくのだった」  と、士羽にはのんびりと苦笑するだけのゆとりさえあったのだ。  たしかに、ここからなら、尤家の広大な敷地も手にとるように見えたからである。ただし、下手に大きな動きをみせると、真下からあやしまれるおそれもあるので、これは合図をとり決めておいても、実現できたかどうかは微妙なところだった。  士羽の場合、この苦笑がけっして虚勢でなく、いかにも自然に見えるのが妙とも、また心強いともいえた。  士羽にしても、また五叟老人にしても、お世辞にも腕がたつようには見えない。また、この幽閉状態を内から切り開く方途など、みつかりそうにもないというのに、揺珠がとにかく平静でいられたのは、このふたりが気配にも緊迫感を見せなかったからだった。  今も、どこからともなく聞こえてきた喚声を、ふたりは文字どおり高見から見物している。 「いや、〈奎〉伯にせよ弟御にせよ、なかなかの出足じゃ。感心したぞ、士羽どの」  五叟老人が、あいかわらずの人をくった顔つきで誉めた。誰彼かまわずこきおろすこの老人が、無条件でこんなことをいいだすのは、よほどのことだといわねばならない。対する士羽が、 「さて、そのわりには外郭を攻めあぐねているように見えるがね」  謙遜ではなく、本気で大牙を皮肉ったところは、まるきり攻守が逆である。 「いやいや、まったく。たしかに、歯がゆいことじゃ。わしがあの中におったなら、一日で陥としてみせるがの」 「羅旋がいるなら、三日のうちには、なにごとか起こすだろうよ」 「——あの、羅旋さまも、おもどりなのでしょうか」  細い声が、めずらしく男ふたりの会話にわりこんだ。羅旋が、少勢をひきつれて巨鹿関を出たということだけは、彼女もここ数日間のひまに士羽から聞いている。その羅旋がとってかえしてきていると知って、問うたのは、羅旋の動静を案じたからばかりではない。それに対してまず返されたのは、士羽のものやわらかな笑顔だった。 「ここからではわからぬよ、揺珠どの。羅旋の安否が気になるかね」 「あの、ただ、だれがおいでか、おわかりになるのかと」 「棘父《きょくふ》は遠いからね。いつ異変を聞くか、どうやってとってかえすかで、帰りはちがってくるだろうし。いたとしても、名を書いた旗をあげてくれるような漢ではないからなあ」  士羽は、本気で困ったようだ。 「ただ、羅旋があの中にいれば、われわれにもまだ望みがあるというわけだ」  奇妙なことに、士羽の選択肢の中に、羅旋が逃亡——すくなくとも、義京までもどってこないという項目がなかったことだ。それは、五叟も同様で、 「では、奴が帰ってくるまでのあいだに、わしらも支度にかかろうかの」  だれへともなしにつぶやきながら、ひょっこりと立ち上がった。立っても、さほど背丈が変わるわけではない。その、くしゃりとゆがめた老人の顔をかるくふりあおいで、 「なんのお支度なのでしょうか?」  不審そうな白い、やさしい顔に、五叟はおだやかにうなずいてみせた。 「これから、おもしろいものを見せてさしあげる、その支度じゃ、公主どの。それで、わしはしばらく手が放せぬでな、ここから、あちら、あの方角を見て——」  と、まだ人の声がきれぎれに聞こえてくる、外城の東南の隅を節くれだった指で示す。 「見ていて、なんでもよい、変化が起きたら知らせておくれでないか」 「なんでも、よろしいのでしょうか」 「よいよい。ほんのちょっとしたこと、そうさな、煙があがったとか、空の色が変わったとか、そういったことでよいからの。さて、士羽どの、すこし手伝ってもらおうか」 「よいとも。なんでもいいつけてくれ、ご老体」  まるきり緊迫感のない声で、士羽がうれしそうに応えたのだった。      (二) 〈魁〉の衷王十六年、姑洗(三月)初九日。払暁《ふつぎょう》前である。  義京の外城、東南の角の歩哨に立っていた兵卒たちは、突然の轟音と震動におどろかされた。むろん、不寝番にたっていたのだから、油断をしていたわけではない。燎《かがりび》はそれこそ無数に焚《た》かれていたし、水をたたえた濠越しの〈奎〉軍が一夜中鎮まらなかったのも知っていた。なにやら大きなものをひきずる音も聞こえたし、下で炬《たいまつ》が幾本も走りまわっているのもはっきりと見えた。が、当然のことながら照明が十分ではなかったために、物音の正体の全体像を確認することができなかったのだ。衛士の長には報告したが、宮城からの的確な指示は期待できず、かといって、彼らの独断で調査や攻撃をするわけにいかないのは、当然である。  したがって、音と震動がおそったときには、天変地異だと思いこんだ者も多かった。なにしろ、雨の多さといい日蝕といい、今度なにが起きても不思議がない状況だったのだ。  日蝕は、直接に人に害があったわけではないが、震動には脚をとられる者が続出した。それほど揺れが大きかったのだ。揺れは、音による不安を増幅した。なにが起きているのか、とっさに判別ができなかったことも、わざわいしたかもしれない。  混乱にまぎれて逃げだそうとする者も、ひとりやふたりではなかった。もともと彼らは、子懐が衷王を幽閉したあと、義京に近い邑《むら》から臨時に徴用した民である。実のところ、以前から都の守護についている兵士も、租税のひとつの庸役として連れてこられた農民である。立場としては、変わるところはほとんどないのだがやはり、臨時兵の方が、不安や不満の影響をうけやすかったのだろう。  持っていた短槍や弓をほうりだして、逃げまどう者たちへ、二撃目が襲った。さらに三撃。 「炬《たいまつ》を、投げろ!」  ようやくそれと気づいて、衛士の長のひとりが叫んだ。 「外だ。濠の外へ、火矢を射こめ!」  即座に——というわけにはいかなかったが、多少はおちついた者もいて、炎のかたまりが城外へとたてつづけに飛んだ。中には濠の水面に落ちるものもある。落ちた炎のうち、樹脂の多い太い炬などは、すぐに消えずにしばらくは浮いてあかあかと水面を照らし出す。なめらかな水面に光が反射して、輝きは二倍になった。その光に、照らしだされたものは——。 「樹?」  伐《き》りだしたまま、ろくに加工もしていない丸太が数本、濠には浮かんでいたのだった。さらに、〈奎〉の陣営から飛びだし、濠を低く飛びこえてきたのも、おなじような木。太さは多少異なるが、どれもふたかかえ以上ある大木で、長さは一丈(二・二五メートル)ほどにそろえてある。それが、城壁と水面の境目の少し上あたりに落下する。堅固なはずの黄土の城壁が、その瞬間に基壇から揺れ、ほろほろとくずれていくのだ。  なぜ、そんなものを、どうやって、なんのためにと、疑問に思うひまもない。木塊は、次から次へと飛来する。飛んでくるのはそれだけで、城内からの火矢の攻撃に対しての反撃は、ひとつもない。射ちこんだ火矢は、うごきの速い人の群れと、大がかりな装置の木組の一部を照らしだした。木塊の正体はここから発射されているものとすぐに知れたが、ひたすら城壁だけを目標に攻撃してくる執拗《しつよう》さに、守備兵たちはかえって不気味なものすら感じたようだ。城壁の上からの攻撃は、すぐに止んでしまった。あとは、濠外のうごきを見るよりほかなすすべがない。木塊が厚い土壁にぶつかる鈍い音が響く中、さしもの城壁も、崩れるのを待つばかりとなったのだった。 「今、ひと息か」  城壁からねらわれないよう、燎からすこし離れたところに立つ羅旋がつぶやいた。 「正直にいうが——」  応える大牙は、あきれかえった口調をもはや隠そうともしなかった。 「義京の城壁が、こんなに簡単にこわせるとは思ってもみなかった」 「江南の、主要な城邑の外城の表面は、焼きしめた磚《せん》でおおわれています。一部には、木の補強も入れますし。練りかためただけの瓷《し》では、雨が沁みとおり土を流されるからです。ですが、雨の少ない義京では、水に対する防備は最初から考えられていない」 「そのうえに、ここのところの雨の量か」  淑夜の低い声に、大牙がふりむく。それに対してうなずきかえした淑夜自身、目の前の出来事が信じがたいといった声音《こわね》は、かくしきれない。 「白状すれば、これは〈世〉の時代、江南の小邑を攻めるために、何度かつかわれた策だそうです。そのころとは、城壁の造りも厚さもちがうし、日数もかかる。はたして短期間で効果があがるかどうか、たしかではなかったんですが——」 「うまく運ぶに決まっていた」  羅旋が、ふりむきもせずにいいきった。その視線は、木塊を打ちだす仕掛けから離れない。  装置自体は、丸太を麻縄で組みあげた、簡素なものだった。まず、左右に門のように脚を組み、その上へ木を渡す。その横木の上の中央に、またもう一本、長い木をとりつける。その長い方の先に、縄で編んだ網をとりつけ伐《き》りそろえた木塊をそれに載せる。木の短い方にも綱を何本もとりつけ、人がひいて引きおろすと、網の方がはねあがり、その勢いで木塊が飛んでいくという、簡単な仕組みである。  いかにも急ごしらえのその機《からくり》は、小さな石をまとめて城壁の上の兵に投げつけるために使われることが多かった。その、石のかわりに木塊をかませ、城壁の底を集中的に狙わせたのだ。  麻縄や網は、〈奎〉の青城から急遽、はこばせたが、装置用の丸太は巨鹿関から伐りだした。打ちだす木塊も同様である。それを、一部は陸路を使ったが、ほとんど河づたいにここまで運んできたのだ。水路をとったのは、陸路よりも小人数で運搬できるためだ。逆に、城壁に射ちこむものを石ではなく木塊に変更したのも、水路で運びこみやすいためである。十分な重量と大きささえあれば、すでにもろくなっている土の壁に対しての効果は、大差がないと羅旋がいいだして、決めたことだった。  ちなみに、手勢を指揮して投石機を作りあげたのは、壮棄才である。彼は、淑夜が自信なげに口にした水攻め策を羅旋から伝えられた直後から、黙々と準備にかかった。羅旋にはなにか反論めいたことをいったかもしれないが、すくなくとも淑夜に対しては批判がましいことは、なにひとついわず、要求どおりの仕掛けを造りあげたのだった。  ただ、それで淑夜を誉めるわけでもないし、なにを考えているのか、ひややかな視線には毫も変化がなかったのだが——。  ともあれ、三人の智恵と知識の微妙な噛み合わせが、この奇想天外ともいえる攻城戦を生み出したともいえた。もっとも、ここまで成功するとは、羅旋以外はだれも思っていなかったにちがいない。 「どうして、成功すると最初からわかる」  自信過剰が腕組みをしているような羅旋に、懲りもせずに大牙がくってかかった。ただし、さすがに彼も、まともな回答がもどってくるとは期待していない。はたして、 「今度の戦は、不運つづきだったからな。もうそろそろ、こっちへつきがまわってきてもいい頃だ」  緑色に底光りする眼を、城壁の上空へ向けた。その眼底には、おそらく、この薄闇の中での城壁の上の兵卒たちの挙動の一部始終から、土の崩れるありさままで克明にとらえられているにちがいない。彼の視力には、負けずぎらいの大牙でさえ一目おいていた。 「眼はよいな。眼だけは、な」  と、憎まれ口まできいたが、彼とて、羅旋の能力は正しく評価していたはずだ。そして、羅旋がすぐれているのは、眼力だけではなかったのだ。 「行くか」  ゆっくりと白みはじめた天に、一瞬、ちらりと目をやって、羅旋はくるりと踵をかえした。 「どこへ——」  とは、淑夜も訊かない。無言のままで、手綱を渡す。むろん、手綱の先には追風《ついふう》の黒い小山のような馬体がある。この悍馬《かんば》は、羅旋以外の人間の手にはなかなか負えないのだが、また、戦場で怯えることがない。ないどころか、かえってどっしり落ちつきはらうところなど、あるじとそっくりである。羅旋が身近にいたせいもあるのだろうが、今までなんとか淑夜の力で押さえてこられたのも、そのおかげだった。  羅旋は、淑夜の苦労など知らぬ気に、一動作でかるがると追風の背に身をはねあげる。淑夜も、遅れてはいない。徐夫余の手に預けていた超光《ちょうこう》の鞍に手をかける。かたときも手放さなくなった杖に身をあずけながら、鞍《くら》の鐶《わ》に左足をひっかけ、じりじりとよじのぼるようにだが、器用に身体をひきあげた。  尤家にひきこもっていたころには、何度くりかえしても上達しなかった馬だが、ここ数日のあいだに、なんとか格好だけはつくようになってきていた。つけるよりほか、なかった。ふり落とされれば、置き去りにされるしかなかったからだ。  淑夜の姿も羅旋や大牙と同様、泥を落とす余裕もなく、むろん、水を浴びる時間もなく、汚れほうだいである。強行軍と緊張の連続とで、ほほの肉が削ぎおとされて、ちょうど、羅旋にひろいあげられた時と、そっくりおなじやつれかたを見せていた。  ただ一点、ちがうところがあるとすれば、その双眸の光だったろう。あのとき、眼光は絶望と憎悪に埋めつくされていた。今の彼の表情も、けっして希望に満ちているとはいいがたい。だが、おのれになにができるか、悟りかけている眼であることだけは、たしかだった。  肩越しに、羅旋の眼がちらりとのぞいた。笑いこそしなかったが、満足しているのはその色でわかる。それに応えるように、馬首をめぐらし、淑夜は羅旋のあとを追おうとした。彼らのあとには、百頭ちかくの馬が続こうとしていた。むろん、すべて人を背にのせた騎馬である。棘父《きょくふ》から、次々に、これだけの人数がもどってきたのだ。もともと、各地からかき集めた無頼どもが主体だったことを思うと、これはおどろくべき数だったかもしれない。  徐夫余が合図の大きな旗を、浅黄色に明るんだ空へむけて振りかざした瞬間。  轟音が、空を裂いた。  まるで、夫余の旗が天をも斬りさいていったようだった。  そして、思わずふりむいた淑夜の眼に映ったものは——。 「——!」  城壁の一角を、黄色い水煙がおおうところだった。  淑夜のあげた声は、じっとなりゆきを見守っていた〈奎〉の兵の、歓声と怒号とにかき消された。城壁の一部が、土台の部分からくたくたと崩れていくのが見えた。その割れ目へ、水が殺到する。巻きおこった水流に、水面にうかんでいた木塊が引かれて壁にぶつかり、さらに割れ目をつき崩しひろげる役割を果たした。  城壁の上は、もはや混乱などというものではなかった。ちょうど崩れた部分の上にいた兵は、不運としか表現するべきことばがないが、難を逃れた者もそれで安全になったわけではない。水が城内へ濁流となって流れこみ、浅くなるのと同時に、〈奎〉の兵が次々に濠へと飛びこみはじめたのだ。春とはいえ、夜明けの水は冷たいはずだが、それをものともせずに泳ぐように渡りきると、泥まみれになりながらも城内へとはい上がる。  むろん、内からの抵抗がまったくなかったわけではない。が、総指揮をとるべき子懐からの指示はなく、指揮系統も衷王の死によって寸断されたまま、非常の際に的確な判断をくだす者もいないのだ。兵卒が数人単位で抗戦したところで、しょせん、勢いがちがう。ひとりが背をむけたところで、勝負は決まったようなものだった。 〈奎〉の兵も、逃げる者にはかまわなかった。そう、大牙から厳命されていたのだ。 「城門だ、東の城門を早く開くんだ!」  はっきりとした命令が、兵たちの奔流の方向を定めた。 「行くぞ」  城外では、羅旋の声がひときわ高く響きわたった。 「東の城門から、内にはいる。目指すのは七星宮、冰子懐の首級《しるし》だけだ。無駄に殺すな。無駄に死ぬな」  どっとあがった勝ち鬨と、はげしくうち振られる旗、それに頭上高くかかげられた槍や剣に、その日はじめての陽光があたった。きらきらと反射するまばゆさの中を、羅旋は一団の先頭をきって、走りだしたのだった。  同時刻。  巨鹿関の外にまで、〈征〉の主軍は到達していた。その前夜、野営したのは長泉《ちょうせん》の野——つまり、先年、〈奎〉と〈衛〉が争った戦場である。補給品の調達に手間どった魚支吾は、ここまできて、さらに慎重になった。  主軍は長泉にとどめたまま、斥候を巨鹿関へ送りこみ、その復命を待ったのである。  巨鹿関はがら空きになっているとの報がもたらされたのが、奇しくも、義京で城壁が崩れたのとぴたりと一致していたのだが、そこまでは魚支吾は知る由《よし》もない。ただ、一見、〈征〉にとっては有利このうえない報告を聞いて、彼は一瞬、不満そうに太い眉を寄せた。 「どう思う、は——」  伯要《はくよう》の名を呼びかけて、口をつぐむ。漆離《しつり》伯要は、本国からの補給の采配のために、後軍へとまわり、支吾の身辺には姿がなかったのだ。代わって、禽不理《きんふり》が進み出て、 「ご出立の合図を」  当然のことのように、うながした。 「いや」  むろん、支吾の拒絶にはそれなりの理由があったのだが、これでは伯要以外の者の発言は通らないような印象を与えてしまう。禽不理も、そう感じたのだろう。髭にかくれたが、眼にかるい不満があらわれた。 「何故に。ここから義京までは、目と鼻の先、〈奎〉が邪魔をせぬというのであれば、これ以上、ここで無益な時を費やすべきではありますまい」 「これが罠でないという保証が、できるのなら行くがよい」  即座に、支吾の不機嫌な声がはねかえった。 「罠、でございますか」 「昨年、耿無影がしてやられたのも、巨鹿関だったな」 「まさか、おなじ場所でおなじ手は使いますまい。われらが油断しているとは、奴らも思いますまいし」  禽不理を援護するように口をはさんできた者に、支吾はさらに軽侮の視線さえむけた。 「われらが巨鹿関を通過したあと、背後から襲うつもりかもしれぬ」  陣の内はしんと静まり、あとは声もない。 「〈奎〉には、知恵者がいるらしい。なにをやって来るか、見当がつかぬ。巨鹿関の周辺の山々に、あらたに木を伐った痕跡があるというのも、気にかかる」  義京の城壁を攻めるための木材を伐りだした跡なのだが、これも支吾は知りようがない。ただ、棘父の塞を、思ってもみなかった方法で焼きはらわれたという事実が、支吾を必要以上に慎重にさせていた。もう、すでに棘父でつまずいている。これ以上の失敗を、支吾はおのれに許したくなかった。 「かさねて、斥候を出せ。周辺を徹底的に調査して、義京までの道すじに不審な動きがないか確認させよ。青城へも人を遣《や》って、さぐらせよ。何日かかってもよい。慎重すぎることはない」  反対の声は起こらなかった。皆、あるじの懸念を、もっともなことだと思ったのだ。敢えて異論を唱え、攻撃を強行して失敗した場合、責任をとらされるのが恐ろしい——という気持ちもあったかもしれない。その場合の責任とは、〈征〉の法に照らせば死しかなかったからだ。  満足と、かすかな焦りをふくんだ支吾の眼にとらえられた巨鹿関の上空は、澄んだ夜明けを迎えようとしていた。  義京の東門は、羅旋たちがよく利用していた門でもあった。羅旋を頭領と呼ぶ漢《おとこ》たちがたむろする酒舗もこの近くにあったし、そこには東門を警護する兵たちも出入りしていた。顔見知りの彼らの数人でも、従来の持ち場についていたのだったら、羅旋も多少は攻め方を変えたかもしれない。時間も人もないときに、敢《あ》えて力攻めをするのは考えものだったからだ。要は、内側から城門がひらけばいいのだ。  だが、兵たちのほとんどが、狩り集められたばかりと知ると、羅旋はあっさり城壁を破る策を選んだのだった。 「門が開くまで、待て」  馬に乗ったまま、城門の下で羅旋は背後へ指示を出した。城門からは、最初、矢がぱらぱらと数十本ほど降ってきたが、それもすぐに止んだ。あたふたと逃げまどう兵にまじって、泥にまみれた漢たちの姿が、女墻《じょしょう》の間からもみとめられた。  待つほどのこともなく。  義京の城門は、にぶくきしみながらゆっくりと左右に開いたのだった。  最初に二枚の巨大な扉のあいだをくぐったのは、むろん、羅旋だった。馬一頭がすりぬけられる、ぎりぎりの幅である。そのすぐあとを、棘父から従ってきた無頼たちが、数人つづく。  淑夜は、すこし遅れた。  ついていけなかったのではない。あとから来る、大牙の主軍の姿を確認してから、入城するつもりだったのだ。  徐夫余が、先に異変に気づいた。 「城内の空が、妙ではありませんか」  城壁が崩れる際の砂塵が舞い上がっているのなら、黄色いはずだ。赤く染まることはない。 「火事か——!」  淑夜は、超光の白い頸《くび》をめぐらした。混乱による失火か、それとも自棄になった子懐かだれかが、七星宮《しちせいきゅう》に火でも放った可能性もある。 「羅旋——!」  城内に一歩入った淑夜が見たのは、意外な光景だった。  もともと、士気の低かった城内の兵たちが、ここにいたって逃げまどうのは予想していた。子懐に心から忠誠を誓い、義京を敵の手から守りぬくなどと考えている者など、ひとりもいなかったはずだ。逆に、〈奎〉軍は疲れてはいるが、士気はけっして低くない。まず、こともあろうに天子を弑《しい》した悪逆の徒を討つという、大義名分がある。〈奎〉の民には、自国の公子を救出するという目的がある。しかも、世子で将軍である大牙のみならず、老伯までもが病身をおして陣頭にたっているのである。これで意気があがらなければ、戦など最初からできない。また、およそものの役にたちそうにないと思われていた烏合の衆の無頼たちが、羅旋の指揮下では、おどろくほどの結束を見せ、泥にまみれて働いていたのも、いい方向に作用している。  その上に、すでに〈奎〉国の放棄を決意していた大牙は、糧草《りょうそう》を自軍にたっぷりと配分している。交替はあるとはいえ、昼夜を分かたず警備につかされていた城の兵とは、身のこなしひとつとっても、くらべものにはならなかった。  が——実は、逃げる城の兵を追いまわしていたのは、〈奎〉軍ではなかった。大牙も羅旋も、口が酸《す》くなるほどに無益な乱闘をいましめている。意味なく兵を失えるほど、こちらも大軍ではないからだ。城兵に襲いかかっているのは、襤褸《ぼろ》をまとった痩せた男たちだった。それも老人や、歳端《としは》もいかない少年ばかり。ときどき婦《おんな》もまじっているが、これもみな、ひどく痩せている。  彼らが暴徒と化した理由は、一目瞭然だった。王を幽閉して以来、子懐は城門を封鎖して、人の出入りを禁じた。このため、商人は商いに出ることができず、農民も城外の農地へ行くことができなくなった。その上に、働き手の壮年の男たちはほとんど連れていかれ、食料も徴発されたにちがいない。それでも、子懐の力をおそれて耐えしのんでいた庶民たちが、ここで怒りを爆発させてしまったのだ。  城門の周辺は人家も少なく、争う者たちの姿も広い空き地の草のあいだにかくされていた。が、淑夜が羅旋を追って、七星宮の方角へ馬を走らせるにつれて、路上や人家の塀沿いに、血|塗《まみ》れになって倒れている兵を見かけるようになった。兵卒よりも、長の地位にあったらしい、ととのった装備の主が目についたのは、淑夜の推測をほぼうらづけていた。 「羅旋!」  義京の南北をつらぬく大路との四つ辻で、淑夜は羅旋においついた。ここから少し南下したところに尤家。北上すれば、むろん七星宮の正門にたどりつく。そして夫余が見た空の異変は、ここまでくると、七星宮の上空であるとわかる。 「宮城が燃えて——」 「わかっている」  いいながら、羅旋は南の空を指した。そちらからも、黒い煙があがっているのだ。南ばかりではない、義京はいまや、四方八方から煙や炎がたちのぼっていた。 「尤家、ですか」 「行きたければ、行っていいぞ」  一瞬、淑夜の表情をよこぎった動揺を、羅旋は、むしろおもしろそうに見やる。淑夜がその眼に気づいた時には、すでに馬首をめぐらして疾風のように駆けだしている。その先には、七星宮の幾層にもかさなる甍屋根がつらなる。  ためらいもせず、そちらを選んだ羅旋の行動が、そのとき、淑夜にはひどく冷淡なもののように思えた。なるほど、今、なすべきことを放棄して女のところへ駆けつければ、今後、彼にしたがう漢はだれもいなくなるだろう。が、迷うそぶりぐらい、してもいいのではないか。自分が甘いことも承知した上で、淑夜はそう思った。  思いながらも、つられるように追風のあとを、超光に追わせる。義京の上空は黒煙におおわれて、ふたたび、時ならぬ夜をむかえようとするかのようだった。 「支度はよいか」  士羽の声に無言でうなずいたのは、揺珠の白い顔である。ただし、うつくしい黒髪は襤褸にちかい頭巾の中におしこめられている。まとっている衣服も、男物のうすよごれた麻服である。混乱の隙をついて、士羽が見張りの兵のものを奪って与えたのだ。不運な兵は、五叟老人が術をかけて眠らせ、この|天※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]楼《てんきろう》のどこかへ蹴りこんだようだが、さすがに、揺珠にも気の毒に思う余裕はなかった。  ——払暁前の城壁への攻撃は、天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼からも察知できた。点々と燎《かがりび》がつらなる外城の中でも、その一角だけがひときわ明るくなったからである。揺珠が知らせるまでもなく、士羽も五叟も、すぐに最上階へ駆けあがってくるや、 「始まったな」  目だけでうなずいて、脱出の支度にかかったのだ。  といっても、すぐに楼の扉を開いたわけではない。外城の異変に動揺する監視兵の動きを慎重にたしかめ、まずは変装用の衣服を手に入れた。五叟が、ふところから大事そうに粘土のかたまりをとりだしたのは、そのあとである。もろいそれを叩き割ると、中には白っぽい小石がいくつか、埋めこまれていた。  白いといっても、玉でなし、たいした値うちもありそうにないそれを、五叟は大事そうに掌の上にころがしながら、楼の最下層の四隅に置いた。うすぐらい建物の中で、石が青白い光をぼうと放つのを、揺珠は見た。また、五叟が石を置いたところには、前もって奇妙な文字がびっしりと書きつけられているのも、知っていた。  これを書くのに、五叟と士羽とふたりがかりで、半日をかけたのだ。 「いつでもよいぞ、二公子」  五叟の皴《しわ》だらけの顔が、士羽の肩ごしにひょいとのぞいた。 「公主どのにも、よろしいかの?」 「はい」  面やつれはしているが、気まではくじけていない。それどころか、男たちの緊張をほぐすように、微笑をつくってみせるだけの配慮までするのには、正直なところ、士羽も内心でおどろいていた。  元の王太孫妃、揺珠といえば、人の陰にひっそりとかくれるばかり、気はやさしいが人前へ出てもろくろく口もきけず、口の悪い者の中には知能が劣っているのではないかなどといいたてる者もいた。それが、ここまで気丈な娘だったとは、おそらく、亡き王ですら想像していなかったにちがいない。  もしかしたら、一番おどろいているのは揺珠本人かもしれないと、士羽はその顔をちらりと見ながら思った。  揺珠が立ち上がると同時に、室内が一瞬の閃光につつまれた。建物の四隅から、青白い炎がたちあがり、たちまちのうちに室内を満たし、屋根の甍までもつつみこんだのだ。  外から見れば、天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼が突然、炎上したようにも見えただろう。ただし、この炎には音も、そして熱もなかった。 「揺珠どの、こちらだ!」  さしのべられた士羽の手に、揺珠はためらうことなくすがった。ためらえば、男たちをも危険にさらすことを、知っていたからだ。士羽も五叟も、揺珠とおなじように汚れた麻服と兵卒の木製の胴甲をつけて、顔には楼内の埃をなすりつけるという念のいれようである。その姿で、天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の入口の扉を、蹴やぶるように開いた。  楼の前は、回廊にかこまれ下には切り石をしきつめた院子《にわ》になっている。いつもなら、ここと楼の裏とあわせて、常時、兵が三十人は詰めていたのだが、今は外のさわぎに気をとられたか浮き足だったか、ひとりの影もない。持ち場を離れれば厳罰——といっても、その秩序をたもち徹底させるだけの権威も力も、能力も今の子懐にはなくなっているのだろう。  いったん、回廊の端まで勢いにまかせて走り出た士羽は、揺珠の手をひいたままふりかえった。揺珠もそっくり真似るようにふりむいて、息をのんだ。 「燃えている……」  天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼は、内部に満ちていたような青白い光ではなく、真紅の色をした激しい炎になめられていたのだ。ぱちぱちと木材がはぜる音と熱風が、渦を巻いて彼女の顔にも吹きつけてきた。 「これが、わしの術じゃよ」  数歩おくれて回廊に飛びこんできた五叟老人が、高くもない鼻を得意気にうごめかした。 「種あかしをすれば、燃えているのは燐《りん》じゃ。それを、本物の火に見せかけているだけのこと。——見せかける方法は、教えられぬがな。なに、建物自体には、傷ひとつつけておらぬ」 「自慢の口上は、あとにしてくれるとありがたいのだがね、五叟先生」 「ほい、忘れておった。——火事じゃ!」  と、せりふの後半は、いきなり大音声をはりあげたものだから、揺珠はおどろくどころのさわぎではない。 「士羽さま——」  士羽の袖に、すがりついた。 「心配ない。これも策のひとつだよ」  さらに、ほっそりとした揺珠の肩を抱くようにかばいながら、士羽も五叟に声をあわせた。急を告げる声に、ばらばらと兵が院子に駆けこんできた。揺珠は、反射的に肩をすぼめ顔をそむけたが、だれひとり、彼女たちの方を気にとめた者はない。  皆、天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の炎を見ると、あっとひと声叫んで踵《きびす》をかえす。その背後に、士羽はぴたりとつづいた。火事だ、天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼が燃えると口ぐちに叫びたてる彼らについて、士羽たちも七星宮の内部を走った。宮城の内部のようすは、士羽もひととおり知ってはいるが、区画ごとにもうけられている小門を、ひとつひとつ破っていく手間も時間も惜しい。そこで、兵の流れに誘導させ、彼らの手で門を開かせて外へ出ようと計ったのだ。  その狙いはよかったし、たしかに今一歩で成功するところだった。七星宮の正門である南斗門《なんともん》のいかめしい扉は、殺到する兵の手で内側から文字どおり、たたきこわされたのだ。  もともと、はっきりとした理念があって冰子懐に与した者はおらず、目先の利ものぞめないとなれば、子懐が人々から見放されるのは時間の問題だった。天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の炎上は、そのきっかけとなったにすぎない。混乱の中から聞こえてきた兵たちの怒号が正しければ、七星宮の七つの高楼のうち、後宮の玉衡楼《ぎょくこうろう》と宮城の主殿である天枢閣《てんすうかく》にも火が回ったという。天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の火が飛ぶはずはないから、だれかが火を放ったのだろう。  それと知った揺珠が、走りながら思わずあとをふりかえったとしても、責められるまい。士羽ですら、肩越しに、背後を見ようとしたのだ。  揺珠の細い脚がもつれて、ころんだのは不運だった。さらに、頭巾がなにかにひっかけられて、豊かな黒髪があらわになったのも不慮の事故といえたかもしれない。あっと、周囲の視線が集中し、ふたりのまわりだけががらんと広くなった。  それでも、とっさに揺珠の正体に思いあたる者はいなかったにちがいない。嬰児のころから深宮に育った揺珠の顔を知る者は、寿夢宮の奥仕えの宮女か侍僮、それに親衛兵のごく一部ぐらいであったからだ。ここで女と知れても、せいぜいが、婢女《はしため》を混乱に乗じて拉致《らち》するところだと思われたはずだ。まず、おのれの命が優先するこの場で、女ひとりの去就になど、関心を持つ者などいないはずだった。  が——。  ぱっとひろがった人の輪の端に、ひとり、いたのである。揺珠の面と、その身分とを熟知している者が、である。やはりその男も脚をとられて、膝をつき、そのため人垣からとりのこされたのだ。そして、眼をあげた真正面に揺珠の蒼白な顔があり、さらにその上に、彼女をたすけ起こそうとした士羽の視線があったのだ。  士羽もまた、その男を知っていた。 「冰子懐——」  彼も、きたない麻服に身をつつんでいた。太宰の長衣ではなく、丈の短い胡服である。王宮でももっとも身分の低い者の衣服を、とりあげてでもきたのだろう。そうして身をやつし、逃亡兵にまぎれて七星宮の脱出をはかったのだと、士羽もすぐに察知した。  外城への攻撃と、七星宮の火災とで、もはやこれまでと見切ったのだろうか。権威はおとろえたとはいえ、華全土の上位に位置する〈魁〉を実質上、支配してきた男である。王を弑し、仮にも新王と称した男の末路がこれかと、士羽はこんな場合にもかかわらず、笑ってしまったのだ。  悪意からではなかった。  彼の無欲|恬淡《てんたん》とした性質からみれば、子懐の運命の急変は、自業自得でこっけいなものでしかない。これが、子懐の身の上でなくとも、士羽はおなじように、本心から憐憫《れんびん》の情をふくんだ微笑をうかべただろう。  だが、子懐はそうはとらなかった。 「……そうか」  黄色くたるんだつやのない皮膚をふるわせて、子懐の口からことばが洩れた。 「そうだったか、おのれらが……、おのれらのせいであったか」 「なに?」 「〈奎〉が仕組んだか。王をわしに殺させ、わしを殺して王位を奪おうと」 「なんのことだ」  とは答えたが、士羽はとっさに〈征〉公、魚支吾の顔を思いうかべていた。今は亡き衷王が子懐に殺された経緯を、克明に知っていたわけではない。だが、子懐をあやつり、王殺しへ追いこんだ国があるとすれば——そして、それが〈奎〉でないことがたしかな以上、もっとも子懐と密接につながっていた〈征〉があやしいと見るのが、妥当なところだろう。  また、士羽の知るかぎりの人物の中で、そんな謀略にもっともふさわしいのも、魚支吾という男だった。  ただ、今の子懐に正常な判断を要求するのは、不可能だった。ふり乱した髪のあいだからのぞく両眼の、どこか黄色みを帯びた光の異常さに、五叟が先に気づいた。 「そやつに関わるな、二公子!」  老人とは思えない身のこなしで、ふたりのそばへ駆けもどると、揺珠の腕をつかんで引き起こそうとした。 「口をきくでない。早う、外へ」  起こすついでに、かるがると両腕に抱きあげた。骨ばかりの痩せた外見からは、想像できない膂力《りょりょく》である。揺珠が小柄でほっそりしているとはいえ、おそらく五叟とおなじぐらいには重いにちがいない。それをかかえあげ、よろめきもふらつきもせずに、数歩走りだした。  ——それが、子懐に契機を与えたのだ。  それまで、子懐と士羽のあいだには揺珠の身体があった。傷害物、というほどの障壁ではなかった。成人男子なら、少女ひとりの身を踏み越せないはずはなく、揺珠が邪魔することを予測にいれてさえ、ふりはらえない道理もなかった。にもかかわらず、子懐は揺珠の顔を正面からは見られなかったのだ。  良心のとがめなどというものが、この男にあったかどうかは疑問である。が、なにとはないうしろめたさはあっただろう。正当な理由、手段によらずなにかを奪ったという事実に、ためらいをおぼえるほどには、冰子懐も善良だったのだ。もしかしたら、善良すぎたのかもしれない。  ともあれ、子懐をためらわせていた障害が、とりのぞかれたのだった。子懐の手が、腰帯のあたりをさぐった。護身用だったのだろうか、刀子《とうす》のみじかい柄があたったところまでしか、揺珠は見ていない。 「早う! なにをしておる——!」  五叟が、耳もとで怒鳴ると同時に、彼女の頭を腕の中へかかえこんでしまったからだ。 「士羽——!」  絶叫したのは、あらたにこの場へ雪崩れこんできた声だった。はげしい蹄の音と同時に、太く、身体の底からゆさぶられるような声だった。 「士羽さま!」  つづいて、すこしかん高い、まだ少年の響きをもった声。そして、数頭の馬蹄の音がいり乱れ、人の足音がさらに加わる。  髪のあいだからあげた揺珠の視線の先で、ひとりの若者が、いったん騅馬《あしげ》からころげ落ち、左脚をひきずりながら立ち上がるところだった。 「淑夜、さま!」 「無事であったか、おぬし」  さすがの五叟も、感嘆の声をあげて駆けよろうとして——。  ふたたび、揺珠の目を覆いかけたが、今度は、少女に拒否された。 「士羽さまは——いかがなさいましたの。なにが……」  もがくように五叟の腕から逃れ出、数歩あるいてから、石畳を染める赤いものに気づく。 「まさか——」 「士羽さま、淑夜です。大牙さまも、すぐそこまでおいでです。お気をたしかに」  半身を淑夜に支えられて、横たわっているのは、ついさっきまで微笑をうかべていた段士羽の長身だった。いや、傷ついているのになお、彼の面には微笑があった。 「しくじったよ、淑、夜……」  左手で押さえたその脇腹から、とめどなく鮮血があふれだし、揺珠の脚もとまで染めているのだった。  たしかに、このときの子懐の動作には、なにかに憑《つ》かれたかと疑わせるような敏捷さがあった。ふだんは、刃物を持っただけでも息があがりそうな男がまさか、まともにふるうとはだれも思わない。士羽も、相手をあなどったわけではなく、ぎりぎりのところであとずさり、避けはしたのだ。不運は、そのあたりに、兵がふり捨てていった剣や短槍から胴甲といった、武具がころがっていたこと、その中の一本の槍の柄に、士羽の脚がからまったことだった。そして——子懐の剣を真正面から受けることだけはまぬがれたが、逃げたことによって、かえって脇腹を大きく斬り裂かれることになったのだ。  揺珠は、無意識のうちに片袖をひきちぎって、士羽の創口《きずぐち》におしあてていた。  刀創に触れるのはおろか、血を見るのさえはじめてだったろう。が、彼女はたじろがなかった。無我夢中だったのだろう。 「先生——!」 「おう」  うながされるより早く、五叟も士羽の身体に飛びついていた。が、見るなり、 「これは、ひどい」  さすがの五叟が、眉をひそめた。それでも、手早く血止めの作業をはじめる脇で、淑夜がはっと顔をあげた。 「羅旋——!」  まず、この場の指揮を執るべき羅旋の姿が、みあたらないことに気づいたのだ。  この場は、あとに続いてきた羅旋の手の者にぐるりととりかこまれ、とりあえず守られていた。その人の影のはるかむこう側に、肩幅のひろい長身がちらりと見えた。  杖をつかみ人垣の脚もとをすりぬけ、その背を追う。羅旋の長身は猛然と、さらにむこうのなに者かを追っていた。  姿形より、異様な声で相手は識別できた。 「やった……、やったぞ、これで、わしは、本物の王じゃ……王……」  ひきつった笑い声は、子懐のしまりのない口もとから際限なくこぼれだしていた。それでいながら、意外にしっかりとした足どりで、王宮の奥へ奥へと逃げていくのだ。羅旋も最初はゆったりと、大股に近づいていったのだが、追いつけないとわかって走りだした。淑夜が見たのは、ちょうどその瞬間である。 「羅旋、どこへ行くんです!」  それでも杖と脚とを全速力で動かして、かろうじて羅旋の背にすがりつくことができた。 「そんなことをしている場合ではないでしょう! 士羽さまの手当の方が、先決です」 「五叟にまかせておけばいい。あいつだけは冰子懐だけは、赦すわけにはいかん」 「何故です!」 「おまえだって、耿無影を許す気はなかろうが」 「どういう——」  意味をとっさにはかりかねて、淑夜がひるんだ隙に、全力で腕をふりはらわれた。淑夜には、持ちこたえられるはずもない。したたかに腰をついて、とっさに立ちあがれないうちに、羅旋は小門のひとつをくぐっていた。むろん、さらにその先には、冰子懐の半狂乱の姿がある。  淑夜も、けんめいに立ち上がった。なんとはなしに、一切を見届けなければならないという衝動にかられたのだ。 「淑夜どの!」  あまりのもどかしさに淑夜がほうり投げた杖を、徐夫余がひろいあげながら追いかけてきた。つかまれたひじを、淑夜もまたふりはらって、消えた羅旋の背を見すえた。夫余は、よけいな意見も感想もさしはさまなかった。ただ、淑夜より一歩先にたって、歩きだしただけだった。  ——両者の居処をさがしあてるのは、容易だった。時おり発される奇声の出処を、さぐっていけばよかったからだ。それでも、子懐の脚は相当早かったらしく、淑夜が行きついたのは、燃えあがる天枢閣《てんすうかく》の前だった。天|※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]《き》楼の偽火事とはちがう、本物の炎と熱風にさえぎられて、追いつめられたのだろう。  すでに、子懐が正気をうしなっていることは、両眼を見ればわかった。へらへらと笑いながら、血塗れの刀子をふりはらう。まるで、火にあぶられて熱くなったとでもいうようだった。さらに、子懐本人の膝がへたへたと崩れおちる。その顔を、幅広の剣が隠した。 「助けて……くれ、命、だけは。わしのせいではない。わしは、嵌《は》められたのじゃ。欺《あざむ》かれ……」 「それでおまえは、ひとりも瞞《だま》したことがないとでもいう気か」 「わしは、殺してない。ほれ、わしはなにも持っておらぬ。王を殺したのは、わしではない。わしは、だれひとり、殺しては——」 「直接、その手ではな。赫延射《かくえんや》を殺したのは、毒酒であって、人ではなかったな。親父は顔も手足も黒くただれ、のたうちまわって死んでいった。だが、おまえがそれを知らなかったはずがない」 「か、赫、延射——」  かくりと音がしたのは、子懐のあごが落ちた音である。それとも、落胆の音だったろうか。このひとことで、子懐はとうてい逃げきれないことを悟ったのだった。 「安心しろ。ひと思いに死なせてやる」 「羅旋——」  制止したかったのか、それとも思わず声援をおくろうとしたのか、淑夜には、その一瞬の自分の気持ちがのちになっても理解できなかった。羅旋の告発をきいた刹那《せつな》、おのれの胸の裡《うち》にも、冰子懐へのどす黒い感情が噴きあがるのを認めたからだ。  憎悪にも、さまざまな種類があることを淑夜は知った。無影に対する熱い怒りとはまったく異なる、どろどろと皮膚にまつわりつくような、気色の悪い侮蔑《ぶべつ》と嫌悪感だった。  結局、声は声にならなかった。  それより早く、羅旋の剣がいとも無造作にふりあげられたからだ。  骨が砕ける、いやな音がした。その中に、かちりと妙に澄んだ音がまじったと聞いたのは、気のせいではなかったはずだ。  結果的には、羅旋は約束をやぶった。子懐は一撃では死ななかったからだ。朱《あけ》に染まった顔面を苦痛にゆがめながら、胸のあたりの衣をつかみ、倒れながらも身体をねじって火を噴きあげる天枢閣へ——〈魁〉王の座がすえられている、主殿の方向へと、もう一方の腕を伸ばしたのだった。ひどく不自然な姿勢で倒れこんだ彼は、したたかにあごの骨を打ちつけた。それでもなお、腕だけは天枢閣の方向をまっすぐにむいていた。  羅旋がとどめを刺すより前に、子懐の息は絶えた。断末魔のあがきが、爪痕となって石畳に刻みつけられた——。  そこではじめて、淑夜は大きく息を吐いた。一部始終を、じっと息をつめて見ていたことにようやく気づいたのだ。夫余もそれは同様だったらしく、すぐちかくで大きな嘆息が聞こえた。が、淑夜が見ていたのは、羅旋の顔だけだった。  正確には、斜めうしろからの半顔のみである。火災に照らしだされた顔は、まるでかえり血でもあびたように、真っ赤に染まっていた。が、意外にも表情は平静だった。——いや、余人の場合ならば冷静といえただろう。だが、この戎族の漢のこんな氷の仮面のようなおももちを、淑夜は今の今まで一度も目にしたことがなかった。  その凍りついた顔のまま、羅旋はゆっくりと上体をかがめた。片足の爪先で子懐の遺体を起こしながら、懐《ふところ》をさぐる——。と、ちいさな袋を引き出したのだ。血に染まった袋の端が破れ、そこからきらきらと光るちいさな破片が零《こぼ》れるのを、淑夜は見た。それと同時に、淑夜は、おのれの胸からもなにかがこぼれおちるのを感じていた。  ゆるやかに、羅旋がふりかえる。  その粗けずりな顔だちに、ようやく表情がもどってくるところだった。 「もどろう」  ひとこと。  いいわけも説明もなく、たったひとこと。それが、すべてを目撃した淑夜と徐夫余への回答だったのだった。      (三)  士羽が息をひきとったのは、それからまもなくのことだった。  彼がうけた子懐の刀子には、毒が塗りつけてあったのだ。おそらく、子懐が自決用に用意していたものだろう。調べにいった者の報告によれば、他にも丸薬や酒に混ぜた毒を数種、私邸にかくし持っていたという。創《きず》から体内にはいった毒には、さすがの五叟も手のほどこしようがなかった。  ——大牙は士羽の末期《まつご》には間にあわなかった。  淑夜と羅旋が士羽のもとへもどった時ですら、すでに満足に口がきける状態ではなく、そのうえ淑夜はすぐに、揺珠を連れて場をはずすように命じられた。揺珠にこれ以上、無惨な場面を見せるまいとの配慮だったが、そのために、士羽の最期のことばを聞くことができなかった。  羅旋ひとりが、なにかを聞いたはずだった。士羽のくちもとに耳をつけて、二、三度、かるくうなずいているのを、淑夜は遠くから見ている。だが、なにを聞いたのか、彼は大牙にすら伝えなかった。  あるいは、大牙の狂乱をおそれたのかとも、淑夜は思った。理解者であった庶兄の死を、気性のはげしい大牙がどううけとめ、どんな反応を示すか、だれも予測がつかなかったからだ。士羽の死を直接、伝える勇気のある者も皆無だった。大牙は、いきなり兄の遺骸と対面することになった。  意外——というよりは、予想の外だった。顔色が、すこし白くなったように見えたのは、おそらく雲間から洩れた薄日のせいだろう。おどろくほど、静かな声だった。 「こんなところで——」  低く、不明瞭だったから、聞きとれた者がどれだけいただろう。すくなくとも、声から彼の内心をうかがうことは、不可能だった。 「運んでくれ」  これは、だれの耳にもはっきりと聞こえた。  どこへ——と、とまどう顔たちへ、 「城外だ。親父どのに知らせぬわけにいくまい。こんなところへ、いつまでも寝かせておくわけにもいかぬ」  指示だけを与えて、くるりと背をむけた。  彼だけではない。いったん、入城し七星宮を占拠した〈奎〉軍だが、冰子懐の死亡を確認し、これ以上の反撃もないとわかった時点で、全軍、城外へ退去するように命じられた。これは、戦端をひらく前からの指令でもあり、義京内の、無関係な人間や建物に害をおよぼさないための配慮だった。もっとも七星宮をはじめとして、各処に火災が起きてしまったが——。  そのためもあるのだろう、勝ったはずなのに、〈奎〉の陣は重苦しい空気につつまれた。  そこへ、ひょっこり、暁華がやってきたのである。  むろん、歩いてきたわけではない。驢《ろば》に引かせた車に乗り、あとにも小さな車を三台ばかり従えていた。 「よう、派手に焼いたな」  帳幕《とばり》を引いた婦《おんな》物の車から、暁華の特長のある眼がのぞいたとたん、羅旋が声をかけた。たちまち、暁華の柳眉が逆立った。 「まあ、やっとのことで再会できたというのに、無事かのひとことぐらい、あってもよろしいのではありませんの?」 「このとおり、無事じゃないか。見ればわかることを、訊くことはない」 「少しは苦労して、まともな口をきくようになったかと、期待してましたのに」 「苦労——?」  天を仰いで、羅旋は片ほほだけをゆがめて見せた。その仕草が、暁華のことばを否定したものか、それともそんな安易なひとことですまされるようなものではないとでもいいたかったのか、すぐそばで見ていた淑夜にも判然とはしなかった。  それは、暁華もおなじことだったのだろう。 「聞きましたわ。士羽さまが——」  視線を転じて、話題を変えた。ただ、いいにくいことを逃げずに、ずばりと切りこんでくるのは、いかにも彼女らしかった。彼女の視線を追って、羅旋も顔をふりむけた。彼らが立っているのは、義京城外のごくなだらかな丘陵のひとつ。壮棄才をはじめとして、ここまで羅旋についてきた無頼たちも、この高台にいる。〈奎〉の兵はこの丘陵の陰に、老伯の温涼車を中心にして、整然とした陣を布いている。徐夫余も、当然のことながら、そちらへもどっており、今は淑夜のそばを離れていた。 「——弔問《ちょうもん》のつもりか」  陣の中央を見つめながら、羅旋も応じた。 「あたくしにも、責がないわけではありませんから」  さすがに、暁華も白い面を伏せた。年上のこの美女の表情に、憂愁の色がただようのを、淑夜ははじめて見た。 「しおらしいな」  ふんと、羅旋が鼻を鳴らす。あなどったわけではなく、ほかにいうべきことばを持たなかったのだと、これは淑夜にもなんとか理解できた。 「いい方ばかり、先に逝《い》ってしまわれますのね」 「おまえの亭主も、いい奴だったな。あいつが生きていてくれれば、もう少し、楽な戦ができた——」  いいかけて、羅旋は強く首をふった。 「繰り言はよそう。その亭主の遺《のこ》した物を全部焼いてしまって、これからどうする気だ」 「——あの、書物が、すべて焼けてしまったんですか!」  思わず、大声が出た。身をのりだした淑夜の目の前に、暁華の肯定のしぐさがあった。尤家の所蔵する書物や簡は、膨大な量におよび、中にはこの世に数冊という貴重な物もあった。それが、すべて灰塵《かいじん》に帰してしまったというのか。  ぼうぜんとする淑夜に、暁華は艶然と微笑してみせた。 「心配ありませんわよ。前もって、そっくり移しかえておきましたもの」 「どこに、ですか——」 「あなたさまの、頭の中」  にやりと、羅旋が笑ったようだった。たしかに、淑夜は読んだ書物を一字一句、暗唱している。書けといわれれば、すぐにでもその書物を再現できる。なるほど、尤家の書物倉が、そのまま移動したようなものだ。この倉は場所も取らず、淑夜が死なないかぎりは火災にも水にも安全である。これでは、考えようによっては、最初から貴重な蔵書を避難させる心づもりで、淑夜にせっせと読ませていたともとれるではないか。 「——こういう女だ。案じてやる必要がないといった理由がわかったか」  羅旋は小声でささやいたつもりだが、しっかりと暁華の耳に届いてしまった。 「なにも、あたくしの世話をやいてくれとは申しませんけれどね。今すこし、やさしいことばをかけてくださっても、天罰はくだりませぬわよ。それも、これから長旅に出ようというのに」 「で、どこへ行くつもりだ」  おどろいたふりもせず、羅旋は尋ねた。 「〈衛〉へでも、行ってみようかと」 「——どうして」  ふたたび、大声をたてたのは淑夜。尤家の家財の一切が、失われたのかとおどろいたのだ。 「邸は全焼いたしましたけれど——。尤家の財は、義京だけにあったわけではありませんから。全体からみれば、失ったものはわずかですわね」 「だったら——」 「義京に残る? あなたさまも羅旋も、揺珠さまもいなくなるのに。まして、あとから魚支吾さまがやって来るのではね」 「ですが、〈征〉公のもとでも商売は続けられるでしょう。尤家ほどの商家ともなれば、優遇されるはずです」  暁華の切れ長な眼が、きらりとひらめいた。 「淑夜さまは、支吾さまというお人を、一度、じかに見ておいでですわね?」 「はい。でも」 「あのお人が、他国の益となるような商売を、あたくしどもに許すとお思い?」 「——いえ」  暁華の説明は明解だったし、淑夜の理解も早かった。 「〈衛〉でも、多少は窮屈な思いをするでしょうよ。でも、今のところは、なんとかなりそうですし、だめなら、また土地を変えればよいこと。とにかく、揺珠さまのご無事をたしかめたら、あたくしは行きますわ。ほんとうなら、あたくしが、〈琅〉までお送りするべきなのでしょうけれど、陛下とのお約束を守るなら」 「無理をするな。支吾では、相手が悪い」 「ときどき——」  暁華は、微笑をふくみながら羅旋を斜め下からみあげた。 「金銀の力が通用しない人間が、いるものですわ。だからこそ、世の中はおもしろいんですけれどね」  羅旋は、無言。 「ああ、それから、玉奴《ぎょくど》は親の家へ帰しましたわ。よろしいわね」  去り際に、暁華は思いだしたようにつけくわえた。いってから、羅旋の表情を透かすようにうかがった。それに対する漢の反応はといえば、 「——なんで、そんなことを俺にいう?」  心底、不思議そうに訊きかえしたものである。おのれに無縁な人間の消息を聞かされたようなとまどいようは、演技とはみえなかった。  暁華の目にも、そう映ったのだろう。 「まあ——よろしいですわ。せいぜい、命をたいせつになさいましね。淑夜さまも」  笑って、ふりむきもせずに去っていってしまった。 「——まったく、とんでもない女だ」 「一度、たずねようと思っていたんですが」  淑夜は、とりあえずこれで、自分が尤家の庇護《ひご》下からは出たことを知った。この先の目算はかいもく立っていないが、暁華への遠慮だけは、軽減されたわけである。 「なんだ、あらたまって」 「暁華どのの夫とは、どういう方だったのです」  あの、蔵書の量といい内容といい、一代の大学者といってよいものだった。読んでいるうちから、気にかかっていたのだ。羅旋が答えてくれるか案じていたのだが、意外にあっさりと名が出た。 「王孫昴《おうそんぼう》、字《あざな》を子纂《しさん》といった」 「では、れっきとした夏氏の——」  淑夜が絶句したのも、無理はない。王孫という姓は、実際に王の孫であった祖が名乗ったものである。といっても、亡き衷王の孫ではなく、数代にさかのぼっての話である。ひとくちにおなじ一族といっても、何代も経ればさまざまな者たちが出るのが当然であり、〈奎〉の段氏のように、一国を封じられて分家した血統もあれば、市井にまぎれてしまった子孫もいる。王孫氏は二系統あり、一方は一時期、〈魁〉の国政をにぎったこともあるが、後嗣がなく絶えてしまった。残る一方も、かろうじて士大夫の家柄を保っているのみと、淑夜は聞いたことがある。  むろん、今は王家との血のつながりはうすく、ほとんど見捨てられていたといってもよい。 「その、王孫氏の庶子だった」  とはいえ、一応は士大夫の家柄の男子である。富裕とはいっても、商家の娘にすぎない暁華との結婚が無条件で賛成されるはずもない。私奔という非常手段をとらねばならなかったのも、当然といえば当然だった。 「頭のいい漢だった。そのくせ、家柄だのなんだの、鼻にかけるそぶりもない。でなければ、暁華に惚れてともに逃げたりしなかっただろうさ。平素はおとなしい、気のいいばかりの繊弱そうな男だったが……」  めぐらした視線の先で、ゆるやかな斜面を降りていく暁華の一行は、すでに豆つぶほどになっている。 「まったく、思うままにはならんものだ。——俺は、士羽を王にたてるつもりだった」  士羽が無事であったなら、なにを夢のようなことをと、淑夜も笑いとばしただろう。無位無冠どころか、財産もない戎族に華の王をどうこうする力などあるわけがない。たとえ、士羽が〈魁〉へ迎えられることがあったにしても、それは羅旋の功績によるものでは、けっしてないはずだ。  だが——万一、実現していれば、士羽はよい王になったかもしれないと、淑夜はふと思った。  かつて、士羽はみずから、戦場で自分について来る兵はいるまいと語った。将の器ではないと。だが——。 「あいつは、将帥《しょうすい》の師《おさ》だった。この俺でさえ、士羽の命令なら、すなおにきいていいと思った。〈容《よう》〉や夏氏の連中だって、士羽の策だったから、〈征〉に対抗する気になったはずだ。士羽なら、こうるさい国主連中をおさえて、華をまとめなおせると思った……」  めずらしく饒舌《じょうぜつ》になりかけて、だが羅旋は突然、ふたたびぴたりと口を閉ざした。 「死んだ奴のことを話して、なんになる」 「羅旋」  その眼は、今は暗い褐色にしずんでいる。 「これで、安泰になったわけじゃない。やることは、まだあるぞ。生きのこるという、難問がな」  ふりあおいだ空は、まだ、義京からの黒煙におおわれている。日没までには、まだ少し時がある。が、そう先のことでもないようだ。  ほんの一瞬だが、暁華についていく方がよいのではという考えが、淑夜の脳裏をかすめた。平穏にはほどとおいかもしれないが、尤家ではたらいていれば、戦にひきだされることも、つらい目をみることもないだろうと。  だが——それでは一生かかっても、無影に思い知らせることはできるまい。商人をあなどる気はないが、士大夫でなくなった淑夜を、無影は絶対に認めるまい。あやういところで、淑夜はふみとどまった。  どちらにしても、行き先が〈衛〉では、はじめからどうしようもない話だった。 (だが、これから、どうする)  このまま、羅旋にだまって従ってよいものだろうか。そもそも、羅旋が身をおちつけられる場所が、あるかどうかすらわからない。戎族の、しかも游侠《ゆうきょう》の徒が、うしろ盾を失っては、なんの価値もあるまいに——。  つきあいが長くなるにつれて、次第に羅旋という漢の、さまざまな面をとらえるようになった淑夜だった。  おなじ頃。  段大牙は、〈奎〉の主だった将軍や卿大夫《けいたいふ》にむかって、またひとつ、悲報をもたらさねばならなかった。 「父上が、みまかられた」  どっとどよめきが湧きおこったのは、段之弦《だんしげん》が、次子の死を嘆いて自裁したのではないかという不安からだった。が、大牙はきっぱりと否定して、 「そもそも、ここへ来られること自体が無謀だったのだ。兄者のことで、多少、気落ちしたこともあったろうが——。ともかく」  声をはげまして、面をあげる。 「俺が、あとを嗣ぐことになる。そこで、異議のある者は、この場で申し出ろ。とがめはせぬ」 「なぜ、そのようなことをおおせられる」  青城からかけつけていた冀小狛《きしょうはく》将軍が、髭をふりたててくってかかった。 「われらを、それほどにお疑いか」 「だまって聞け。異議がないなら、〈奎〉伯として、段氏の長としていいわたすことがある。——俺は、〈奎〉を捨てる」 「なんと——!」  帷幕《とばり》に囲われたこの一角が、轟と鳴った。 「なんということを」「先君の遺骸の温みも消えぬうちに、逃げ出そうとか」「なんのために、われらはここまで——」 「だまらぬか!」  あがった声より、さらにすさまじい怒声がひびきわたった。威力に圧されて、しんとしずまった顔をひとりずつ、大牙は押さえるようにねめつけた。 「——おまえたちのいうとおりだ。なんのために、こんな莫迦な戦をしたと、俺だって思う。〈征〉を牽制するはずが、後背の隙をつかれ、兄者も一歩の差で救えなかった……」 「それもこれも、あの戎族の口車に」 「他人の所為《せい》にするな」  ふたたび、激しい叱責《しっせき》が飛ぶ。 「たとえそうだとしても、やると決めたのは兄者と俺だ。許したのは父上だ。だいたい、子懐の暴挙を予測し得たものが、この場にひとりでもいるか」  その場の全員が、面を伏せた。彼らの不満は、このたびも主導権を羅旋にとられたという一事に尽きている。むろん、やつあたりであるのは、明白である。 「思うことがすべて図にあたっていれば、今ごろ逃げにかかっているのは魚支吾だった。だが、そうはいかなかった。だれの所為でもない。恨みたければ、天が〈奎〉を容れなかったのだと思え」 「——しかし、だからといって、父祖の地をお捨てになることは」 「では、〈征〉の大軍を相手どって、青城で全滅するか。したければ、そうしろ。俺は止めぬ」 「公子——いや、殿下はいかがなさる」 「〈琅《ろう》〉へ行く」 「——あのような、蛮地へ」  当然、反発の声が出るのは、大牙も十分予想していた。 「しかし、〈琅〉が受けいれてくれましょうか」  年長なだけあって、冀小狛だけが冷静な疑問を投げつけてきた。 「揺珠どのを無事に送りとどければ、とりあえずの身の安全ははかってくれよう」 「それから、後は」 「〈容〉か〈胥《しょ》〉へ」  夏氏の諸国のどこかなら、これまでのいきさつからしても、大牙を〈征〉へ引き渡すことはあるまい。武将として、大牙を欲しがる国もあるだろう。 「だが、確約はない。したがって、おぬしらの身柄の保証もできぬ。去就は、おのおのにまかせる。他国へ逃れるもいい、〈征〉に降りるもよい。後日、敵対することになったとしても、俺は恨まぬ」  一同、粛然となる中、大牙は一気に告げるべきことを話し続ける。 「兵卒たちは、元は農だ。土地からひき離すわけにはいかぬし、罰せられることもあるまい。彼らはここに置いて、今から出立する」  これからは、一刻をあらそう強行軍となる。足の遅い歩卒に文字どおり、足手まといになられては困るというのも、本音だった。 「今から? それでは、夜になってしまう」 「夜陰にまぎれた方が、おぬしらも去りやすかろう」 「公子——!」  だが、大牙はそれ以上、反論も質問も、当然のことながら諫めることばも聞く耳をもたなかった。単身でも、行くつもりだった。無責任かもしれないが、これ以外に生きのびる方途はないと思えた。  その背後に、剣や甲冑の触れあう音、足をふみならす音、一斉に立ちあがる音がわっと押しよせ、すぐに陣全体にひろがっていったのだった。  義京はまだ、いたるところから炎を噴きあげているようだった。  先頭に立ったのは、大牙の戦車と揺珠を乗せた温涼車《おんりょうしゃ》である。あるじを失った車を、足の弱い少女へ譲ったのだ。後へ、甲士を乗せた戦車の列が続く。が、それを守る歩卒と革車はない。余計な物資は、すべて歩卒へこれまでの報償として与えてきた。殿軍《しんがり》に羅旋のひきいる騎馬の一団がついたのは、落伍者を出さない配慮ではなく、単に先にたった場合、足が早すぎて大牙と離れてしまうからだった。  夜半、暗い天からぱらぱらと雨が落ちてきたが、大牙は二、三度、小休止をとっただけだった。夜明けに百花谷関をくぐるつもりなら、一夜中駆けさせても、まだ遅いぐらいだ。 「百花谷関が、開くだろうか」  巨鹿関とちがい、西の百花谷関は〈魁〉の直轄である。しかも、距離がある。子懐が王を幽閉し弑したという報は、守備の兵にも伝わっているだろう。だが、子懐が倒されたことまではどうか。  子懐が〈魁〉の実権をにぎったと信じている守備兵が、〈奎〉の、しかも武装した一行をあっさりと通すだろうか。 「通すさ」  淑夜ひとりをつれて、先頭へ出てきた羅旋が、こともなげにいった。 「それもまた、おまえの運とやらか」 「——守兵が義京の命令に忠実ならば、子懐の不義になんらかの抵抗をしている。なにもないということは、都からの命令が厳守されてないという証拠だ」 「都合のいいことばかり、いう」 「悲観しても、はじまらん」  たしかに、この漢がひとりいるだけで、妙に気が大きくなる。事実上の敗走であり、脱落者も出ほうだいの〈奎〉が、潰走にまでいたっていないのも、羅旋の姿があるためだといってよい。  そもそも、夜光眼を持つ羅旋がいなければ、公路ではあっても夜行するのは、困難だったろう。  行く手をさえぎる物の影をみつけたのも、羅旋だった。 「——人だな」  武装していないようだと、羅旋がみきわめてから、大牙の侍者たちが飛びだしていった。相手も、さして抵抗する気はなかったようだ。 「た、たすけてくれ。たすけて——。この先のようすを教えるから、助けてくれ」  声からして、壮年の男のようだ。 「危害をくわえるつもりはない。百花谷関に、何事かあるのか」 「関は、がら空きだ。みんな、逃げてしまった。ただ、〈衛〉の軍が……」 「〈衛〉?」 「げ——!」  問いかえした声の方向を見たとたん、男は魂切るような悲鳴をあげたのだ。 「む、無影——!」 「え?」「なに?」  小雨にちらつく炬《たいまつ》の光の輪の中に、淑夜の顔がおぼろに浮かびあがった。一方、男の顔の近くへも、炬が近寄せられる。雨と泥によごれた、みすぼらしい姿だった。顔だちは、この年齢の男にしてはやさしいが、すこし反《そ》った歯ならびが、卑しい印象を与える。 「あなたは」  腰をぬかして、あおのけにがたがた震えるばかりの男の前へ、超光に乗ったまま淑夜が進み出た。その声音で、相手が耿無影ではないとさとったのか、むこうも首をつきだしてくる。  おなじ一族なのだから、淑夜と無影には似かよったところもあった。が、それは三年も以前の時点の話だし、その頃でさえ取り違えられるほど似ていたわけではない。まして、今のふたりには決定的に違う点が、いくつもあった。 「ほほの傷がない。無影ではない……。と、すると、でも、その顔は耿の顔だ。おまえ、耿淑夜か。——わしは|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》だ、連姫の叔父の。逢うたことはないが、知ってはおろう」  無影とまちがえられたことで、それとなく思いあたっていた。が、淑夜がすぐに反応しなかったのは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の名にすくなからず反感をいだいていたからだ。 「——|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》?」  記憶に思いあたって眉をひそめたのは、大牙である。 「去年、その名を見たな、たしか」  敗走した利器はとらえられて、いったん青城へ護送されているのだが、大牙は見ていない。むろん、戦場で直接、顔をあわせたわけでもないから、印象がうすいのだ。 「前後のみさかいもなく、巨鹿関へつっこんできて、無影に見すてられた奴さ」  羅旋の記憶と評が、もっとも容赦がなかった。利器も、このせりふで相手を〈奎〉の者とさとったらしい。さすがに、顔を赤らめはしたが、かつての敵に対して今のおのれの境遇を恥じるどころか、とりすがってきた。 「ほんとうに淑夜か。生きておったか。ならば、たのむ、わしを助けてくれ。ともに連れていってくれ。守ってくれ」 「関の向こうが、どうしたんです。〈衛〉が、なぜ、こんなところまで」  馬からは降りずに尋ねたのは、単に、手間がかかるからだ。 「わしは、知らぬ。わしが牢を脱けたときには、棗《そう》へ行くといっていたようだ」 「牢——?」 「無影の奴め、わしを、半年も牢内にとじこめおった。連姫の叔父である、わしをだぞ。隙を見て逃れなんだら、殺されていたところだ。礼儀知らずにも——」 「失礼だが、〈衛〉がこの先にいると、何故知っている」  ぐちにつきあっている余裕はない。大牙が、きっぱりとさえぎった。 「見てきたからだ」  利器の話を要約すると、彼自身は、徒歩で山中を越えてここまで来たらしい。最初は義京へ行くつもりだったが、うわさで大変なことになっていると知り、西へむかった。東へ行かなかったのは、やはり昨年の一件が尾をひいていたのだろう。人のいなくなった百花谷関を易々《やすやす》とぬけて、〈琅〉へ出ようとしたときに、〈衛〉の斥候を見かけたのだ。 「まちがい、ない。わしは、あの軍の出立のさわぎにまぎれて、逃れたのだからな。それからというもの、草の根や泥水まで口にして、やっとのことでここまできたのだ。いまさら、捕まえられてなろうか」  てっきり、彼をとらえに来た追っ手だと思いこんでいるらしい。罪人ひとりのために軍をうごかすことなど、常識で考えれば有り得ないのだが、利器はおのれにはそれだけの価値があると堅く信じこんでいるのだ。  大牙たちも、敢《あ》えて逆らわなかった。彼らに今、重要なのは、〈衛〉軍が前方にたちふさがっているということだけだ。 「とはいえ、関の外はもう〈琅〉の領内だぞ。無断で〈衛〉軍が侵入はできぬ。それとも、〈琅〉が許可したか」 「それはなかろう」  いったん一行を止めて、主だった者だけ、十名ほどを集めた人の輪の中で、羅旋の夜光眼が底光りした。 「物見だけを出したのは、本隊は〈衛〉領内にとどまっている証拠だ。ここから南、十数里は、〈衛〉領の端だ」  炬で照らした地面の、ぬかるみの上に小枝で、手早く図面を描く。百花谷関から、まっすぐ横に引いた線が、〈琅〉の国都へ通じる公路。その、すこし下に描かれたちいさな円が、〈衛〉軍をあらわす。 「では、襲撃をうけることはないか」 「なんのために、こんなところへ軍を回したか、考えてみるんだな」  と、小枝を投げ出す。 「この状況を、どう察知したかは知らん。が、〈奎〉の弱り目をたたいておいて、無影が不利になることはないだろう。だいたい、このあたりの国の境は入り組んでいる。すこしぐらい深追いして、〈琅〉国内にはいりこんだとしても、不注意のひとことでいい逃れはきく」 「では、どうする。いくらなんでも、そろそろ支吾が巨鹿関を通過するころだぞ。百花谷関を出るにも、こちらは戦ができる人数ではないし——」 「では、むだな戦はせぬことだな」 「羅旋——!」 「〈衛〉にかまうなといっているんだ」  大牙が、喉もとにつかみかかってきたのを、鉄のような腕で無造作にはらいのけながら、羅旋は付けくわえた。 「おまえの目的は、〈琅〉へ行くことだろう。ならば、〈琅〉へ向かえばいい。全速力で、鼻先をつっきってやれ」 「——脇腹へ、攻撃を受けることになるぞ」 「車を極力、軽くすれば、追いすがられるまでの時をかせげる。つかまるとしたら、最後尾だな。これは、俺たちがひきうけよう」 「できるか」 「まかせておけ」  自信たっぷりに胸を張られては、大牙もそれを信じるしかない。他に、方法もなかったのだ。 「……ところで、あの男はどうなさる」  話がまとまったところで、冀小狛《きしょうはく》が背後の闇を透かした。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器のことを指しているのは明白だったが、連れていってやろうといいだす者は、皆無だった。淑夜ですら、そんな義理はないと思った。  当然のことながら、〈衛〉の間諜ではないかと疑って、殺しておけと主張する者もいたが、 「その気があるなら、ついて来させろ。それから先は、あやつの運だ」  仕方なく、大牙が投げ出すようにいって、決着がついた。 「あまいな」  羅旋が、ぼそりとけちをつけた。 「この先、つきまとわれるぞ。ああいう奴にかぎって、悪運が強いものだ」 「おまえと同様にな」  軽口をたたきあって、ふたりともすいとたがいに背をむけた。あいさつをするでなく、合図があったわけでもない。両者ともに、おのれのなすべきことだけは、しっかりと知っていたのだった。 (——耿無影には、いろいろと欠点もあるが)  報告をうけたとき、百来将軍は胸の底で、そうつぶやいた。 (先を読む才は、たしかだ)  百花谷関へ向かえとだけ命じられたときには、なにを考えているのかと思った。〈征〉の十万の大軍が動いたと知らされたのは、後から追ってきた使者によってだ。〈奎〉が巨鹿関から内に退いたこともつかんでいたが、あっという間に〈征〉にふみつぶされるだろうと、百来は予測していた。  それが、まがりなりにも隊形を保って、百花谷関を出たというのだ。それも、二百人以上いるという。敗残、逃亡というには整然としすぎている上、どうやら、〈奎〉伯かその周辺の者が統率しているようだという、物見の報告である。  無影の命令は、〈奎〉の一行を生け捕りにせよというものである。とらえて、どうするのか百来には見当もつかないが、無影には無影の思惑があるのだろう。 「行け」  百来は、かたわらの子遂《しすい》に攻撃の命令を伝えた。子遂は、すこしためらって、 「よろしいのでしょうか」 「なにがだ」 「あの、冉神通《ぜんしんつう》とやらいう方士——」  わざわざ、国都からつけられてきた術士だが、百来はこのたびは、意地でも彼の力を借りるつもりはなかった。 「よけいな気をまわすな。急ぐのだ」  関を出たといっても、そこからすぐに平地が広がるわけではない。巨鹿関とおなじように、しばらくは山中の細い道が続く。——相手が百花谷関を出てから、斥候《せっこう》が復命してくるまでには、時間がかかる。だが、すぐに行動をおこせば、向こうが平原にかかるころには、追いつけるはずだ。百来はそうみつもっていたし、それで正しいはずだった。  が——。  問題の一団を、百来が視野にいれたとき、その先頭はすでに、平原のはるか西へ消えようとしていたのだ。 「早い——」  思わず、百来はうなった。  待ち伏せが、さとられたのだ。むろん、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器がこんなところまで逃げてきているとは、想像もしていないが、策が失敗したことはたしかだった。 「いかが、なさいます」 「どうもこうもあるまい、攻めよと命じられているのだ。そうするしかあるまい」  さいわい——というべきか、逃げ切られたわけではない。このまま北進すれば、相手の最後尾にくらいつけるだろう。  旗が振られた。野兎を見つけた鷹のような突進が、早朝の風の中に始まった。  ——荷は極力、減らし、夜があけきるまでは百花谷関で休息をとった。一日、やりすごして、夜に出ることを主張する者もいたが、即座に羅旋に却下された。  灯火なしに夜道を行くことはできないし、火をともせば、追撃の際のかっこうの目標になる。 「目に見えていた方が、だましやすい場合もあるのさ」  義京からここまでの間、指揮をとっているのは大牙である。だが、その大牙が羅旋の意見を全面的に採用していることに対して、〈奎〉の将たちの間に、不満があることも羅旋は承知している。だが、敵意さえこもっている視線を、羅旋はかるく受け流した。  百のことばより、行動で示す方が彼にとっては簡単だった。だいいち、〈奎〉の士大夫がなにを騒ごうと、羅旋には痛くもかゆくもないことだ。 「先に行く連中より、すこし南を走れ」  騎馬の列には、そう命じた。 「申の方角(西南西)へ進路をずらして、わざと追いつかれたように見せる。俺たちに食いつければ、先の連中は見逃すだろう。だが、戦うなよ。まともにやって、かなう相手じゃない」 「——じゃ、どうするんで」 「逃げるのさ。戦車と馬では、速さがちがう。いざとなったら、全員、違う方向へ逃げる。どいつを追いかけたらいいのか、わからなくしてしまえ。別れたら、その先は好きにしていいが、その気があったら〈琅〉の国都へこい」  羅旋の指示は、乱暴だが簡潔だった。大柄な彼に、たくましい黒馬の上から鷹揚にそういいはなたれると、淑夜ですら相手の期待に応えたくなった。血の気の多い侠たちが、間髪をいれず、おうと応えたのも無理はない。 「落馬するなよ。なるべく、俺のそばにいろ」  淑夜のかたわらへ馬を寄せて、羅旋が声をかけてきた。 「命がけですから」  淑夜の場合、〈衛〉に捕らえられれば確実に命はない。さすがに緊張したおももちで、答えると、 「大牙といっしょに行かせてやればよかったんだが——相手が〈衛〉なら、おまえ以上の餌はないからな」  しらりとした顔でいいはなって、つい、と離れた。さほど激しい衝撃はうけなかった。大牙と、そして揺珠を無事に逃れさせるためなら、囮《おとり》だろうが餌だろうが、すすんでひきうける。が、それをはっきりと、正面から告げてくる羅旋の率直さ——悪くいえば、配慮のなさが、淑夜には重いものに感じられはじめていた。 「——来たぞ!」  百花谷関を出てまもなく、南の方角に砂塵があがるのが見えた。雨はあがって、見晴らしもよい。羅旋はおちつきはらって、〈衛〉の旗をたしかめると、わざと速度をゆるめ、他の連中にも同調させた。とはいっても、淑夜にはついていくのがやっとのことである。  羅旋の馬の右には、壮棄才がぴたりとついていた。この無口な男は、義京攻撃の際には城外へとどまったはずだが、いつのまにか羅旋のそばへ影のようにもどっていた。以来、いるのかいないのか、あいかわらずひとことも口をきかずにここまで来ていたが、馬をたくみにあやつりながら、不意に大声をあげた。 「七百歩!」  歩は距離の単位で、最強の弩《いしゆみ》の射程が六百歩(約八百メートル。一歩=一・三五メートル)ほどだといわれている。つまり七百歩は、弓の射程のわずかに外ということになる。  羅旋が、肩越しにふりむいた。相手は、斜めうしろから追いすがる格好になっている。むろん、兵の顔などは見える距離にはない。それとも、羅旋の特殊な眼にはとらえられたのだろうか。  先に行け、という風に手で合図を送ると、追風の速度を落とした。その手綱を持つ左手に、いつのまにか弓を添えている。次々とおいぬいていく味方を、ひとりひとり確認しながら、鞍に結びつけた靫《ゆぎ》から矢をひきぬいた。  ——なにを、と、淑夜が気づき、超光の足をゆるめさせた時には、羅旋は最後尾からさらに、ひとり遅れていた。上体をひねり、ふりむいた姿勢で、弓を満月のようにひきしぼった。むろん、手綱は離して、膝だけで追風の方向と速度を制御している。  敵は、まうしろについているのではなく、斜めから迫ってくる。当然、その騎影と、追っ手の先頭の戦車との距離は、みるみる縮まっていった。  その間、三百歩(約四百メートル)ほどだったろうか。ふつうの姿勢でも、なかなか矢の届く距離ではない。が、羅旋の放った矢は、朝日の中をきらきらとかがやきながら弧を描いた。先頭の戦車の御者が、のけぞったのはその直後である。  淑夜の周囲で、奇声があがる。同時に、背後からは、驚愕と怒りのどよめきが、大きなうねりのように押しよせた。  速度をゆるめて、やはり最後尾まできた淑夜に、羅旋はほこらしげに弓をふりあげてみせた。こんな場合だというのに、まるで悪童のような仕草だった。だが、淑夜は笑えなかった。〈衛〉の戦車の群れから、一台、猛然と突出してくるのが見えたのだ。  どうやら、右士を降ろしたらしい。御者と、弓をかまえた左士の姿しかない。人が減れば、その分、速度もあがる道理である。それに気がついて羅旋も、追風の脇腹を蹴りつけた。だが、それよりも、矢が弓を離れる方が早かった。  遠目にも髯の白さが目立つ、老将だった。にもかかわらず、相当な剛弓だった。そして、その狙いも正確だった。戦車上と馬上というちがいこそあれ、羅旋にけっしてひけをとらない腕だった。 [#挿絵(img/02_265-264.png)入る]  ——太い風鳴りとともに飛来した矢は、羅旋の腿をかすめ、追風の黒い、太い頸を貫きとおしたのである。 「あ——」  草の海の中に、馬の黒い四肢が突きたったように見えた。羅旋の姿が、消えた。淑夜は、反射的に超光の手綱を引いていた。その命令に従ったのか、それともこの馬自身の判断だったのだろうか。騅《あしげ》はくるりと方向を変えた。同時に、馬首をめぐらした者が、もうひとりある。壮棄才である。  が、それまでの距離と馬の能力の差で、羅旋のところへたどりつくのは、淑夜の方が早かった。  そこで、彼は信じられない光景を見た。  羅旋がふるった剣が、馬の頸動脈を一撃で断ち切ったのである。あれほどにすぐれた馬を、人間以上に大切にしていた生物の生命を、あっさりと奪ってしまったのだ。 「羅旋——!」  追風の血に汚れた腕が、すぐかたわらを疾風のように走りすぎる超光の手綱をつかんだ。人の目にはとらえようもない、早業である。淑夜がただ、馬のたてがみにすがりついているあいだに、羅旋の身体は超光の上、淑夜の背後にはねあがっていた。  そのまま、淑夜の肩越しに手綱を奪うと、ふたたび超光の頭の向きを変える。追風を射ぬいた戦車は、すぐ目前に迫っていた。もしも相手が二の矢をつがえていたら、今度は確実に羅旋か淑夜が命を落としていただろう。  戦車の射手の顔を、淑夜ははっきりと見た。おそらく、むこうも淑夜の表情を目に焼きつけただろう。それも一瞬のことだった。  文字どおり、戦車の鼻先から超光は身をひるがえした。そのあとへはしりこんだ壮棄才の手から、矢が戦車へと射こまれる。  矢ははずれたが、御者の顔をのけぞらせる効果はあった。  戦車の軌道がよろめく。速度が落ちる。羅旋の制御をうけた超光が、全力疾走にはいるには、わずかな隙があれば十分だった。  今までの距離はなんだったのかと思うほど、みるみる間隔が開いていく。ふと見れば、はるか北の方にも砂塵があがり、一隊の最後尾が消えていくところだった。  百来は、追撃をあきらめた。  目先の獲物に夢中になって、肝心の大物をとり逃がしたことに気づいたからだ。これ以上、追ったところで追いつけるまいし、下手をすれば〈琅〉が出てくる。明確に線をひいてあるわけではないが、すでに〈琅〉領内にかなりはいりこんでいるのは確かなのだ。〈琅〉と問題を起こしてもよいという指令を、百来はうけていない。 (——あれは、たしかに耿淑夜の顔だったな)  馬に乗り、戎服を着てはいたが、百来の主君と似たおもざしには、記憶があった。 (取り逃がしたと報告したら、叱責はまぬがれまいな)  だが、仕方のないことだとあきらめるゆとりを、百来は持っていたのだった。  中原を騒がせた者たちが、西へ去るうしろ姿を、こうして百来は見送ることになったのだった。 [#改ページ]  終 章————————覇者の時代 〈征《せい》〉公、魚支吾《ぎょしご》が義京《ぎきょう》にはいったのは、姑洗《こせん》(三月)十五日。 〈奎〉が去ってから、五日以上も経ってからのことだった。  巨鹿関《ころくかん》の前で、支吾は慎重を期しすぎたのだ。結局、彼の決断をうながしたのは、放った斥候の報告ではなく、追いついてきた漆離伯要《しつりはくよう》のことばだった。 「なにをしておいでです。これは、殿下をここに釘づけにするための詐術です。しかし、もう——手おくれでしょう」  その言どおり、七星宮《しちせいきゅう》の主殿が焼け落ちた前に、こうして支吾は立っていた。  子懐《しかい》の死は、たやすく確認できた。彼の首は、南斗門《なんともん》に懸けられていたからだ。身体の方は、その門の下に埋められていたのを、掘り起こした。首をさらしたのは羅旋《らせん》のしわざだったが、支吾にはそうと知る方法もない。同様に、今、彼が踏んでいる石畳の傷痕が、子懐が残した唯一のものだと、知るよしもなかった。 「見る影もないな」 「人民も、かなり逃げ散っているようです」  感慨もなく、冷静な口調で答えたのは漆離伯要。逃げたのは民だけではないし、他にも類焼した建物も多い。城内の民家もふくめて、義京はかなりの打撃をこうむっていた。 「至急、再建の必要があるな」 「それは——いかがでしょう」  と、めずらしく、伯要が主君にさからった。 「しかし、義京は王都だぞ」 「〈魁《かい》〉の都でした。ですが、〈征〉の都である必要はありませぬな」 「ふむ——」  支吾のするどい眼の中で、暗い光が躍る。 「例のものさえみつかれば、見捨ててもよい土地です。ここは、守るにはよい土地かもしれませぬが、外へ攻めて出るには不利な点が多くあります故」 「考えておこう。——まだ、みつからぬのか」 「王宮、離宮、太宰《たいさい》の邸、あらゆるところをさがしていますが」 「——すでに、持ち去られたかもしれぬな」  支吾は、西の空を見た。ひさしぶりにからりと晴れあがった空は、黄昏《たそがれ》をむかえて、血のような朱《あけ》に染まろうとするところだった。その空の下にいるはずの者のことが、ちらりと支吾の脳裏をよこぎったが、それも一瞬のことだった。  今の彼には、やらねばならない仕事が、山ほどあるのだ。 「なければ、なくてもよい。〈魁〉は滅んだのだ。わしは、わしの力で王となる」  それよりはるか南、〈衛《えい》〉の国都、瀘丘《ろきゅう》では、無影《むえい》が百来《ひゃくらい》の報告を聞きとっていた。 「そうか、逃げられたか」  処罰を覚悟していた老将には、これは意外な反応だった。細面の若い主君はめずらしく、遠い視線をおよがせてうなずいたのだった。 「——中に、耿淑夜《こうしゅくや》の顔を見ながら取り逃がしたのは、まことに口惜しいやら、申しわけないやら。謝罪のことばもございませぬ」 「よい。これも、あいつの天命だろうよ」  武装のまま平伏している百来の耳に、どこかほっとした響きが伝わったのは、気のせいだろうか。 「ご苦労であった。ひきとって、休むがよい。将兵にも、十分な休養を与えるよう」 「は——」  意外といえば意外な反応つづきにとまどいながらも、百来は〈衛〉公の前を辞した。退がりながら、ちらりと見た無影の表情もまったく平静で、なにを考えているのか、百来には推察のしようもなかった。  これでひとりになったら、怒りを爆発させるのだろうか。それにしては、感情に耐えているような気配もみあたらないが——。  どちらにしても、彼はあれこれ思い迷う立場にはない。彼の任務は、兵を休め、いつまた戦の命令がくだってもよいように、〈衛〉軍を整備しておくことだけだった。  夕刻の黄色味を帯びた光の中に、無影はひとり、とりのこされた。百来の不審もとまどいも手にとるようにわかっていたが、期待に応えて激怒する気にはなれなかった。 「生きていたか——」  決して、無影自身は認めなかっただろう。だが、淑夜が生きており、〈琅《ろう》〉へ向かうところを目撃された事実が、無影の暗い精神のどこかに風穴をあけたのはたしかだった。 「〈魁〉が滅んだか。中原《ちゅうげん》に、王がいなくなった——ということは、これ以後は誰が王となってもよいということだ」  おそらく、〈征〉公がさっそくに、王を僭称《せんしょう》することだろう。だが、〈魁〉王から譲られたわけでなし、強奪したわけですらない。しょせんは僭称、無影の公位と同様である。 「ならば、私も王と称してみるか」  中原に、複数の王が立つことになる。が、実力さえあれば、やがてだれかが生き残り、真実、ただひとりの王となるだろう。そうなれば、中原に新しい秩序ができる。かつて、耿家の春の李園で熱っぽく語った、理想の世の中も作れるかもしれない。 「そうなったら、淑夜、おまえはどう思うだろうな」  だが、今は淑夜は、遠い〈琅〉国にいて、無影の思惑など知りようもない。  後苑の香雲台《こううんだい》あたりからだろうか、風にのって李《すもも》の花片《はなびら》が二、三枚、無影の足もとへ舞いこんできた。  無影は、ようやくおとずれた江南の春の中で、ただひとりだった。  そして——。  淑夜もまた、あたらしい道へふみだそうとしていた。羅旋と大牙《たいが》が、袂《たもと》を分かつことになったためだ。大牙が〈容《よう》〉へ向かうと告げたのに対して、羅旋は同行を拒否したのだ。 「俺は、報酬分のはたらきはしたはずだし、これ以上の義理はない。おまえの〈奎〉再興にも、興味はない。俺はしばらく、〈琅〉のあたりをうろついている」  気負いもせず、かといって大牙の感情を気づかうふりもせず、いいはなった。  すでに、〈琅〉の国都へは使者を送り、彼らを迎えいれる旨の確約も得ている。百花谷関《ひゃっかこくかん》で〈衛〉の追撃をふりきった一行は、それまでの疲れを癒すように、一日二十里弱のゆっくりとした行程で〈琅〉の国都へむかっていた。それほど、皆、疲れきっていたのだが、それもあと一日ほどで到着する予定だった。国都から迎えの者も派遣されてきて、揺珠《ようしゅ》の身柄は彼らにゆだねたところだ。羅旋にしろ大牙にしろ、責任をひとつ肩からおろして、さて、これからどうするかという話になったのだ。 「来てくれる気はないか」  と、大牙はいった。伯位を継いだものの、国土も財も民もないことは、彼も自覚している。大牙にしては辞を低くしてきりだしたのだが、反応はにべもなかった。また、大牙もそれで怒りだすようなことはなかった。 「俺は、かたくるしい中原より、〈琅〉みたいな辺地の方が、性に合っている」 「そうか、やはりな」  苦笑いをうかべながらうなずいたが、そのままの視線を淑夜へ向けたのだ。 「おまえは、どうする」  ここのところ、急に無口になっていた淑夜を気づかったことばだったのだろう。それが、淑夜の鬱屈の堰《せき》をきることになった。 「——ひとつ、羅旋にたずねたいことがあります」 「なんだ、あらたまって」 「——なぜ、冰子懐を殺したんです」  妙な顔をしたのは、大牙。羅旋の表情には変化はない。あいかわらず、どこか間延びした、悠然たるおももちだ。 「殺す必要はなかったはずです。捕らえる余裕もあったし、放置して逃げるにまかせてもよかった。どちらにしても、長い生命ではなかったはずです。〈征〉が——」  次第に早口になり、もつれかけたことばをととのえるように、いったん息を切る。 「〈征〉公が、冰子懐を許さなかったでしょう。たとえ、手を組んでいた相手だとしても、いえ、だからこそ、子懐を殺さなければ大義が保てない。表向きだけにせよ、大義を通さなければ、〈征〉公には中原を統べる資格どころか、一国のあるじとしての信望もなくなりますから。だとしたら——」 「子懐を見逃していたら、どうなっていたという」 「士羽《しう》さまを助けられたかも——」 「淑夜、あれは、どちらにしても手遅れだった」  大牙がはさんだ口に、しかし、淑夜ははげしく首を振った。大牙は、羅旋のあのせりふを聞いてはいない。 「個人的な恨みがなかったと、いえますか」 「怨恨——?」 「赫延射《かくえんや》将軍を殺した者への、復讐です」 「おまえに、責められるいわれはないと思うが」  はじめて、羅旋が低く応えた。 「たしかに。ですが、私は無影を倒すために、一国を滅ぼすつもりはありません」 「ちょっと待て、淑夜。おまえ、なにをいっているのか、わかっているのか」  大牙が半身になって、両者の間へわりこんできた。それを押しもどしたのは、羅旋の腕である。 「かまわん。いわせてみろ」 「——あなたは、ことのはじめから、冰子懐を狙っていたんです。だから、仇を討つ絶好の機会を見逃す気はなかった。巨鹿関の戦もそのあとの動きも、子懐の意図をくじいて追いつめるためだった。〈奎〉に肩入れしたのも、あおってその力を利用したかったからだ。老伯も士羽さまも、その犠牲になった。——ちがいますか」  矛盾するようだが、淑夜は否定の回答を期待していた。切望していた、といってもよい。うそでもいいから、ちがうと羅旋の口から聞きたかった。聞いたところで、彼への不信感がぬぐいきれるものではないが、それでも一時の気休めになると思ったのだ。だが、 「そう、ともいえるな」  羅旋は、つぶやいた。太い眉ひとつ、うごかさず、平然と淑夜の疑いを肯定してみせたのだ。 「羅旋——!」 「そう思いたければ、好きにすればいい。他人の思惑で、俺のやることが左右されるわけじゃない」 「わかりました」  淑夜の線の細い面が、きっとひきしまった。 「あなたは、自分の目的のためには、だれでも犠牲にできる人だ。利用する価値がなくなれば、だれであっても、生死をともにした仲間でも、私たちでも平気で見捨てる——追風《ついふう》を、斬ってすてたように」  いいたいことはまだあったが、それ以上は、感情がことばを圧倒してしまった。そのまま座を立つと、淑夜はまとわりつく草に足をとられながら、まっすぐに歩きだした。  どこへ、というあては、むろん、ない。一行から離れる気もないし、だいたい、左足をひきずりながらでは無理な話である。ただ、羅旋の平然とした顔を見ているのに、耐えられなかったのだ。  もっとも、天幕があるわけでなく、起伏のすくない草原のあちらこちらに、思いおもいに散って休んでいる状態では、姿をかくす場所もない。かろうじて、姿は遠くに見えてはいるが、だれの声もとどかない距離まで歩きぬいて、淑夜はようやく足を止めた。  正確にいえば、息がつづかず、その場にたおれこんだのだ。しばらくはあおのけに寝ころがったまま、なにも考えられず、暮れ方ちかくの色のあわい天をただ、しばらくはぼんやりと見ていたのだが。 「少しは、頭は冷えたか」  脚からまず、視界にはいってきた。  大牙がかたわらへ座りこむ気配を知っても、淑夜は起き上がる気になれなかった。 「おどろいた。おまえが、あんな短気だったとは思わなかった」 「短気なんかでは、ありません」 「では、なんだ」 「大牙さまは、腹がたたないんですか」  上体だけを跳ね起こして、淑夜は叫んだ。まだ、さっきの感情の爆発の残滓《ざんし》が胸にわだかまっているようだった。淑夜は、真相を知れば大牙が真っ先に怒りだすと思っていたのだ。彼がうしなったものは、淑夜よりももっと大きいはずだ。  だが、かえって羅旋をかばうそぶりさえ見せるのは、どうしても納得がいかない。淑夜の怒りは、大牙へもむかわざるを得なかった。  だが、大牙はあくまで冷静だった。 「羅旋に、裏切られたと感じたんだろう。耿無影に裏切られたように」 「大牙さま……」  自分でも気づいていなかった図星をさされて、絶句したところへ、さらに大牙はたたみこむ。 「腹はたてている。自分の力のなさや、天命の不条理さにはな。たとえば、親父どのがさっさと兄者を太子にたてていれば、こんなことにはならなかったかもしれないとか、な。だが、今さら、それを口にしてなにが変わる」 「しかし——」 「羅旋が、この機会に仇を討てたのなら、不幸中のさいわいというやつだ。——なあ、こういう考え方はできぬか。魚支吾が冰子懐を殺せば、支吾は逆賊を討ったことになる。大義は我にありと、支吾は喧伝《けんでん》する。羅旋は、それを阻止したのだと」 「あ——」  冷水を浴びせられたような気がした。 「物の見方は、ひとつではない。羅旋が私欲だけで事を図ったようにおまえはいったが、真実そうなら、こんなものを俺にはよこさなかっただろう」  さしだされた大牙の手の中には、半透明の白い玉石が載っていた。あまりにも無造作にむきだしにされたそれを、淑夜は何気なくとりあげ、下になった平面を見てふたたび絶句した。 「——玉璽《ぎょくじ》」  裏文字にはなっているが、『受命於天《じゅめいおてん》』の四文字はたしかに読みとれる。一度、遠目に見た印影の大きさともほぼ合致しているし、上面の彫刻も話に聞いたとおりである。なにより、淑夜はこれを、羅旋が冰子懐の遺骸からとりあげるところを見ている。真四角であるべき印面の一角が、爪の先ほど缺《か》けているのは、羅旋の剣が当った痕跡だろう。 「今ごろは、支吾あたりが血眼になってさがしている代物だ。うまく使えば、武器にもなる。大事に持っていろといってな」  淑夜には、いうべきことばもなかった。かなわないと思った。勇猛で激情の持ち主である大牙が、冷静に人を見る目をもあわせ持っていたとは、思っていなかった。考えてみれば、彼もまた段之弦の子、段士羽の弟なのだ。 「——どうする。羅旋に謝る気なら、そういってやるが」  だが、不信をああはっきりと口にしてしまえば、淑夜も後へはひけない。 「そのことなら、笑っていたぞ。おまえもなかなか、物が見えるようになってきたとな」 「まったく——かないませんね」  淑夜も、ようやく苦笑をうかべる余裕ができた。 「もどる気になったか」  だが、淑夜は首を横に振った。 「——それが、羅旋とともに〈琅〉へ残るという意味でしたら。どちらにしても、〈琅〉へとどまるつもりはありません」  いったとき、脳裏に揺珠の淡い面輪がよぎったかもしれない。士羽の最期のおり、支えかばってやっていた少女の細さとあたたかさを、彼の腕は無意識のうちに記憶していたのだ。不謹慎な話かもしれないが、淑夜にとっては彼女が、はじめて触れた婦でもあった。だが、今は彼女は〈琅〉公からの迎えの者とともにある。この草原の一角にいるが、天の端と端ほどに離れているのと同じほど、遠い人となってしまった。また、その想い自体も淑夜自身、それと自覚していなかったし、なんにしても、この単調な草原の景色の中では人を想うことはむずかしかった。 「では、どうする」  暁華《ぎょうか》が〈衛〉に去った今では、彼をかくまってくれる場所はほとんどない。そのためらいをみすましたように、 「俺と来るか」  大牙は、たたみかけた。 「〈容〉へ、ですか?」 「まあ——安全は保証できぬが。おまえの才は、俺も認めている。〈奎〉の再興には、ひとりでも多く、人材が欲しい。まずは、山中に避難させてある鴻《こう》兄者や、士羽兄の妻子も無事にひきとる仕事があるしな——」 「役にたてるか、わかりませんよ」 「それは、俺もおなじだ。身ひとつで、逃げていくのだから」  この表現は、すこし大仰だったかもしれない。少なくとも、将軍、卿大夫といった者らが五十人は大牙にしたがってきているのだ。  それも、悪くないかもしれない。すくなくとも、〈琅〉のような辺地で、羅旋やその手下の無頼たちとともに目的のない日々を送るよりは、よほどましというものだ。  淑夜は、無言のままうなずいた。ふりあおいだ天は黄金朱《きんしゅ》に染まり、今、草原の地平に巨大な日輪がしずもうとするところだった。 「——たいへんな時代になるな」  大牙が、つぶやいた。 「華《か》を統べるべき秩序は、すでにない。これからは、力だけがものをいう時代だ。さて、はたしてだれが中原にふたたび覇をとなえ、最後の勝者になるのかな」  他人ごとのような口ぶりだが、そうなりたいと大牙が望んでいるのはたしかだった。ならば、士羽のかわりに彼を、王にするのもおもしろいかもしれない——。  だが、それはまだ、淑夜には手のとどかない夢のひとつであったのだ。  ——〈魁〉が滅び、それに殉《じゅん》ずるように〈奎〉も失われ、華はその中央に大きな空白を生じた。そして、これからの混沌の時代は、長く続くものと、だれの目にも見えたのだ。 〈魁〉の衷王、十六年、春のことであった。 [#改ページ]    あとがき  五王戦国志、第二巻をおとどけいたします。予定よりすこし遅くなってしまいましたこと、まず、おわびいたします。一巻目、予想以上の手ごたえをいただきまして、さて、とがんばってみたところ、あっという間に話がふくらんでしまいました。もっとも、前回の場合、事情で極端に枚数を切りつめる必要があり、物語が必要以上にスリムになったきらいもあったのですが。  とにかく、ごらんのとおりの展開となりました。  物語の進行は、まったく当初の予定どおりなのですが、これだけ書いても、主要人物の行動を追うだけでせいいっぱいです。もっとも、ひとりひとりに言及していたら、話はいつまでたっても終わりませんので、きりのよいところでまとめて、あとは次巻のお楽しみにしていただくしかないわけです。未熟者は、仕事をしながら勉強の毎日です。  ともあれ、また、こうして一冊の本をお目にかけることができました。思うことをどれだけ伝えられたか等、いろいろ不安はありますが、今はただ、冗漫になっていないことを願うのみです。  さて、ここでおわびを。  一巻目で、揺珠が十歳の王太孫に嫁ぐと書きましたが、これは五歳の誤りです。単純な計算ミスなのですが、二重三重のチェックをくぐりぬけてしまいました。二版から訂正してありますので、ご容赦ください。  それから今回、使用した文物の中で、攻城用の投石機は、本来は漢代後期に登場するもの。多少の無理は承知で、登場させました。ちなみに、投石機のことを「砲」といいます。大砲が火器であるにもかかわらず、石扁なのはこのあたりに由来しているそうです(もっとも、火扁の「炮」という字もあります。現在の中国では、大炮と書くようです)。  また同様に、蜜蝋が使用されるようになったのも漢代末期です。蜂蜜から蝋を分離する技術がなかなか開発されず、蝋燭が作られるようになったのは、意外にも晋代になってからのこと。油燈にくらべて、蝋燭は煙も匂いもないため喜ばれたのですが、宋代になっても相当なぜいたく品だったようです。  晋から宋まで、なんと千年ちかくの時間が経過していること、また、他の技術の発展と比較すると、人間の技術とはいったいなんだろうと、考えさせられてしまいます。  まるで中国科学技術史のようになってしまいましたが、ことのついでにもうひとつ。  実は今回、登場させそこねたものの中に、発火装置があります。一般には軟木の摩擦か、石と金属とを打ちあわせるか、なのですが、いまひとつ、陽燧《ようすい》とよばれる金属の凹《おう》面鏡がありました。  これは凹面で太陽光を集め、焦点で火を点けるという方法。オリンピック聖火採取がこれとおなじなのですが、陽燧の場合、手の中に握れるぐらいちいさな携帯用だそうで、紀元前から使われていたのは意外な気もします。ただ——この方法は、夜襲や日蝕の場面では役に立たないのが道理で、話中では使用できませんでした。  ちなみに、文中の日蝕のシーンを書いた翌朝が、ちょうど部分日蝕にあたっていました(いつ書いていたか、わかってしまいますね)。寒い中、しばらく観察したあげく、ねむい目をこすりつつ、書きなおす羽目になったのは、不幸だったのか幸運だったのか。  さらに余談ながら、日蝕が太陰暦の朔日《ついたち》に起きるものだと確認したのも、この時です。日蝕のメカニズムを考えれば当然の話なのですが、角度を変えてものを見てみると、世の中、けっこうおどろきに満ちているとつくづく思ってしまいました。  もっとも、今の私にとっての一番の驚異は、かるい気持ちではじめた物語が、腕にあまるほど大きくなってしまったことですが。  とりあえず、話中の時間は、いったんここで小休止となります。三巻目は、これから二、三年後から始まることになるはずです。物語全体からいえば、序破急の、序の部分がようやく終わったところ。のこりの部分も設計図は出来あがっているのですが、果たして、寸法どおりに完成するかどうか、はなはだこころもとないこのごろです。おそらく、かなり大きなものになるのは、目に見えているのですが、とにかく最後まで語る努力は続けたいと思います。  三冊目は年内におとどけできる——といいたいのですが、あまり守れない約束はしないことにして、筆をおかせていただきます。  最後になりましたが、ご協力いただきました関係者各位に感謝を。そしてこの本を手にとってくださった方にも、お礼申しあげます。 [#地から1字上げ]一九九三年二月          井上 祐美子 拝 [#改ページ] 底本 中央公論社 C★NOVELS  五王戦国志《ごおうせんごくし》 2 ——落暉篇  著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》  1993年3月25日  初版発行  発行者——嶋中鵬二  発行所——中央公論社 [#地付き]2008年8月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・謚《おくりな》 ・諡《おくりな》 ・きろりと眼をうごかし ・燎火《かがりび》 ・燎《かがりび》 ・葦毛《あしげ》 ・騅馬《あしげ》 ・騅《あしげ》 置き換え文字 唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42 祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71 |※《かとりぎぬ》 ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17]補助漢字と共通「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17 |※《き》 ※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28 |※《しん》 ※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88 |※《ぶた》 ※[#「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1-84-28][#「彑/(「比」の間に「矢」)」 耿|※《き》 ※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]「火+軍」、第3水準1-87-51